憑依
スグルはすぐにやって来た。
「来てくれるって」とジンケに言うなり、ヨリコはいそいそと支度を始めた。簡単な食事をとり、顔を洗い、歯を磨き、髪を整え(その全てをジンケは見たわけではないが再び部屋に戻ったヨリコのこざっぱりした印象からそう判断した)、部屋の掃除をしている最中にインターホンが鳴った。すぐさまヨリコは弾かれたように部屋を飛び出しジンケの親友を伴って戻って来た。
ヨリコはどこまで話したのだろう。スグルはどこまで事態を把握しているのだろう。ジンケは緊張していた。親友にどんな顔をして会えば良いのかわからなかった。何かの約束を破ったわけでもないのだが、どうしてか後ろめたい気持ちがついてまわった。
「ジンケが入院した」部屋に入るなりスグルが言った。
「知ってる」ヨリコが答えた。
「行くだろ? お見舞い」スグルが言った。手には紙袋が下がる。中は菓子折りだと、誰が見てもわかるような包装紙のデザイン。
どうやら何も伝わってはいないようだ。だが、ジンケには手に取るようにわかる。スグルはヨリコから電話が来なくてもここに来るつもりだったのだ。「ジンケが入院した」と伝えるために。だからこんなにも早かった。きっと父が伝えたのだろう。こんな時だがやはり嬉しいと感じる。父は息子の親友をきちんと把握している。この世にスグルより優れた友などいない。
「ここにいるの」ヨリコは言った。
「へ?」スグルは間の抜けた声を出した。
「ここにジンケがいるの」ヨリコは言い直した。「感じない? 窓のところ。スグルから見て斜め右。こっちを見てる。ジンケがいるの、この部屋に」
「嘘だ」スグルは言う。「死んでない。死んでなんかいないぞ、ジンケは……」
スグルは睨んだ。ガールフレンドに対して敵意をむき出しにした。
ジンケは泣きそうだった。あるはずのない涙が幻肢痛のように目頭を焦がした。そこから発火して、いっそ燃えてしまいたかった。
「嘘じゃない。知ってるでしょ、ジンケの秘密」ヨリコは言った。
「言って良い冗談と悪い冗談がある」スグルは言った。「これは絶対に言っちゃだめな冗談だ」
「嘘でも冗談でもないもの」ヨリコは答えた。「わからないの? 友達でしょ。そこにいるのが本当にわからないの?」
スグルは窓の方を見た。何も見えない。何も感じない。「ジンケ……」口を突いて出た言葉だけが虚しく響いた。
「答えてあげて」ヨリコは言った。
ジンケに言っている。スグルとは違い、ヨリコはジンケを完全に目視、「物でも音でも何でもいいから」と要求する。
音を出すのは簡単だ。物を動かすのも簡単だ。僕はここにいるよと知らせることは進化した幽体では難なくこなせる。それはヨリコにも証明済みだ。だがこうしてスグルの前にいると、とても妙だが、それがいけないことのように感じてしまう。大観衆の前でやる手品よりも、一人の賢者の前でやる手品の方が緊張する。とんだ茶番を演じるような気がしてならない。以前、スグルに幽体離脱をレクチャーしたことが遠い昔の児戯に思える。今こうしてスグルに対峙するとはっきりわかる。そもそもスグルは違った。霊とは無縁の真人間だったのだ。
それでもジンケはポルターガイストを試みた。だが何も起きなかった。なぜか、そのやり方がわからなくなった。何もかも一切合切思い出せなかった。あんなに簡単だった物理干渉が、まるで夢のように消えた。
「やっぱりね」ヨリコがささやいた。ほとんど息だけの声だった。
ジンケは聞き逃さなかった。何がやっぱりだ? そう問うてやろうかと思ったが、同時に「やっぱり」に納得している自分もいた。スグルには何か不思議な力がある。本人がそれを意識しているとは思えない。だが、意識せずとも自動的に発動しているような力だとジンケは予想する。ひょっとすると結界のようなものなのかもしれない。霊の力を相殺するような、ジンケやヨリコとは別の類の力。おそらく、ヨリコの「実験みたいなもの」と関係しているのだろう。スグルには彼自身が知る由もない秘密があるのだ。
「わかった、もういい」スグルは言った。「ジンケがそこにいるのかどうかなんて、いくら議論しても仕方がない。とにかくお見舞いに行かなきゃ。もし、ジンケの中身がここにいて、病院には抜け殻だけしかいなかったとしても、それでもお見舞いはするもんだと俺は思う」
