見舞客3
恵子は果物を買うと言った。行く途中にあるスーパーマーケットで済ませるのかと思いきや、行きつけの八百屋があるのだという。そう遠く無い距離とは言われたが、一度病院を通り過ぎて戻って来なければいけない。見舞いの品は花でも菓子折りでも、特にこだわりは持っていなかったが、恵子に言わせると「絶対フルーツです」とのことだった。病室が明るくなるし、果物はそれ自体が独立したヒーリングスポットなのだそうだ。意味はわからなかったが、確かに子どもには花よりも果物がよく似合うような気がした。花は食べられないが果物は食べられる。しかも花に劣らぬ見栄えの良さなのだから無駄がない。なるほど、理に叶っている。
その八百屋には確かに目を引く果物が並んでいた。普段、給食とカップラーメンばかりの木村の食生活ではすっかりご無沙汰の果物。その蠱惑的な形状と照り返すような原色にしばし心を奪われた。カホリは一つ一つの果物を、匂いを嗅いで選別した。まず、その匂いへのこだわりに心を揺さぶられた。感心したというよりも恥じるような気持ちが強い。不衛生を自認する木村にとって、天敵と言っても良い相手だ。それと、匂いを嗅ぐその仕草。それは古代から延々と受け継がれる美の相乗効果とも言えよう。果物と美女、という究極にして単純な構図は否が応でも男心をくすぐった。言うまでもないが煩悩は封印したのだ。こんなことなら早く病院へ行ってしまいたい。そう願わずにはいられなかった。
だが、願い通りにベッドで眠る教え子の姿を目にした途端、すべて嘘であってくれと懇願した。朝からの出来事すべて。恵子の訪問も、八百屋でのひと時も、教え子の痛々しい姿も……そして何より、目の前にいる少年の父親、平静を装ってはいるが、一夜にして別人のようにやつれてしまった気の良い父親。もし願いを一つ叶えられるならば、自分の命を犠牲にしてでも、この父子の幸福を取り戻してやりたかった。
だから急に病室の扉が開いて見覚えのある少女が飛び込んで来た時、なぜだか救われた思いがした。少女の顔に生命力の兆しを見て取ったからなのかもしれない。突飛な考えだが、少女の顔は果物と同じ輝きを放っているように見えた。少女にとっては果物扱いされてたまったものではないだろうが、その内にみなぎる無尽蔵の甘酸っぱさが至極果実的な印象を与えたのだ。その少女というのは、木村のクラスの中でも飛び抜けて魅力的な、カホリと呼ばれる女子生徒であった。
「先生……!」カホリは木村と恵子を交互に見て、そう言った。
「おお……」思わず木村は答えた。「どうした? カホリじゃないか」
「すみません、無理言って通してもらって……」カホリは吸い寄せられるように二人の教師の間に入り、恵子の方の腕を掴んだ。母に甘える仕草に似ていた。
「ガイもか」木村が言った。
「へへ、どうもどうも」とガイが入って来る。「うちの従姉妹が看護婦やってるんで、特別に入らせてもらったんです」
「ガイくん、よく来てくれたね」もう一人の大人が言った。「息子の友達が来たら通してやるように言ったんだけどね、最近はなかなか融通が利かないみたいでね、でも、とにかく来てくれてありがとう。でも、心配するほどのことじゃないよ。ただ、眠ってるだけ、みたいなものだから」
ジンケの父親だ。カホリは初対面だった。
「カホリちゃんかい?」達郎は言った。「わざわざ来てくれてありがとう。こんな美人さんが来てくれて息子も喜ぶと思うよ」
突然のお世辞にも反応できず、カホリはただ無表情に会釈するだけだった。早く気づいて欲しい。ガイの異変に。あのゴム風船のように気の抜けた顔を見れば、あとは大人たちがなんとかしてくれるはず。
「おじさん、ジンケ眠ってるんですか?」ガイが言った。声が急激に近づく。教師とカホリの間を割って入った。すれ違いざまに横顔を一瞥する。いつものガイ。ギラついたえびす顔と評される、あまり直視したくないガイ本人の表情。
「ああ、眠ってる。原因はよくわからないんだ。ほら、ちょっと変わってるだろ、うちの子。全く困ったもんだよ」
「おーいジンケー」ガイは病人に迫る。「いくら冬休みだからって寝すぎじゃねえのかー?」
大人たちはどっと笑う。冷めていた室内が二、三度上がったように感じる。しかし、カホリだけは笑えない。恵子の腕をぎゅっとつかみ、なんとか引きつった笑みを作ろうと努力する。
恵子だけはカホリの異変に気がついた。痛いほど腕につかまり、そんなに外が寒かたのだろうか、かわいそうに、震えている。顔は……心なしか青ざめて見える。病的に見えるのは美少女の特徴だろうか。いつだったか、雨の中を車に乗せてあげた時はもっと笑顔が印象的だった。思春期の少女は内面が日ごとに変化するのは恵子にも経験があるが、この子犬のような震え方は気になった。やはり具合が悪いのだろうか……。
「じゃあお父さん、私たちはそろそろ」と木村が切り出す。「何かあれば遠慮なく言ってください。暇だけはたっぷりありますから」
