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淡いメモ

 電話の音だ。と気づいた瞬間から木村は出る気が無かった。午前中いっぱいは布団から出ないつもりだ。それだけは譲れない、と言いたいところだが、すっかり覚醒してしまった。電話で起こされるほど嫌な目覚めはない。遅刻、不幸、サラ金の催促(木村は借金ゼロであるが)……。どうしても過敏になってしまう。

 腕だけ伸ばして時計を取った。見ると時刻は十一時。また学校からかもしれないな。電話は一度止まって、隙を与えず再び鳴った。これは出なきゃいけない類の電話か? 面倒はごめんだ。今日はとにかく寝ていたい。できれば明日も寝ていたい。冬休みの間はずっと寝ていたい。先祖に熊でもいるのではないか、と木村は本気で考えた。

 また後でたっぷりと昼寝すればいいや。そう納得させて木村は布団を剥いだ。寒い。頭が痒い。枕にはフケが新雪のように積もっている。両手で頭を掻く。一度掻けば雪崩のように痒みは増す。血が出るくらいに搔きむしり、そのままの手を受話器に伸ばすと、爪の間に湿ったフケがたっぷりと詰まっていた。後で昼寝か銭湯、どっちを取る……? 意味不明の二者択一に思いを馳せながら「はい、木村です」と電話に出た。

 聞き覚えのある声。つい最近、ほんの先日、あれ……昨夜だったか、一緒だった男性の声。「今息子は入院中でして……ええ、まだなんともわからないのですが、ちょっと意識が……戻らなくてですね。はい……原因はなんとも……はい……すみませんが、よろしくお願いします」と電話口の向こうには生徒の父親。木村がすっかり好きになった、気の良いジンケくんの気の良いお父さん。

 通話終了。木村はそっと受話器を置き、台所に移動。シンクに放置されたままのコップめがけて勢いよく蛇口をひねる。それを計五回、喉を鳴らして飲み干す。濡れたままの手で鞄からアドレス帳を出し、ベッドに戻って座る。

 ……生徒が入院した。予想だにしなかったことだ。怪我だろうか、病気だろうか、どちらにせよ、まさかジンケくんが……。お父さんは平静を装っていたが、あの優しい父親のことだ、気が気ではないだろう。父子家庭だ。否が応でも胸が痛む。

 アドレス帳を半ば無意識でめくった。ほとんど白紙の小冊子は、あるページで止まった。メモ紙が一枚挟んであるのだから当然だ。メモ紙というのは無地のアドレス帳とは別種の、淡い色のついたメモ用紙。角にワンポイントのイラストが印刷されている。男目から見てもかわいいと感じるものだ。そこに数字の羅列が書いてある。日本人ならば一目でこれが携帯電話の番号だとわかる。他に情報はない。アドレス帳はかろうじて「カ」の行。木村は十桁の数字を焦げるほど見つめ、かしわ手を打つようにパンとアドレス帳を閉じた。

 番号をもらってから半年以上が経った。それから一度もかけたことはない。この開かずのアドレス帳にずっと封印していたのだ。


 春に教職員の懇親会があった。木村は当たり前のように同年代の男性職員の中にいた。皆、少々酔っていた。話題も尽き、自然と女の話になった。まずは独身男性同士の「彼女はいるのか?」という話。それが尽きると独身女性教師に対しての「つき合ってる人いるのかな?」という詮索。だが、この話題には決して上がらない女教師がいた。関心がなかったわけではない。むしろ逆。誰もが彼女を意識していることは、酒の場が持つ不思議な共有感覚でも明らかだった。ただ、この名を出すのは野暮なことだと思われたのだ。どことなく禁忌、議論するだけ無駄、非生産的な想像は冴えない独身男性を白けさせるだけだ。音楽教諭川上恵子に対して色恋沙汰の詮索など、劣等感と敗北感を確認するだけの作業に他ならない。