試されているような気がした。このままスグルを行かせてしまうようでは、この先が思いやられる。何をやっても無様に負けてしまうだろう。ジンケは生まれて初めて意地を張った。生身の肉体を持っていた時には感じたことのない感情であった。この年齢の少年では珍しいことだが、ジンケとはそういう少年だった。意地を張ったことも努力をしたこともなかった。ただ、興味と探究心が極端にズレていたのだ。
だが、この瞬間、ジンケは意地を張った。
スグルが出て行こうとする間際、何気にガールフレンドの自室を横目で見やり、開いたままのクローゼットに目を止めた瞬間、ジンケも親友と同じものを見た。
赤いロボット……。そう、赤いロボットだ。この部屋には、何はなくても赤いロボットがあったのだ。
ジンケはすかさず飛びかかった。赤いロボットに。その厚紙で出来た後頭部の付け根へ、飛び込み競技の選手のように指先をぴったり揃えてダイブした。
赤いロボットが一度だけ爆発的に動いた。コメディアンが「ワオ!」と驚いたかのような大げさな身振りだった。その直後、赤いロボットは以前よりも惨めな姿になった。首も手足もそれぞれバラバラの方向を向いた。ビルの屋上から落下したかなような有様だった。そして喋り出した。その厚紙100%のボディを羽虫の如く共鳴させて、声と思しき雑音を発したのだ。
「ボボボボボボボボ……」赤いロボットが言った。
これにはスグルも飛び退いた。横っ飛びで90度向きを変え、着地した時にはクローゼットに体ごと向いていた。体も気持ちも、先ほどまで部屋を出ようとしていた時とは真逆だ。
「なんだ!?」言ってスグルはヨリコを見た。ヨリコも驚いていたがどこか笑っているような表情。目は丸いが、口角は両方とも弓なりに上がっている。「ジンケよ」ヨリコはそうとだけ答えた。
「ジンケなのか……」スグルは赤いロボットに聞いた。
「……ボボボボボボボクダ……」赤いロボットは答えた。「ジジジジジジジンケダ……」
「ジンケか!」スグルは呼応した。満面の笑顔まで見せた。
ヨリコだったなら、そうはならないだろう。事前に何も知らされず、いきなり狂ったように喚き散らす厚紙のロボットが「ボクハジンケ」だと名乗っても信じられるわけがない。だが屈託のないスグルの表情を見ると完全に信じきっている。このガラクタにはジンケの要素など一つもないのに。まさに友情のなせる技だ。人間には特別な能力などなくても友情がある。友情ほど不思議なものはない。友情ほど強いものはない。考えてみれば、赤いロボットにあの人が憑依した時なら、あたしは迷うことなく特定できる。霊が視えるとか感じるとかそういうのを抜きにしてもだ。だから、あたしだってスグルと一緒。太陽みたいに笑えるはずだ。そうヨリコは思った。
一方ジンケは赤かった。何から何まで真っ赤だった。我ながら赤いロボットとはよく言ったものだ。色はもちろん赤、匂いも赤、音も赤。味わったことのない共感覚の渦で身動きが取れない。自分でも忘れていたがご丁寧に厚紙の裏にまでご丁寧に赤く塗ってある。この夏休みの課題に一体どれだけの赤絵の具を使ったのだろうか。恥ずかしながら記憶がない。それだけ夢中で製作したということだ。だが、そのおかげで学習できた。憑依するということは色も匂いも音も、感覚の全てを受け入れるということだ。しかも、それと同時に受け流すことも必要になってくる。言葉で組み立てると支離滅裂だが、これは習う類のものではなし、慣れるしか術はないのだ。だから赤で良かった。これが意志を持った人間なら? 色も匂いも音も、それこそ無数に存在する。きっと少年は失敗するだろう。なにをどうすれば成功するのかもわからないまま、次の憑依のきっかけまで何年もかかるだろう。その点で赤いロボットは優秀だった。ご親切極まりない憑依入門キットだったのだ。
「ススススススグググルルルルル……ボボボボボクククハハハハハ……」
だが操縦はうまく行かない。スグルは声だと認めてくれているようだが、厚紙の箱の中で数匹の蜂が狂喜乱舞しているかのような不快音。どうすればもっとうまくしゃべれる? 練習量の決定的な違いか?
