見舞客2
ガイはただれた(確かにカホリにはそう見えた)手を大事そうに小脇に挟み、人目を避けるようによろよろと歩いた。だが目的があるわけでもなく、近場の壁に背中を丸めるように張り付いた。
「ガイ……?」カホリは声をかけた。
ガイはそのずんぐりとした背中を丸め、怯える小動物のように震えている。その姿を目にすると自然と申し訳ないような気持ちになったが、本心では精神的被害を訴えたいくらいだった。あんなもの見させて……あんなもの? いいえ、きっと私の見間違いだわ。それでなければ、きっとひどいアレルギー持ちなのよガイは……。
「……だいじょうぶ?」カホリは声をかけた。
ガイは突然駆け出した。一目散に外に向かう。明らかに、全身が、「ひどいことされましたよ!」と訴えている。べそっかきで卑屈な幼児の走り方だ。
ーー私は何も悪いことはしていない! そう叫びたかった。だが、理性は上でありたい。あんな、幼稚な、勘違い野郎に非難されるいわれはない。だから後を追いかけた。理性的に、決して駆け足にはならず、追い詰めるように外に出た。
ガイは門の手前にいた。きょろきょろと辺りを見回していた。カホリは気づかれないように、彼の後ろについた。
「残念だったわね」カホリは続けた。「私、受付に花束お願いしてきたけど、ガイはどうする? 置いてきてあげようか?」
優しい言葉は心の余裕だ。だが、この態度は気に食わない。完全に無視ではないか。さも忙しいとでも言うように、まるで荒野のミーアキャットのようにきょろきょろと首を回している。何なのだ一体……。
「こっちのが近道だ」突然ガイが言った。
「え?」
言うや否や、ガイは再び駆け出した。来た道とは別の方向、病院の敷地内の裏の方へドブネズミのような素早さで消えて行った。
カホリは追った。追うしかなかった。こう、次から次へと理不尽な態度を取られると、認めたくはないが逆に興味が湧いた。カホリはダッシュを切った。一呼吸程度で追いつけると高を括ったが、今度のガイは速かった。あのずんぐり体型で、あの敏捷さはない。ない、ない、ない……。さっきからないことばかり。カホリの中で何かがカチリと鳴った。苛立ちが撃鉄となり、鬱憤が起爆剤と化した。そして二呼吸目、カホリは弾丸になった。
「どこに行くのよ!」カホリは叫んだ。
まだガイには追いつけない。しかし目的地には見当がついた。このルートで行き着く先は一つしかない。でも、もしそれが本当ならば、私はどうすれば良い? きっと逃げたほうが良い。関わらないほうが良いに決まってる。こんなに理解不能なことってある? どうしてガイは職員専用通用口へと脇目もふらず向かっているのか? 友達が心配でも、その顔を一目見たいにしても、どう考えてもやりすぎだ。でもカホリは知っていた。専用通路にはIDが必要なのだ。はい、ゲームオーバー。今日はたくさん遊びましたね。帰ってご飯食べて昼寝でもしなさい。
ようやくガイが止まり、ほどなくカホリも追いついた。カホリは息が切れた。ガイのずんぐりとした背中は微動だにしない。またもや腹が立った。
職員専用通用口。一般のものと変わらぬ大きさの開閉式ドアだが、カードリーダーでのID認証が必要。通用口には管理部屋が隣接し、それぞれ中と外に臨時受付の小窓がある。守衛も在中。得体の知れない少年が通過できる可能性など微塵もない。
ガイは手を伸ばした。ドアノブにではない。壁に備え付けられたカードリーダーに、である。カホリはその目ではっきりと見た。今度は間違いようがなかった。ガイの右手は確かにただれていた。しかし、それはただただれているわけではなく、なんと言おうか、透けているのだった。確かに焼けただれているような色がある。ひどい凍傷を負ったかのような質感もある。だが、その目を疑えば疑うほど、青白く透けているように見えるのだ。ぶよぶよとしたあの質感。ガイの腕を引っ張った時に感じた、あの感触。逃げろ……カホリ……今すぐ逃げるの! だけど、もう少しだけ見させて。あのただれたぶよぶよの手で何をするのか、一体ガイに何ができるのか、それを確かめるまで待って欲しい。カホリは恐怖と好奇心を天秤にかけ、均衡を保つように努めた。
ガイが背中を丸めた。まずい、あのずんぐりした背中で手元が隠れて見えない。すぐさまカホリは一歩踏み出し、半身をねじって覗き込んだ。ガイはカードリーダーに口を近づけて何事かささやいた。その内容までは聞き取れなかったが、花屋で花にささやいていたのと同じ口調だった。するとあの独特の機械音がした。鉄板の内部で作動するモーター音。シリンダーが立てる小気味良い金属音。何の気なしにドアの開く、あの音。
