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見舞客1

 木村はクローゼットの意味を知らない。おそらく、おぼろげな予備知識として服を収納する空間だということは認識していた。時が熟すとそれが、『脱いだ服を保存する空間』に変化した。基本、肌に直に接しない衣服は、クローゼットに押し込むべし。それが木村の流儀。だからクローゼットの中は匂う。事実、肌に直に接しない衣服など厳密には存在せず、締め切った個室の中で饐えた汗の匂いがもうもうと発酵し続けていた。

 鼻がバカなわけではない。木村にもこれらの衣服が臭いということはわかった。特に熱いシャワーを浴びた後だ。自身の体臭を取り除いた分、それだけ鼻は敏感だ。

 よそ行きの服など存在しない。二、三引っ張り出してみたが、どれもしわくちゃで汗ともカビともつかない匂いがする。比較的新しい服まで臭気が染みついている。事態は深刻。これはパンデミックだ。【第三居住区・通称クローゼット】は封鎖の運命をまぬがれない。

 結局いつものスーツを着ることにした。これは【第一居住区・通称居間】のカーテンレールに掛けっぱなしなのでそれほど臭くはない。それでも生活の匂いは染み込んでいる。鼻を襟首に当てて深く息を吸い込むと、かすかに教室の掃除ロッカーで眠る生乾きの雑巾の臭いがした。いつもの倍の量の消臭スプレーをこれでもかと噴霧するとスーツの袖から露が滴った。

 うかうかしてはいられない。次は髭を剃らなくてはいけない。木村は電気シェーバーを片手に洗面台の前に立つ。

 ーー待てよ。案外、悪くないかも。

 裸のままジャケットを羽織り、再び洗面台の前に立つ。少し長さを整えれば、外国の俳優みたいになるかもしれない。鏡を見る角度を変え、入念に髭の生え方をチェックする。そしておもむろにシェーバーのトリマー刃を立て、生え散らかした髭を植木屋の如く剪定する。

 ーーやっぱり、いけるな。

 ジョニーだ。見ようによってはジョニーじゃないか。ラストネームまでは言うまい。この洗いざらしのくせっ毛も、これはこれでセクシーだ。男の色気が滲み出ている。少々出過ぎな気もするが、外国の俳優たちなら、惜しみなく垂れ流すはずーー。

 と、チャイムが鳴った。その音は直接心臓にカーンと響いた。嘘だ……もう一時間経ったのか!? 時計を見ると約束の十分前。咄嗟に玄関に飛び掛かりドアノブを掴むが、そこでハッと思い留まる。

 ーーいけない! こんな格好じゃないか!

 危うく半裸状態でドアを開けるところだった。「は……はい」とドア越しに答えると、「川上です。すみません早く着いちゃって」とこの世とは思えないほど美しい声が返ってきた。恵子が来たのだ。

「ちょ……ちょっと待ってくださいね!」木村は答えた。とにかく、顔を出さなければ、外で待ってもらうにしても、顔を出さないことには人としての礼儀に欠ける。どんなに汚い顔でも、出さないよりはマシだ。律儀にそう考えて、裸にジャケットの襟をきゅっと抱き合わせ、ほんの少しドアを開く。

 学校で会うのとは違った恵子がいる。教師ではなく一人の女性の恵子がそこにいる。

「こんにちは」恵子が言う。

「こんにちは」木村は答える。「すみません。すぐ、準備しますんで、あの……寒いですから、どうぞ……」と、ここまで言って、普通なら家の中に招くものだと気がついた。だがそれは無理なのだ。部屋はゴミ溜めだし、まだジャケットの下は素肌だし、何から何まで自分を呪うべし。で、やむなく「く……車の中でお待ちになってください」と言うしかなかった。

「はい」恵子はあっけらかんと答える。木村の心中を察することもなく、それがさも当然であるかのような従順さ。まるでしつけられた猫のようだ。

 木村は、とにかく、急いで身支度する。


 15分が経った。アイドリングストップ宣言強化中の車内は急激に冷えてきた。しかし、この寒さも何かいとおしく思えた。恵子にはわかっていた。木村の肩から立ち上る熱い湯気も見えていたし、濡れた髪も、不自然に左右を抱き合わせたジャケットも、何かの間違いのように手入れされた顎周りの髭もちゃんと見えていた。男にしては時間をかけて、決して上手とは言えない身だしなみに時間を奪われていたことを、恵子はちゃんとわかっていたのだ。だから、いとおしく思えた。冷える車内に反比例して、胸の内の火種は彼女を芯から温めた。