「アババババババババ……アアアバババババ……」
らちがあかない。意識すればするほど言葉が遠くなる。次にジンケは動いてみた。まずは右手で挙手をしよう。世界共通の意思表示。
と、かっけのように左膝が上がった。
何かの間違いだろうと、再び右手を上げた。すると顎がぐんと天を向いた。反動で体勢を崩し、狭いクローゼットの中でもんどりを打った。
ーーこんなはずはない。
意識的にそう思った。するとヨリコの耳がぴんと立った。なるほど、霊の声は聞こえているのか。だが、この体はどうだ。伝達系統がバラバラ。ちぐはぐな法則すらない。操縦桿が逆なだけならまだ対応できるというもの。しかし、右手を上げようとして一度として同じ結果にはならない。左膝、顎、左肩、腹、臀部、両のつま先、などなど……神経を掛け違えたのならそれに対応する部位が反応するはずだが、そうではないのだ。結局、この赤いロボットは不良品だったのだろうか。
「落ち着いて!」ヨリコが言った。「慣れてないだけよ。ジンケは今溺れているの。赤ちゃんが立って歩けるような浅い浅いプールでね」
わからない。実はジンケは泳げない。泳げないだけでなく、運動全般が苦手だ。飛んでくる球もキャッチした記憶がない。だから、それほど浅いプールでも溺れることに何の疑問もない。水があれば、溺れるのだろう?
「じゃあ、金縛り! ジンケは今金縛りにあってるの。ロボットもよ。赤いロボットもジンケに対して金縛りを起こしてる。お互いが、お互いのせいで金縛りなのよ!」
そうか金縛りか。確かに、どことなく似ている。もがけばもがくほど、どつぼにはまる。パニックを起こせば起こすほど、身動きが取れなくなる。例えば、呼吸ができなくなったら? と想像する。すると本当に苦しくなる。自分で自分を追い込み、自己催眠を誘発するのだ。それが金縛りの厄介なところ。だがコツさえつかめば簡単に解除できる。ガチガチに反発するのではなく、自らを解放し、全てを受け入れる。
それは許すこと。奉仕すること。他者のために贖い、己を捨てること。さすれば金縛りは相殺する。取り憑く側もそれで浄化されるのだ。一つ大きな勘違いがある。彼らは何も取り憑いて殺してしまおうとしているわけではないのだ。ただ人間の温もりに、生命の匂いに引き寄せられているだけ。この身を無条件に差し出してやれば、彼らは歓喜に打ち震え、まるで巡礼の徒のように礼を尽くして立ち去るのだ。そう、決して邪悪なものではない。金縛りは受け入れることによって、陰から陽へ転じ、清浄な霊験へと昇華するのだ。
静寂が訪れた。ロボットは死んだように、それこそ元のガラクタ以外の何物でもないと言わんばかりに静止した。だが、ほんの二秒、秒針が二つ刻む間をもって、まばたきほどの仮眠をとった労働者の如く腰を上げた。身のこなしは滑らか。まるで3Dアニメーションを見ているかのよう。スグルの末弟がここにいたら両手を挙げて喜びの舞を繰り出すだろう。
「ヤア……スススコシハ……ママシニナッタカナ……」
赤いロボットは喋った。そのスマートな身のこなしには不釣合いのどもりようだったが、多少聞き取りやすくはなっていた。それでも風の音と言われれば納得してしまうような、どちらかと言えば環境音に近い類の声だった。
「スススグル……オミミ、オミマイハイイカラ……ボボクノハナシヲ、キキキイテクレ……」赤いロボットは語り出したーー。
話は二時間にも及んだ。一つのセンテンスを言い切るのにたっぷり一分間はかかってしまうので、その都度ヨリコが通訳を買って出たが、スグルはそれを拒否、根気よくロボットの雑音めいた語りを聞いた。親友はどんな姿をしていても親友に変わりないと信じたかったし、ジンケがこの先ずっとこの姿のままで生きて行くのならば、スグル自身、今から慣れて行かねばならぬと考えたからだ。
