樹木の陰で
今日は一日大掃除だと決まっていた。まだ外出禁止令は解かれていない。パパは朝から漁連の集まりで、ママは水産加工会社の残務処理に追われている。家には私一人。今年はおじいちゃんもおばあちゃんも施設で年を越すだろう。お兄ちゃんはどうかな。大晦日には帰って来て欲しいけど、パパの様子を見るとそれも叶わないかもしれない。話さなくてもわかる。今回は何かが違う。あんなに一族のしきたりをおもんじる父が、今年に限っては頑なに一族との関わりを避けている。まるで、とんでもなく強烈な新興宗教にとんでもなく強烈に洗脳されてしまったかのようだ。
一人が嫌なわけではない。カホリは元々孤独を好む気質だ。それは母譲りの部分が大きい。ママという人間はコミュニケーションよりも作業を好む。言葉が少なく、それが仕事であろうが家事であろうが目の前の作業を淡々とこなす。決して急がず、決して怠けず、その手は一定のリズムでまさに機械の如く動き続ける。だが無愛想なわけではない。どんな時でも笑顔を絶やさず、不平不満を吐いたこともない。余計なことは考えたくないのかもしれない。立ち止まって考えるということが嫌いなのだ。カホリの家は裕福である。それはカホリ自身も意識している。だが、両親(特に母)を見ていると他の誰よりも労働者気質が強いと思う。金を儲けたからと言って、休むようなことはしない。むしろ、儲けた金を海に捨ててでも働くための動機を作るような人だと思う。カホリはそんな母を好いてはいるが、ほんの少し寂しいような気持ちになる。
今朝カホリは「留守番中に何かやることある?」と母に聞いた。母は「玄関と廊下の掃除」とだけ答え、先に報酬のお小遣いまでくれた。カホリは既に玄関も廊下も掃除を済ませ、今は階段の踊り場の出窓を拭いているところだった。どうせ他にやることもない。今日という一日を使って徹底的にやってしまうつもりだった。そこへ携帯電話の呼び出し音が鳴った。
沙織かな、と思った。かけてくるとしたら沙織しかいない。隣のクラスのおとなしい女の子。学校には内緒で声楽のレッスンを受けている。イタリア歌曲のCDを何度か借してくれた。仲良くなったきっかけは生徒委員会。カホリもなんとなく選ばれたのだから沙織もなんとなく選ばれたのだろう。そしてなんとなく形式ぶった会議に参加し、教師の監視の下、議会政治のロールプレイが行われた。なんとなく沙織が気になったのだ。きっと彼女が身にまとう目に見えない影のようなものを感じたのと思う。この場にそぐわない、おそらくは学校という居場所にもふさわしくない空気が沙織を取り巻いていた。大人びているわけではない。あどけなくて、でもどこか達観していて、そんな沙織をカホリは身近に感じた。最初はあいさつ程度の仲だった。だがそれだけでどんな世間話よりも価値はあった。やがて沙織は歌を習っていることを打ち明けてくれた。学校にもクラスメイトにも内緒。もちろん合唱部にも入らない。月に二度、列車で半日かかる都市まで赴き、声楽の個人レッスンを受ける。自分の居場所はここにはない。向こうなのだと。でも現実はここにある。抗ってはいけない。どこにいても、どんな制約があろうが、居場所は逃げたりしない。ただ、その方角に体を向けていれば良いのだと。
着信はきっと沙織だ。実際、沙織と親以外には番号を教えていない。今度、沙織が歌うイタリア歌曲を聞かせてもらう予定だった。「まだ聞いてもらう状態ではない」と頬を赤らめていたけれど、その秘密のコンサートをカホリは心より待ち望んでいた。
カホリは雑巾をバケツのふちに掛け、脱兎の如く階段を上がった。そうだ、イタリア歌曲のCDを大音量でかけながら掃除すればもっと楽しいはずのに、どうして思いつかなかったのだろう。歌は下手だけど一人なのだから関係ない。練習にもなる。お気に入りのあの歌が聞きたい。オンブラマイフ……樹木の陰で……。ああ、沙織、沙織、沙織からの電話ーー。
携帯電話の液晶画面に知らない番号が踊っていた。市外局番は町内のもの。ひょっとしたらナオユキ……のはずはない。その可能性は限りなくゼロなのだが(番号を教えていないのだから)、おとぎ話を夢想するならばそれが一番だということは認める。ばか。
誰だろう。考えを巡らす。知らない番号には出ない方が良い。でもパパかママが別の場所からかけて来ているのかもしれない。両親も携帯電話は持っているのだから、そうは考えにくいが、そうではないとも言い難い。やっぱり、出るべきか。カホリは通話のボタンを押した。
「カホリか?」相手は言った。
血の気が引いた。そうだった。教えたのだった。どうして? 時を戻せるのなら戻したい。どうして私はガイなんかに番号を教えてしまったのだろう。学校の友達なら沙織にしか教えていないのに。沙織と並ぶ友達なんていない。もしいるとすれば、それはナオユキだけ……。