 もちろん木村も淡い憧れを抱いている。職員室に咲く一輪の花とは彼女のことだ。「彼氏はいるのかな?」「いるに決まってる」「どんな男だろう?」「そりゃあスポーツマンで金持ちさ」「でも案外ダサい男かも?」「ああ見えて実は庶民派かもな」ーー。木村が頭の中で何度も繰り返したセリフが実際に耳に入って来た。どこぞの愚者がどさくさ紛れにタブーを破ったのだ。一度走り出せば男たちの妄想は止まらない。「しかしいい女だよな」「あんな女とつき合ってみたいな」「でも美人は飽きるって言うぜ」「ちょっと偏屈なんだよな」「ああ、ピアノばかり弾いてる」「芸術家肌の女は大変そうだよな」「ああ、激情型かもしれないな」「付き合う分には良いけど結婚には不向きかもな」ーー。

 そこまで想像したことはない。明らかに行き過ぎだ。男たちの妄想は木村の倫理を飛び越えた。途端に同席する仲間が下劣に思え、同時に己を恥じた。少しでも彼らと意を共にした自分を許せなかった。

「俺が聞いてきてやりますよ」木村は言った。反応を待つことなく席を立った。こいつらとは同じ空気を吸いたくない。このままバックれちまおうか、とも思った。だが背中に絡みつく粘着質な視線をそのままにしたくはなかった。あいつらは俺なのだ。これは試練だ。俺は今、俺自身を超えなくてはいけない。

 恵子は年配の教員たちに囲まれていた。わいわい賑やかな様子だ。まるで親戚一同が集まったかのような親密な空気。これぞ教師の空間。博愛精神に満ち満ちているではないか。

「ちょっと失礼します」木村は恵子の隣に割り込んで座った。「おお、木村くん、来たかね、いらっしゃい」と定年間近の国語教師が言った。木村は会釈もそこそこに開口一番、恵子に尋ねた。

「川上先生は彼氏とかいますか?」

 これには年配の教師陣もあんぐりと口を開けた。だが沈黙で場を濁すことはしなかった。突拍子のない出来事に落ち着いて対処するのは彼らベテランにとって真骨頂のお家芸。「それは私も気になっていました」と教頭が合の手を出し、「言いたくなければ言う必要はありませんよ」と国語教師が続く。「恵子先生なら一人や二人……」「そういう話はこっそりするもんだぞ」などと、次々と陳腐なセリフが飛び交い、全員の意識が恵子をフォーカスする。木村はつくづくと感じた。男はいくつになってもオスに変わらず。年配者たちの穏やかな視線は次第に粘着性を増し、顔面に刻まれた年功の皺がいやらしく歪む。彼らも同じだ。いや、むしろ若い女への崇拝が強い分、木村よりも醜悪。徳の仮面をかぶった色ジジイに違いない。

「それは……」恵子は口を開いた。周りの注目を一身に集めて、好奇の視線に押し潰れそうになりながら、絞り出すように「います」と答えた。

「すみませんでした」木村は間髪入れずに謝罪。心を無にして席に戻る。

 年配席は沸いている。「どんな彼氏だ?」「結婚は?」「交際何年?」「順調か?」などと質問の連続射撃。木村は戻り、仲間たちに肩をくいっと上げて意に答える。これで十分だ。奇跡なんて起こらない。皆の予想どおり、美しき人には相応の相手がいるのだ。場は完全に冷めた。むしろ年配席にその熱は移った。ただただ申し訳ない気持ちが募る。恵子先生はおもしろくないだろう。きっと恨まれる。いや、むしろ恨まれるのなら幸い。今後おそらくは無視だろう。こんな失礼な男は、存在自体を否定される。

 その後、すぐに会はお開きになった。当然用意されている二次会には行かなかった。誰にも何も言わず、空気のように抜け出した。家まで数キロの距離があるが、たまには歩いてみようかと思った。皆は次の会場に向けて徒党を組むように集結していた。木村は街灯から外れた闇の領域に体をスライドさせた。延々と続く薄暗い路地だ。二次会へ行くという選択肢は既に平行世界へ分岐した。

