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従姉妹、猫、会話

 ガイは朝一番でジンケ入院の報せを聞いた。その夜の当直看護師がガイの年の離れた従姉妹だったのだ。彼女は緊急搬送された少年が従兄弟のガイと同い年だったので、仕事明けの朝、そのままの足でガイの家に寄った。ちょうど朝食時だったのでご相伴にあずかりながら、だらだらと世間話に興じた。朝からガンガンに炊いたストーブの熱気が酩酊的な眠気を誘った。

 やはりガイの同級生だった。しかも、どうやら幼馴染と言えるような関係らしい。表面上は「お気の毒に」と装いながら、心中では「ほら見ろ」とクソ生意気な従兄弟にツバを吐いた。気に食わないのだ、この従兄弟は。ひどいようだが生理的に受けつけない。血のつながりがなければ口も聞きたくはない。だが人の不幸を語り合う時だけ、この愛嬌のかけらもないオヤジ顔の中学生が最高のパートナーに変貌するのだ。実に不思議な現象だが、あまい蜜に引き寄せられる甲虫のように、彼女は時おり執拗に従兄弟を求める。

 帰り際に呼び止められた。「面会はできるか?」と聞かれた。「たぶん無理だ」と答えた。かの少年は集中治療室こそ移動になったものの、個室で厳重管理の上、当面の間、肉親以外は面会謝絶だろう。「また何かあったら教えてくれな」と従兄弟は言い。彼女は「うん」とだけ答えた。やはり気に食わない。一回り近く年下のくせに、口調がまるで親戚のオヤジだ。声だって酒に焼けたみたいにいがらっぽい。この血は癌だ。醜い遺伝子。

 独り暮らしのマンションに着くと、どっと疲れが押し寄せた。あの意識不明の少年、決して美少年ではないが従兄弟に比べるときれいな顔をしていた。まず線が細いのが彼女の気を引いた。骨格が全然違う。クロマニョンとネアンデルタールほども少年と従兄弟は違っている。そんなことを考えながらソファでうとうとした。本気で眠ってしまう前にシャワーだけは浴びたい。まぶたが窪んで眼球ごと脳に埋没してしまいそうだったが、熱い湯で汗を流した後の恍惚としたシーツの感触に思いを馳せ、泥のような眠気を追い払う。バスルームで全裸になり、シャワーの蛇口を全開にする。もうもうと湯気が立ち込める。女は鏡を見た。一族の中では血が薄めの、まあまあそれほど悪くない、客観的に見ても中の上と言えるルックス。それが一瞬、年の離れた従兄弟に見えた。湯気のせいだ。這い上がる湯気が顔の輪郭を狂わし、骨格を浮き彫りにしたのだ。骨格……。確かに骨格は一緒だ。どんなに化粧でごまかしても、一族の呪いは骨格という揺るぎない地位にあぐらをかく。女は腹を立てた。シャワーの温度をいつもより高くして、脳天から浴びた。快感がほとばしる。血や呪いのことなど湯気にまみれてどこかへ消えた。

 ベッドに入れば気持ちの良さはひとしおだった。安穏とした眠気が全身に満ち、女は昏睡状態の少年のことを考えた。あの、決して美少年ではないが従兄弟よりはきれいな顔立ちがすぐ側に感じられた。やがて女は眠ったが、眠りに落ちる瞬間、心から少年の回復を願った。世界で一番美しい瞬間だった。


 看護師の従姉妹がもたらしたこの報せについて、ガイは茶がらを噛みしだきながらじっくりと考えを巡らせた。まずは今日の予定をキャンセルしなくてはいけない。親戚のオヤジどもとワカサギ釣りに行く約束があったのだ。ワカサギの氷上釣り。冬の風物詩。まだ雪が深くない今の時期が最高。他の釣り客も少なく、装備も手軽で気持ちが良い。そして何より賭けができる。釣ったワカサギの数で親戚のオヤジどもと金を賭けて勝負するのだ。