「俺だ。ガイ。いきなり電話かけて悪いな」
「どうしたの?」
「ジンケがさ、まずいんだよ」ガイは続ける。「入院したんだ。かなりまずい状態だ。このこと、まだほとんど知られてないんだけど、カホリには知らせた方が良いと思って」
「ジンケくんが……」カホリは言った。「でもどうして私に?」
「ああ……」ガイは十分に言葉をためて続ける。「嫌な予感がする……なにか、関係あるかもしれないだろう?」
そうだった。昨日ガイと話したこと、知らない振りを通している自分がいた。何かあったら連絡して、確かにそうガイに言ったのだ。それにしてもーー。
「ジンケくんに何が起こったの?」
「わからない。詳しくはな。でもまずい状態だとは聞いた。ちょっと、看護婦に知り合いがいて……」
「……怪我なの?」カホリは聞く。
「意識不明の重体らしい」ガイは答える。
絶句。ほとんど話したことはないが、妙な存在感はあった。ひょっとしたら彼も沙織のように外の世界に生きている人なのかもしれない。そんな不思議な雰囲気が彼にはあった。そのジンケくんが、今まで問題なく動いていた存在が停止してしまった。その未知なる暴虐と理不尽さにカホリは恐怖した。父の不穏な様子、ガイの来方、ジンケくんの入院。その全てが負なる者の存在を暗示する。知りたくはない。関わりたくはない。だが、既に逃れられない網の目がそこいら中に張り巡らされているような気がする。
「だいじょうぶか? カホリ」ガイが言う。
「……ごめん」カホリは答える。「それで、これからどうするの?」
「病院に行こうと思ってる」ガイは続ける。「カホリも行かないか?」
ほらきた。最初は小さかった糸のほつれが、もうこんなに大きな穴になった。糸はまだまだほつれる。目の前でみるみる穴は大きくなる。
「私、今日も出られないの」カホリは言った。「ほら、お父さんに外出は禁止されてるし、ちょっと今日は忙しくてーー」
「おまえ学級委員だろ」
おまえ、と言われてむかついた。
「リーダーだったら誰よりも先に動かなきゃいけないんだど」
だど。腹が立つ言い回し。同級生で「だど」なんて使うのはガイしかいない。他にいるとすれば年寄りだ。カホリの祖父も孫を叱りつける時だけ語尾に「だど」をつけた。大好きな祖父が大嫌いになる瞬間だった。だど。それは悪魔の言葉。立てる必要のない腹を立て、不必要な憎しみを倍増させる。だど、だど、だど……。
「わかった。行くわ」カホリは言った。「でも、ちょっと立て込んでて、一緒には行けないの」
「それじゃだめだ。待ち合わせるぞ。何時にする?」
「いえ、いろいろと用事があってーー」
「だめだ!」
ガイは怒鳴った。電話口ではあるが、こんなに近くで怒鳴られたことはない。耳が痛くて心臓がどきどきする。それに、大事な携帯電話が汚されてしまった気がする。すごく、腹が立つ。
「ごめん……」ガイは声を落とす。「ジンケは大事な友達なんだ。俺もどうして良いかわからなくて。誰かに側にいて欲しくてさ……」
「親が帰る前に、早い時間なら、なんとかなると思う」カホリは言う。
「わかった。迎えに行くど。今からでいいか?」
「悪いから、直接、病院でーー」
「だめだ。大橋越えねばなんねえもん。危ねえからな。俺がついてやる」
「……わかった」
「おう、待ってろよ。じゃ後でな」
通話が切れた。嫌な気持ち。突然、走りたくなる。汗をかいて、体中に染み込んだ「だど」を排出したい。親の約束を破る罪悪感もひとしおだが、頼まれた範囲の掃除が済んでいることが万に一つのさいわいだと言える。なんにせよ前向きに考えるしかない。クラスメイトが入院したのだ。お見舞いに行って当然だろう。途中で花屋に寄るとしよう。ママにもらったお小遣いで花を買う。女の子らしい正しい行動。そう、私は学級委員なのだ。なんらおかしなことはない。するべきことを迅速にこなすだけ。
カホリは5分間だけ自分に与えることにした。まさか5分以内に「だど」は来ないだろう。ステレオのスイッチを入れ、再生ボタンを押す。部屋のドアは迷ったが全開にした。なんとなくこの方が臨場感を得られるような気がする。音量のボリュームを最大に絞る。さあ、いよいよ、コンサートが始まる。再生時間のディスプレイがデジタルを刻む。無音のイントロ。録音の向こう側のノイズが空気を震わせる。ふいに叩きつける鍵盤。ピアノ伴奏による独唱。ヘンデル作曲、オペラ『セルセ』第一幕のアリア。豊かで、突き抜けるようなソプラノ。歌声は柔らかな朝日のようにどこまでも広がる。オンブラ……マイ……フ……。