「木村先生」

 声をかけられた。まさか、そんなはずは……この声……。

 振り返ると恵子。

「……どうしました?」と答えるのが精一杯だった。わかっている。「どうしました?」は向こうのセリフだ。どうかしているのはこちらなのだから。

「帰っちゃうんですか?」恵子は聞いた。

「ええ、まあ……」木村は答えた。

「歩いて?」恵子は聞いた。

「はい」木村は答えた。

「あれ、嘘です」恵子は言った。

「はい?」木村は聞いた。

「いません……彼氏とか、いません」

 時が止まったのだと感じた。

「なんか、とっさにいるって言っちゃいましたけど、いないんです……」

「そう……ですか」

「どうでもいいですよね、すみません」

「いえ!」木村は張り手のような声を出した。周りに気付かれてしまう。もっと暗い場所に行きたい。なんとか、あと数歩、街灯の外に行けないものか、と思いつつ「こちらこそすみません、変なこと聞いてしまって……」と言う。

「木村先生は……?」

「はい?」

「彼女さん、いらっしゃるんでしょ?」

 熱くなった。脳の内側が膨張し、くも膜下が圧迫された。熱は途端に全身に広がり、スモークのように自分の体臭が染み出した。嗅がれてはまずい。絶対に嗅がせてはいけない。木村は微動だにしない覚悟を決め、体臭の流出を極力防ごうとした。

「いません。いませんよ。いるわけないです。俺みたいなやつに……まさか、いないですよ」

 恵子はにこりと笑った。少女のように屈託のない笑みだった。そして一瞬うつむいて、そのまま右の拳を前に突き出した。木村は一瞬、みぞおちを突かれるのかと思い、反射的に受けの手を出した。

「もし、何かあれば……」恵子は言った。うつむいたまま、表情を隠したまま。その拳には淡い色のついたメモ紙。親指と人差し指の間にきつく挟まれている。

 木村は受けの手でメモ紙をつまむ。するとスイッチが切れたかのように恵子の拳は開き、面も上がる。にこやかな表情も復活。

「帰っちゃうんですか?」恵子は聞いた。

「ええ……はい」木村は答えた。明確なデジャブ。

「行かないんですか?」恵子は聞いて、肩で後ろを指した。ガヤガヤと二次会へ向かう同僚たちの輪。

「ちょっと……用事があるもので」意味のない嘘。

「そうですか……」恵子は言う。「私も帰ります」

 恵子は会釈して去った。「私、方向逆ですので」とか何とか言ったような気がした。木村も「そうですか、気をつけて」とか何とか返したような気がした。だが全ては夢のようにおぼろげだった。今は一旦、考えるのをやめよう。意味を深く追ってはいけない。悪い夢だ。現実へ、そして家へと帰れ。この嫌な体臭をシャワーで洗い流してキツい酒を飲め。それからじっくり考えれば良い。木村はまだ手に持ったままの淡い色のついたメモ紙を指の腹で一度だけ撫でた。

 このことは口外していない。恵子本人にも改めて蒸し返すようなことはしていない。メモ紙はアドレス帳に挟んで半年間封印した。もちろん「もし、何かあれば……」的なことは起こっていないので個人的な連絡は一切していない。今のままで良いのだ。今の関係がベスト。だからこそ友好的な関係が維持できている。もし恵子が木村のプライベートスペースに侵入したら? 教師の仮面を剥ぎ取った自堕落な本性を知ってしまったら? 木村にはわかっていた。わかりきっていた。俺の体臭を嗅がせてはいけない。嗅がせるような部類の女性ではない。もっと高貴な、世のためにその才と美を奉仕するような聖女。木村にとって恵子は殉教者なのだーー。


 だが、今猛烈に電話したい。教え子が入院したのだ。正直かなり戸惑っている。動揺しまくっている。こんな時、担任教師はどう行動すれば良い? 先輩の教師に相談すれば良いのはわかっている。だが、直感的に恵子に聞きたい。恵子に一緒に考えて欲しい。「もし、何かあれば……」は今なのではないか? 今をなくしていつだと言うのだ。

 木村は閉じたアドレス帳を再び開いた。パラパラとまっさらなページが流れ、カ行で止まる。何度見ても美しいメモ紙。粒のそろった小さな数字。まるで米粒アートのようだ。どうすればこんなに繊細な字を書けるのか、ミスター野放途には理解できない。だけど、なんて可憐な筆跡……。