 木村の部屋のドアが開いた。すぐに両手で「ごめん」を作り、小走りで向かって来る。恵子はフロントガラス越しに「いえいえ」の意を示し、音のない宇宙はこんな感じなのかな、などと考える。その間に木村は助手席側に回り深くお辞儀。恵子は「どうぞどうぞ」とやはり手振りだけの返事。中耳を引っぺがすような感覚と共に助手席のドアは開き、無音の世界は終わりを告げた。

「お邪魔します」そう木村は言って助手席に座る。

「どうぞ」恵子が答える。

「すみません、待たせてしまって」と木村。

「だいじょうぶです。私の方も早く来てしまったので」

 いつもの格好だ。いつもの木村先生。いつクリーニングに出しているのかわからないスーツ。でもそれが似合う。その格好こそが木村先生。髭もきれいに剃ってある。さっきは剃っている最中だったのかもしれない。あれは、ちょっとドキッとした。でも隣にいるのは、いつもの木村先生。

「驚きましたよ」木村は言う。

「何が……起こったんですか?」恵子は聞く。

「わかりません。事故とかそういうのではないと聞きました。病気、なのかもしれません。とにかく心配です」

 この15分で木村は教師としての自分を取り戻した。恵子の顔を見て、いや見る以前から、確かに浮き足立った自分が存在した。扉を閉めると、ひどく己を恥じた。同僚の顔を見て、眠っていた教師である自分も目を覚ましたのだ。そこからは一切の雑念を持たなかった。すぐさま髭を剃り上げ、兵士のように身支度を済ませた。もう、恵子が隣にいても胸がときめくことはない。ただ、生徒の身を案じるだけだ。

「行きましょう」恵子は言った。それ以外何も言えなかった。憂いの影を落とす木村の横顔が視界に入ると、言葉の不自由さが身に沁みた。

 エンジンが掛かり、喉を震わせるような振動が車内を満たし、オーディオからピアノの音がこぼれ出す。

 恵子はオーディオのスイッチを切ろうとするが、木村が「聞きます。もしよければ」と制す。車は発進し、ピアノの独奏は次第に熱を帯びた。

 車は大橋に差し掛かる。内海と外海を隔てる真っ赤な大橋は、車内の二人を地平線よりほんの少し上に押しやる。海面は宝石のような光を反射し、抜ける青空はどこまでも澄みわたる。


「あれ、川上先生の車じゃない?」とカホリは言った。

 ちょうど恵子の車が大橋を通り過ぎる頃、カホリとガイは徒歩で橋を渡っていた。海を吹き抜ける風が二人をほんの少し爪先立ちにさせた。

 聞こえていないのだろうか、ガイは答えない。「一度乗せてもらったことあるの。雨の日に傘忘れて歩いて帰ってたら家まで乗せてくれた」とカホリが続けても、心ここにあらずといった様子で、ぼんやり橋の下の海を眺めている。

「ねえ、聞いてる?」カホリは言った。苛立ちを抑えきれずにガイの片腕を引っ張った。男にしては柔らかく、ぐにゃりとした感触が柔らか過ぎるくらいだった。

「ああ、聞いてるぞ」ガイが答えた。顔はそっぽを向いたままだ。

「あれから何かわかったことある?」カホリは聞いた。

「何か?」ガイは聞き返す。

「何かって……あれよ」カホリは言葉に窮する。が、絞り出すように言う。「あの……海から出てきた……お化け」

「お化け?」ガイは言う。「ああ……あれか。あのことか。あのことなら心配ない。やっぱりただの噂だった。何でもないよ。うん、今日も海はきれいだ」

「でも、ジンケのこと、何か関係あるかもって……」

「ああ、そうだ。今はジンケだ。ジンケのことが第一だ。うん。ジンケのことが、俺は心配なんだ」

 そう言うガイはやはりそっぽを向いたままだった。こんな状態で歩けているのが不思議だ。カホリは回り込んで様子を伺う。笑っている。清々しいほどの笑顔だ。そして視線の先には、なんだろう……確かにきれいだと思える海。照り返す光。だけど、ガイは、赤い鳥居を……内湾の中央に座する弁天島を見ているように見える。