 ジンケの入院と賭けワカサギを天秤にかけた。歯の奥に太い茶葉の茎が挟まっている。舌の先で撫でるが、それだけでは取れる気配がない。仕方なく指を突っ込み爪で歯の間をこそぐ。確かにそこにあるはずなのに爪の先には茶葉は触れない。気のせいかと思うが、歯間には確かに違和感がある。ガイはジンケの入院を選択した。決め手は茶葉だ。ギャンブルで儲けた金は所詮あぶく銭。この歯間の茶葉のように存在が希薄。取れたとしても、今度は茶葉が挟まっていない歯間に満たされない虚を感じることだろう。そして再び茶がらを噛みしだくことになる。ならばこのまま前に進もう。もうギャンブルは卒業だ。親戚のオヤジどもも話し相手としては不足。ジンケの顔を拝みに行く方がよっぽど社会経験になる。何よりこれはスクープなのだ。おそらくクラスの誰も知らないだろう。従姉妹が良い働きをしてくれた。担任くらいは知っているかもしれないが、生徒ではガイのみぞ知る。ガイが知るのだ。ガイが伝えるのだ。なんなら少し泣いたって良い。幼馴染の悲報を背負い、悲しき使命を全うするのだ。女子たちの前で涙の一粒でも見せればガイの株も上がるだろう。ワカサギを釣るよりも女の気を引く方が良いに決まってる。なにしろ餌が良いのだから。こんなに新鮮な餌はなかなか手に入らない。そこまで考えてガイはふと思考を停止した。ーー小物には興味がない。ワカサギなんて釣ってもしょうがないじゃないか。いいか、流れはキテる。今こそ大物を釣るチャンスだ。

 ガイは自室に戻り、机の一番下の引き出しを開けた。中には金庫、それ以外には何もない。小さなものだが、この家が燃えて灰になったとしても十分耐えられる代物。ガイの命より大事な宝箱である。

 ダイアルを回して金庫を開けた。中には鉱物のかけらと動物の歯や骨。鉱物は町の採掘場で拾ったもの。断面がキラキラ光り、中には結晶化したものまである。歯と骨は、今までに火葬してやった猫のもの。中でも特に美しいと思えるものだけ蒐集した。そして大きな存在感を放つ一通の封書。これは遺書である。ジャーナリストたるもの、常に遺書は用意してあると聞いたことがある。その日から半年に一度、内容を書き換えて金庫にしまってある。だが、俺が死んだら誰が金庫を開けられるのだ? その答えは未だあやふやなままだ。遺書を持ち上げると、その下に紙切れがある。カホリに持たされたものだ。俺とカホリのホットライン。二人が他の誰よりも親密だと言う証拠。ガイは紙切れを開いて、その匂いを嗅ぐ。ただの紙の匂い、かすかにインクの炭素めいた匂い。匂いの成分としてはそれだけなのだが、この紙切れの鼻に触れる感触がガイの脳中枢から記憶を呼び戻す。ああ、カホリだ……カホリの匂いが、すぐそばに……。「こんなこと誰に相談して良いかわからない」と言って、カホリを見舞いに誘おう。ジンケの容体が悪ければ悪いほど効果的だろう。幼馴染の俺は気丈にも涙をこらえる。カホリがそっと俺に寄り添う。容体が急変してジンケが死んででもしてくれたら尚更良い。カホリは泣き、俺がそっと肩を抱くーー。

 ぞくっと寒気がした。踏み出した一歩が崖の外だった時のような、身のすくむ思い。俺はとんでもないことを考えた。まるで二十頭いるうちの一頭の猫が死んだみたいにジンケのことを考えた。ジンケは大事な友達なのに、平気でそんなことを考えてしまった。俺はどうかしてしまったのだろうか。いや、それほどに恋は盲目にさせるってことだ。俺は、他より少し早熟なだけ。誰もがいつかな死ぬのだ。死ぬまでに悔いのないように生きなければいけない。そう考えて何が悪い? 友の屍を越えて行くのが人間の定めというものだ。

 気持ちが楽になった。こうして心を整理すると、とても前向きな気持ちになれる。俺は悪くない。悪いところなど一つもない。ただ、より良い人生を送りたいだけだ。そのためのひたむきな努力。この紙切れは天国への片道きっぷ。午前の日課を済ませたら、旅支度を始めよう。カホリに電話をして、ジンケの見舞いに誘う。それまでに、やるべきことをやってしまう。まずは猫の餌やりだーー。