ここまでは耳の記憶。耳の方が信用できる。もうカホリは己の目に信頼を置くことができないでいた。見間違いということはある。だけど、こんなに注意深く、まぶたに焼きつけてやる勢いで凝視した場合でも、見間違いは起こるのだろうか。だから考えたくなかった。できれば消去した。音の記憶だけ残して、大事なところは忘れてしまいたい。ガイの右手が、その指先が、ちょうどIDカードくらいの大きさに平べったく伸びて、そのままカードリーダーの中に吸い込まれ、なぜだかわからないが認識されたーー。何て映像は脳のメモリから抹消したいのだ。
「さあ、入るど」ガイは言った。
頭がくらくらした。立ち去るなら今だ。だが、そうはしなかった。ドアを開け、ガイが中に入ると、管理部屋のガラス越しに守衛が立ち上がるのが見えた。さすがにこれでチェックメイトだろう。
「どうしたのかな?」守衛は言った。続けて、ここからは入れない旨を伝え、どうやってドアが開いたのかを訝しんだ。
と、突然ガイは泣き出した。
「友達が死んじゃうかもしれないんです……どうしても会いたくて……間に合わないかもしれないから、従姉妹の看護婦がこれ使えって……」
ガイは左手を差し出した。そこには一枚のカードがあった。写真付きの、職員用のもので、どこからどう見ても本物だった。では、さっきの手は? ガイの右手はどうなっている? カホリが覗き込むと右手はポケットの中。そんなことがあるだろうか。泣いて懇願しているのに、ポケットに手を突っ込んだままとは、そんなのはおかしい。だが、どうなっていれば私は納得する? 人差し指、中指、薬指のいずれかが根元からなくなっていれば道理なのか。その指がIDカードに変化したとでも考えれば理屈が通るのか。全くもってパニックだ。
「先に家族の人に会うんだよ」そう言って守衛はガイを通した。
ガイは振り返り、カホリに手招きした。守衛も憐れみを込めた眼差しで促す。ここで「いいえ、私は違います」なんて言えない。少しでも不審な動きを見せたら、ガイに何をされるか……いや、ガイじゃない。ガイであるはずがない。もっと早く気づけば良かった。あれは、カホリの知るガイではないのだ。
カホリはガイに続いて職員専用通用口を通り抜けた。もう引き返せない。犯罪に手を染めてしまった。うすら寒いような悔悟の念が押し寄せる。守衛は初老の男で、どこまでも無害な顔をしている。この人に誰かを救うことなどできない。言っては悪いが無能だ。現にガイにほだされてしまっている。この手の大人は融通が利くが機転は効かない。だから、いざという時はカホリ自身が強くならなくてはいけない。そう、静かに決意した。
守衛の目が届かなくなった辺りでガイは立ち止まった。通路が二つに別れている以外、別に何があるわけでもない。ただ、木偶人形のように立ち尽くす。不気味な背中だ。
「どういうつもり……?」勇気を出してカホリは聞いた。
予想はしていたが、ガイは何も答えない。それとは別に、何か違うことに気を取られているように見える。やや、顎を上げ、全身は脱力している。まるでアンテナ……そう、まさに何かを受信でもしているかのように、ただ呆然と立ち尽くす。おそるおそるカホリは前に回った。
思わず「ひっ」と悲鳴を上げそうになる。まるで風船にマジックペンで書いた顔。やや膨らませすぎた球体は緩慢な笑みを湛え、知性とは無縁な表情を見せる。垂れた両腕は小刻みに震え、その指先のみが意思を持つかのようにイソギンチャクの如く卑猥にのたうつ。そして、またもや口先では何事か聞き取れぬ囁きを絶え間なく漏らす。醜悪で、ユーモラスで、おぞましい姿。
「こっちだ」ガイは言った。
パチンと平手打ちされたかのような現実が戻り、ガイの表情はいくらかましな状態へと戻っていた。
ーールートを検索していたんだ。GPSのようなもので、この病院の見取り図をダウンロードしたんだ。理屈なんてどうでも良い。今までの言動からそう理解するしかない。現に二つに分かれた道の一方をガイは選択した。そして誰にもすれ違っていない。急に立ち止まったり、歩く速さが一定ではないのは、きっとその辺も計算しているんだ。ますます犯罪めいてきた。全くスマートではないが、映画で見るようなプロの窃盗団に近いものを感じる。
すると、通路の途中でガイは立ち止まった。壁側に、赤い文字で『非常用階段』と塗装された防火扉がある。ガイは躊躇なく押し開け中に入る。カホリも続く。ある種これは誘拐だ。誘拐犯には絶対に逆らってはいけない。