「ありがとうございます。こんなに立派な果物まで頂いて……」達郎は答える。「あ、お昼どうですか? よかったらですけど。ほら、ガイくんたちもどうだい? お昼まだだろう?」
木村と恵子は顔を見合わす。瞬時にいくつかの意志のやりとり。最終的には互いが軽くうなづくことで同意を得る。
ガイ、「お昼」の意味をつかめないのか、顔の筋肉を弛緩させ、蝋人形のように動かない。これだ、この顔を見て……カホリは願う。大人たちは「病院の最上階の食堂がーー」とかなんとか喋っていて見向きもしない。私が「ほら!」と指差せば皆見るだろうが、歯向かうような真似はしたくない。だって、演技を止めたガイの顔、こんなに恐ろしいのだから……。
「ガイくんたちも行くだろう?」再び達郎は聞いた。
「だいじょうぶです!」ガイは答えた。「俺もカホリも食べてきました。もう腹いっぱいです。ほら見てくださいこの腹、パンパンでしょう?」
おそらくリップサービスのつもりだったのだろう。ガイに似て非なるものとしては、覚えたての英単語を使ってみたくなるような感覚で人間のジョークを試してみた。「ーーこの腹、パンパンでしょう?」の後に自らの太鼓腹を晒すことによって人間独自の共感覚『笑い』というものを感じてみたかった。さらに腹を出すということは、哺乳類の一部では服従を意味する。さりげなく服従して見せるのは後々何かと都合の良い結果を生むのではないか? と考えたのだ。
だが、ガイの腹を見た父親、カホリ、教師二人は笑うどころではなかった。驚愕に息を飲み、それが何かの見間違いであるかの如く、何度の目をしばたいた。
ガイの腹は見る者を圧倒した。たとえ力士でもこれだけの腹はない。それにギャップがひどかった。シャツをめくり上げる前には、これほどのボリュームはなかったのだ。あるはずのない腹が、あるはずのない隙間から、ぼろんと出てきた。まるでイリュージョンではないか。これが本当ならば、真っ先に病院に行かなければいけないのはガイだ。
「ガイくん……」達郎が言った。
他に誰も何も言わない。ただ、同じ色をした目が、ガイのでっぷりとした腹を見るだけ。カホリだけが奇妙に安堵していた。これでわかってもらえた。ガイが普通じゃないってことに。何か救われた思いで、大人たちの困惑とは裏腹に、カホリの震えは止まりかけた。
「冗談ですよ、冗談!」ガイはそう言って腹をしまった。
あんなに目を覆うほどの腹が嘘のようにシャツの内側に収まった。「なんだ冗談か」と大人たちは限りなく自己防衛反応に近い理屈で信じ込んだ。というより、そう努力した。カホリは再び震え出した。「だめ! 見たでしょ! お腹があんなに出るなんて、絶対にありえないんだから!」とカホリは心中で叫んだ。言葉にできればどれだけ良いか。でもできない。できないものはできない。「冗談だった」と信じ込もうとする大人たちを心の力で押し返すしかない。バカみたいな話だが、この病室の中では意識と意識のぶつかり合いが目に見えるようなのだ。見えているのはカホリとガイのみ。カホリはずっと戦っている。ガイは獲物を生かして弄ぶ。誰か、一人でも良い……お願い力を貸して!
だが、その願いとは裏腹に三人の大人は去った。病室には三人の子どもが残った。眠るジンケ、怯えるカホリ、ガイに似て非なるもの。大人たちは胸のつかえが取れたわけではない。しかし、「子どもは子ども同士で」という無理矢理な理屈で場を収めたのだ。これが社会的経験値の弊害だった。直感を軽んじ、秩序を重んじる、後の祭りの黙認行為。
もうどうでもいい。とにかく逃げよう。じわじわと噛み殺されるならば、この身をちぎり捨ててでも一時の安心を得たい。どうしたって子どもは守られたいものだ。守られて然るべき存在なのだ。私は全力でそれを主張する。
カホリが後ずさりを始めた瞬間、次にはその身を反転させ、脱兎の如くドアを通り抜けるはずだった刹那、ガイのずんぐりとした背中が喋った。
「カホリ……俺は後ろにも目があるんだど」
凍りついた。これもあいつなりのユーモアなのだろうか。後ろにも目がある。これは正確な表現ではなかった。正しくは、視界が広いんだぞ、草食動物並みに広いんだぞ、こう言いたかったのではないか。カホリの肉食獣的な立体的両眼視野に飛び込んできたのは、まさにガイの目玉だった。耳の上、ちょうどこめかみの位置に、もみあげの毛を押しのけ草食動物というよりは魚類、まるで出目金のように眼球が飛び出している。
悲鳴など出ない。それどころか、もう一生声が出せないのではないかと思うほどの恐怖が全身を硬直させた。気が遠くなる。このまま意識を失ってしまいたい。だが、カホリの意識のごく一部だけは定点カメラのようにこの異常事態を俯瞰していた。ずっとそうだったのかもしれない。他の意識が眠りについたせいで浮き上がって感じる。この意識には感情がない。ただ、俯瞰し、傍観し、記録するだけ。真の絶望とはこのことを言うのだろうか。まだまだ生き足りないけれど、それほど悪い人生じゃなかった。カホリは音もなく忍び寄る、死の気配を感じた。