 わからない……。わからないけど、とにかくぞっとする。お化けのことをあるとかないとか、手の平を返すような言い分もわからないが、この不気味な笑顔もわからない。顔が丸いのだ。相好を崩すのレベルを超えている。まるで、顔面をゆるキャラに美容整形したかのような不気味さ。だが不思議なことにガイの面影はしっかりと残っているから、ことさら不気味なのだ。

 途中、花屋に寄ると、ガイの不穏な様子に拍車が掛かった。店内の花を物色し、手にこそ取らないが、それこそ一輪一輪物色し、「きれいだねぇ」と声をかけたのだ。気味が悪くなったカホリは早々に見舞い用花束を買って外に出た。だが、待てども待てどもガイは出て来ない。しびれを切らしたカホリが再び店内に入ると、彼は花を数本買うところだった。一輪ずつ、色も種類も別の花で、どこをどうすればそんなにセンスのない花束が出来上がるのか、という代物だった。だが、ガイはそれを我が子のようにいとおしげに抱いているのだった。

 病院に着くと、カホリはまっすぐ受け付けへと向かった。ガイといえば、まるで初めて日本に来た外国人のように、どうでもいいような場所で急に立ち止まり、そしてきょろきょろと辺りを見回すといった具合だった。

 病院の何がそんなに珍しいのか、ガイは好奇心に圧倒されているようで、なかなか歩みを進めなかった。カホリがいらいらしながら後ろを見やると、ガイはまだ入り口付近でうろうろしている。手指消毒用アルコールスプレーに異常な興味を示し、指先で突いてはびくっと驚く、という行動を何度も繰り返していた。

 まるで猿ではないかーー。いや、きっと、もともとこういう人なのだ。カホリが知らなかっただけ。願わくは、誰かに見られないこと。もう放っておいて先に行こう。ジンケには悪い気もするが、花束だけ置いて早々に立ち去る。それで十分だ。十分過ぎるほどだ。ガイとは一緒に来なかった。そういうことにすれば良い。

「残念ですが、こちらの患者様は現在医師の判断で面会謝絶となっております」

 そう事務員に説明されると、カホリは内心ほっとした。これでこの最悪のデートに終止符が打たれた。このまま帰ってしまえば良い。あの猿は勝手に保護されるだろう。早く帰って掃除の続きとイタリア歌曲のCDを聴きたい。でも、ジンケの容体が悪いのは事実だった。彼とはほとんど話すことはなかったのだが、悪い印象があるわけでもなく、むしろ人間的興味があったと言っても良いほどだった。彼は流されない。寡黙だが愚鈍ではない。瘦せぎすで、悪く言えばグレイ型エイリアンのような体型をしているが、それは運動よりも知能に特化した人間の特徴だと納得させるような雰囲気がある。そして同年代の少年たちに特有の溌剌さがない。落ち着いているというよりは、むしろ偏執的で、授業中でも黒目をまん丸くして常に空想にふけっているような姿を見かけたことがある。そう、思い出した。あの感じは、老人だ。カホリの祖父母が入居している施設で見たことがある。祖父母はまだまだ元気だが、他の入居者は一様に動かず、皆一点を見つめ、ほとんど瞬きもせずに過ごしている。ジンケは彼ら老人たちと同じ空気を持っているのだ。

 まだ手指消毒用アルコールスプレーと格闘を続ける猿ーー、もといガイの元へカホリは戻った。

「だめみたい。面会謝絶だって」カホリは言った。

「うん……」うなずきながらガイはスプレーの噴霧口をちょんと突く。

「さっきから何してんの? 私もう帰るから」

 ガイは返事もせず、執拗に噴霧口を指先で突く。

「もう……」苛立ちがピークに達した。「こうでしょ!」と言ってカホリは手指消毒スプレーを勢いよくプッシュした。

「ぎゃっ!」ガイが大声で叫んだ。

 ロビーに群がる人々が一斉にこっちを向く。事務員も警備員も不審な目を向ける。カホリは「なんでもないです」と無垢な笑顔で取り繕い、礼儀正しく一礼。なんとか子供の悪ふざけとして場が収まりかけたが、カホリの内心は収まるどころではなかった。あれはなんだったのだろう? 「ぎゃっ!」と叫んだガイの手。手指消毒用アルコールを勢いよく浴びたガイの手。すぐに引っ込めて見えなくなってしまったが、焼けただれてどろどろに溶けたガイの手……。

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