7階まで一気に駆け上る。さすがのカホリも息が切れた。しかしガイは至って涼しい顔。工場のラインのように、寸分乱れぬテンポで足を上げる。足音が一切しないのも奇妙だったが、その足に筋肉というものが感じられなかったのも不可解だった。確か体育の成績は中の下だったと記憶している。同級生の男子は大雑把に二つのタイプに分けられる。ナオユキを筆頭に、ハッセやスグルも属するグループ。こちらは運動にセンスを見出す者たち。簡潔に言えば運動神経が良いということだが、その身のこなしが美しいのだ。美しければ成績が伴わなくてもグループに属することができる。もう一方はセンスゼロのグループだが、ジンケやガイ、タカシなんかもそうだ。中でもジンケが最たるもので、そもそも運動という概念自体を放棄してしまっているのではないか、と思えるほど見込みがない。タカシは惜しい。元々の病弱を引きずって思うように動けない部分がある。同情に値すると言える。ガイに関しては違う感想を持っていた。身体能力は高いのだ。ずんぐり体型からは想像できない機敏さと膂力を合わせ持つ。だが、すこぶる美しくない。跳んでも走っても、まるで絵にならないのだ。人体力学が崩壊しているとも言える。逆に正しい姿勢でそれぞれのスポーツに挑めば、とんでもない記録ができるのではないか? あくまでそれは想像の域を出ないが……。
踊り場は『7F』と記された防火扉の裏。ガイは再び交信中。おそらく、扉の外の安全を確かめているのだろう。非常階段から少年少女が出てきたら、いくらなんでも不審に思うはずだ。カホリはむしろそれを望んでいたが、ガイの反感を買うのだけは避けたかった。特に、交信中のガイは、ガイ非ずの存在感が強い。もし、このトリップ状態の怪人を怒らせたら、と考えただけで震えが来る。とにかく、従おう。これという機会が訪れるまで、協力的な被害者であれ。
ガイは扉を開けた。カホリも続く。殺風景な病棟の廊下。消毒液の匂い。排泄物の匂い。血と膿の匂い。いわゆるこれが病院の匂い。カホリは鼻をつまみたくなる。さすがのガイも顔をしかめる。一度カホリの方を見やり、鼻をつまんで見せたほどだ。まだユーモアが残っている。その垣間見える人間性を信じられるものなら信じたい。
二人は進む。途中、何人かの看護師とすれ違った。ガイは臆することなく「こんにちは」と挨拶した。両手で捧げ持った不恰好な花束も功を奏したようで、少ない小遣いの中から精一杯やりくりした結果だと見えなくもない。結果、誰も二人を怪しい目で見なかった。それどころか、憐れみと同情、そして親愛に満ちた眼差しで見送ってくれた。
ここまで来るとカホリにも勘が働いた。どうやら突き当たりの個室がジンケの病室のようだった。他の病室とは雰囲気が違う。まず、扉が閉まっている。他の病室は一様に開放してある。なんとなくそれは、都合を考慮した病棟的なしきたりなのだろうと理解できる。この閉ざされた空間の中にジンケがいる。漠とした勘ではあるが、カホリにとってはすでに疑いようのない事実となった。きっとガイの先導がなくてもたどり着くことはできただろう。このそよ風の如くささやかな霊感の芽生えを、カホリは大事に胸にしまった。
ガイが立ち止まった。扉の前でまごまごしている。得意の交信を始めるわけでもなく、だらしなく口を開けたまま、道に迷った猿のように成す術もなく立ち尽くす。理由はわかった。先客がいるのだ。
耳を澄ます必要もなく、中から話し声が聞こえる。内容までは聞き取れないが、大人、男女、医者か? 看護師か? 声の抑揚が壁を隔てて耳に心地良い、極めて落ち着いたムードの会話。なるほど、会話も一つの音楽なのだな、などと場違いな感想を持つ。
カホリは決めた。今しかない。隙を突くなら今なのだ。ごく自然に、ガイに不利な状況に持って行く。それは、大人だ。あれだけ慎重に避けてきた大人との接触。特に、医者や家族や、ジンケに近しい大人ならなおさら都合が悪いのだろう。もう確信した。ガイはジンケに害を成す者だ。初めからそうだったわけではない。何かがあったのだ。何かがガイをガイ非ずの存在に変えてしまった。これはもう勘でしかない。だが、疑いようのない事実だ。今、大人たちの中へ飛び込もう。自分を守るため、そしてまだ見ぬ寝たきりの友人を守るためーー。
颯爽と飛び出したカホリは、ガイのずんぐりとした背中を交わし、自由への扉を開け放った。