 日々、頭数を確認することから猫の餌やりは始まる。なぜか? それは外から何食わぬ顔で忍び込んだ野良猫を排除しなくてはいけないからだ。これでも町一番の猫ブリーダーを自認している。下品な野良どもに交尾されてはたまらない。品位が下がる。交配には細心の注意を払っているのだ。

 今期に生まれた子猫は3匹の母猫から合わせて13匹。内、2匹は死んで、親戚に3匹、ナオユキのところに1匹寄贈。だから残っているの子猫は7匹。親を合わせたら10匹。他に雄雌混合10匹の成猫がいるので合計すると20匹いる。20匹きっかり、数えれば良いのだ。

 作業開始。居間と台所と日当たりの良い客間を巡り指折り数える。……数え間違いか、21匹いる。もう一度数える。やつらはじっとしているようでよく動く。こっちの動きを先読みして最初に数えたやつがちゃっかり最後の集団に紛れることも多々ある。……おかしい、やはり21匹いる。さすがに3度数え直すことは滅多にない。ははん、野良が1匹紛れてやがるな。ということは成猫だ。野良の成猫がうちのお嬢ちゃんたちの中に潜んでいる。野良の分際で貴族社会を夢見てやがる。ふざけるな。猫にシンデレラストーリーなどない。排除してやる。ガイは成猫にしぼって、毛色、柄、顔の表情を細かに識別した。

 13匹。成猫の数としては正しい。毛色も柄も表情も、全てガイが所有する猫。だとすれば子猫。だが子猫が紛れ込むなんて考えにくい。何度も確認して気づかなかったということは成長段階も同程度だと考えられる。まさか最初からーー子猫が生まれた頃から数え間違えていたのか? だとしたら俺も相当落ちぶれた。引退の二文字が目に浮かぶ。まあ、子猫を数えればはっきりすることだ。毛色も柄も記憶している。表情だけは大目に見て欲しい。子猫は総じて愛くるしい。つぶらな瞳で見つめられると、記憶なんてぶっ飛んじまう。

 8匹いる。間違いない。1匹多いのだ。子猫だけをダンボール箱に入れて集めた。毛色も、柄も、全て見覚えがある。不思議だ。やはり、そもそもが俺の勘違いだったのだろうか……?

 その時、1匹の子猫が鳴いた。まるでカナリアだった。その長く澄み切ったフルートのような音色にガイは一瞬で魅了された。こんな鳴き声は今までに聞いたことがない。これは単なる鳴き声などではない。神の息吹が込められた、天界の楽器だ。

 ガイは恐る恐るその猫をつまみ上げた。途端に心がとろけた。まず、この毛並み。指に吸いつくような、ほんの少し湿り気を帯びた感触。これはラッコだ。もちろん触ったことなどないが一時はラッコ族を絶滅寸前にまで追い込んだ毛皮の質。この猫はそれすら超えているかもしれない。ふと思い、ガイは子猫に鼻を近づけた。めまいがした。自分が一筋の煙となり、空高く立ち昇るかのような夢見心地。いや、そんなはずはない。頭ではわかっている。そんなことありえないのだ。だけど、記憶が揺さぶられる。この猫は、あの甘い紅茶と同じ香り、そうカホリの匂いがするのだ。

 末恐ろしい。嗅げば嗅ぐほど狂おしいほどの恍惚感。もはやカホリの香りの比ではない。脳を直接ほじくられるような破滅的な芳香。子猫が「なーん」と鳴く度に、舞い上がる胞子のように甘美な香りはガイを包み込む。

 まずい。猫に熟知したガイだからわかる。この猫はまずい。人を狂わせる。物の怪の類。だがそれを踏まえたとしても時すでに遅し。ガイの意識が議会だとすれば、危険信号を放つ理性はわずか一議席しか持てず、どんなに声高らかに主張しても多数派には到底及ばないありさまだった。

 ーーなあん。子猫は鳴いた。可愛らしくてたまらない。愛おしくて止まらない。この感情、どう処理すれば良いのだ? これに比べればカホリへの恋慕など無に等しい。俺はこの猫を、母のように我が子のように愛し、いっそ一つになってしまいたい。