 携帯電話は鞄の中に入れっぱなし。もう一週間も触っていないような気がする。出すと案の定、充電の表示が赤ランプ。着信もメールもない。昔から携帯電話は性に合わなく、緊急連絡先として仕方なく持っているだけだ。筋の通った説明などできないが、恵子の個人携帯に電話をかけるには、やはり携帯電話からの方が良いと感じる。その方がなんとなくフェアだと。

 充電器をつなぎ、充電中のランプが点灯したのを確認し、淡い色のついたメモ紙から番号を拾う。一文字一文字、親しみを込めて数字を打ち込む。深呼吸をしてから通話ボタンを押したーー。

「はい、もしもし」

 永遠とも思えるようなコール音を制し、少々当たりの強い恵子の声が受話器を突き破った。

「木村です」と言うと、「木村先生ですか?」と聞き返された。知らない番号からかかってきたのだから当然と言えば当然の反応なのだが認識の早さに喜びを感じる。

「そうです。木村です。突然電話をしてしまい、すみません」

「いいえ。どうしました?」

「実は……」木村は生徒が入院した旨を伝えた。

 恵子は「えっ!?」と割れるような声を出した。左耳から入った「えっ!?」が右耳に抜けてパンと弾けた。あまりの破裂音にめまいがするほどだった。

「ジンケくん、リコーダーが上手なんです。歌もうまいです。男子って合唱嫌がるみたいですけど、ジンケくんは声もきれいで、音程もバッチリで、ひょっとしたら女子のソプラノも歌えるんじゃないかな。でもジンケくん、決して目立つような歌い方はしないんです。だからやっぱりアルト、テナー? いえ、なんて言うか、どのパートにもいないけど、どのパートにも属せるような不思議な歌声なんですよ。でもどうしてジンケくんが……」

 恵子が「ジンケくん」と呼ぶことにも驚いたが、改めて電話機という道具の摩訶不思議な利便性について新鮮な驚きを感じた。距離を隔て、互いの声を手のひらサイズの機械にゆだね、さらには電波という目には見えない概念上のルートに乗せ、その複雑なプロセスを経て初めて通話を実現させる。それなのに、多々あるべき障害はみじんも感じられない。むしろ普段顔を合わせるより自然と意思疎通が成り立っているような気がする。これは何だ……? 相手を明確に近く感じる。近いを通り越して、まるで自分の中に取り込んでしまったかのような、心と心が直接触れているような感触。電話とはこれほどまでに素晴らしいものだったのか!

「いつ行くんです?」恵子が聞いた。

「いつ……?」一瞬木村は意味をつかみ損ねた。

「やだ、お見舞い行きますよね? 私もお供します」

「あ……はい。早い方がいいかと……」

「じゃあ今から、今日、行きましょう!」

「は、はい……」

「一時間後でいいですか? 私、車出しますんで」

 車を持たない木村には、それがある種の突破口に思えた。

「すみません。じゃあ、一時間後にーー」

 不謹慎かもしれない。だが、正直、高揚している。通話の切れた受話器が耳に吸いついて離れない。ツーツーという通知音がまるで小鳥のさえずりのように愛らしく聞こえる。ちょっと待った。違うのだ。俺はピュアな友情に歓喜しているだけだ。断じて色気づいているわけではない。ましては教え子が大変な時なのだ。

 木村は名残惜しさを振り切って受話器を置いた。気流がほぐれ、かすかに恵子の香りが鼻腔をくすぐったように感じた。

 まずは風呂に入らねば。熱いシャワーで全身消毒。髭もきれいに剃り上げ、髪もなんとか見栄え良く整えなければ。時間は……限られている。もう一時間を切っている。待ち合わせは……十二時? 待てよ、昼時じゃないか。まさか飯を食うようなことに……なるのかもしれない。いや、なると考えて正解……。すわ、考えただけで、かーっと体が熱くなる。おい! 教師よ! もっと教え子のことを憂え! と、律すれば律するほど恵子の笑顔が思い浮かび、不潔な肌は痒みを増す。

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