 導かれた答えは『食べる』ということだった。子猫が「なあん」と鳴いた。ガイは頭にかぶりついた。しっとりとした毛が歯茎に絡みつき、くすぐったく感じた。前歯が簡単に肉を断った。頭蓋骨は鳥の軟骨程度の硬さだった。ぐりっと歯を立てると頭蓋骨の内側からジュースが溢れた。ガイは夢中で飲んだ。子猫は「なあん」と鳴いた。じゅるじゅると音を立てて吸った。吸い尽くすと、頭部をかじり取った。みかん程度の大きさだった。子猫は「なあん」と鳴いた。ガイはバリバリと音を立てて頭部を食べた。

 子猫は頭部のおよそ三分の一を失いながらも生きていた。むしろ先ほどよりも活発に猫なで声を出した。「なあん」と鳴いては喉をふるわせ、血で汚れたガイの顎に心地良い毛並みをすり寄せた。

 圧倒的な狂気に近づきながらも、ガイはわずかに残った理性で猫の中身を見た。頭部の断面は血に染まっていない。頭蓋骨の中にはあるべきものがない。あるのは、そう……海だ。とうに理解など超えている。噛みちぎって半球状と化した猫の頭部には脳みそなど存在せず、静かに凪いだ海が広がっている。驚愕が眼球を圧迫した。平たく押しつぶされ、文字通り目を皿のようにして見た。海の底に黒い何かが渦巻いていた。それは単に、光を遮る堆積した海水の層がそう見せているのか思ったが、渦はまるで生きているかのようにせり上がってきた。何かしらの意志を感じる。不気味だが、目を反らすことはできない。心の暗部が共鳴する。闇の知性に侵食される。ガイは見た。音も匂いも遮断された。ただ見ることがガイの存在意義だった。ついに渦は海面まで達し、目の前でせり上がってきた。ゼリー状のそれは空気に触れながらも渦を巻き続けた。ガイの黒目がその動きを追った。見ているうちに自分の内部にも同じものが渦巻いているのだと信じた。黒い渦はドーム状に盛り上がり、あたかも子猫の脳のような形になった。「ああ良かった(ちゃんと治るのだな)」などとぼんやり思うや否や、脳はぐにゃりと溶けて鳥の形に変化した。その目まぐるしさに感動を覚えた。ミニチュアのように小さいが、これは完全にワシだ。ガイもよく知るオジロワシだ。色も質感も完全に再現されている。思わず拍手をしようと思った矢先にオジロワシはぐにゃりと溶けた。まだショーの最中だったのだ。危うく水を差すところだった。ガイは更に目玉を剥き出しにして見た。すると猫が現れた。子猫の頭の中に子猫。まるでマトリョーシカ。しかも毛色も柄も本体と同じ子猫だ。とうに見知った子猫だったが、この時ガイは「知っている」と思った。そうだ。ようやく気づいたのだ。子猫は確かにガイの猫だった。今季生まれた13匹の子猫。内、2匹は死んで、親戚に3匹、ナオユキのところに1匹寄贈。そう、この子猫はナオユキにやった猫だ。わけはわからないが、とにかくそうなのだ。「猫ちゃん……」無意識にそう呼びそうになった。ひょっとしたら声も出ていたのかもしれない。ふいに懺悔の思いが込み上げ胸が痛くなった。するとこ猫はぐにゃりと溶けた。もう驚きはしない。これはきっと会話なのだ。そして驚くことに未知の会話を習得し始めているガイがいる。もう何が起きても驚かない。俺は聞いている。神の声を預かる者なのだ。

 渦の回転が止まった。そこには拍子抜けするほど小さなものがいた。胎児ーーそれが人なのか、猫なのか、鳥なのかもわからなかった。ひょっとしたら貝の類なのかもしれない。とにかく、それが水色の子どもに違いないということだけ、ガイにはわかった。そう彼が言ったのだ。未知の言語でガイは理解したのだ。ようやく会えた。地球の裏側に住むペンパルと初めて顔を合わせたような感動がそこにはあった。喜びと懐かしさと押し寄せる期待で胸がはち切れそうだった。そして激しい一体感に体が震え出した。未だ経験したことのない性的絶頂を遥かに凌駕するものだった。下半身が熱くなった。温かい海水に浸かっているかのようだった。ガイは三年ぶりに失禁したのだった。


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