「それでその水色の子どもとかいうやつを倒すには、とりあえず俺たち全員集合しなきゃいけないんだな?」
赤いロボットはうなづいた。
「まずはガイか。よし、俺ひとっ走りしてくるわ」
「電話じゃだめなの?」ヨリコが聞く。
「ガイは家にいないよ。ハックルベリーフィンみたいなやつだから、だいたい外に出てる。だいじょうぶだ、目星はついてるから」
「じゃあ、あたしはカホリに電話する。その後の待ち合わせはどうする?」
「そうだな」スグルはやけに大人びた、影のある表情で答える。「これって絶対の秘密だろ。誰かの家ってわけにいかないもんな。メンツがメンツだし……」ちらりと視線の先に赤いロボット。
「キチキチキチキチ……」ロボットは言う。「ヒミツキチダ……」
スグルが危惧していたのはジンケの今現在の見てくれだけではなかった。ジンケから聞いたメンバー。今ここにいる三人プラス五人。なかなかレアな組み合わせだ。まずこの八人がつるむことはない。昔馴染みのガイは良いとして、ナオユキを中心とするアウトローチーム、何をやらせても様になる絶対才女のカホリ、この二枚のカードは紛失したまま繰り返される、上がりの来ないババ抜きを連想させた。ただ、スグルのみは一通りうまく付き合っていた。まず人付き合いに偏見というものを持たない。確かにジンケを親友と認めているがナオユキもタカシもハッセも、箱入り娘のカホリでさえも、かつてはホースの水をかけ合い泥玉をぶつけ合った仲だ。今でも半裸状態で取っ組み合っていた当時の口調で語り合うことができる。それがスグルという人間だった。だが、ヨリコとジンケは特殊だ。二人に共通するのは、どこか心を閉ざしているような近寄りがたい雰囲気を持っているということだ。もちろん、言葉通りの意味ではないことをスグルは知っている。ジンケは興味の分野がとことん狭いだけだし、ヨリコは本人というよりは周りが避けているきらいがある。それに、やはり結局はこの問題に戻るが、今のジンケ見て、彼らはどう反応するだろうか。それ以前に、親に見られるとまずい。その方が厄介かもしれない。だから赤いロボットが提案した場所はベストだと思われた。さすがジンケだ。鋭い直感はいまだ健在。
「そうか……」スグルは腕を組んだ。足は肩幅に仁王立ち。どこか指揮官めいた物腰。「ついに俺たちの秘密基地を公開する時が来たんだな。いつかはこんな日が来ると思ってた。今まで守り抜いてきた価値があるってもんだよ。よし、じゃあ基地に十三時過ぎに集合ってことでいいな?」
言い終えるや否や、スグルは部屋を飛び出す。その変わり身の早さが痛快。まるでテニスボールだ、とヨリコは思う。
「イ、イマ……ナナナナンジ……?」赤いロボットは聞く。
「出てきたら?」ヨリコは逆に問う。
がくっとロボットの頭部はうな垂れ、だまし絵のような半透明の少年がその後ろから這い出る。
ーー不便だ。
彼はそう言ってヨリコの目覚まし時計を見る。時刻は十一時。約束の時間まで二時間。
「今のうちに練習しとけば?」ヨリコは言う。「出たり入ったりしてれば嫌でも慣れるでしょ。あたし、電話してくる」
ふがいない。予想以上に無力。じれったい、けれどもどうすることもできない。確かに、練習は賢明な行動だ。
ジンケは再び飛び込んだ。自身が作成した赤いロボットの延髄へ。途端、既視感を伴う爆発的なモーション。ジャジャーンと効果音が鳴りそうな道化的ポーズ。「ズババババババ……」。意図しない声がセミのようにけたたましく鳴る。またやり直しだ。反復、反復。鍛錬、鍛錬。これは努力ではない。ジンケにとっては既にライフワーク。少年の霊は取り憑かれていた。懸命に取り憑く練習をしながら、その取り憑くという行為自体に取り憑かれていたのだ。このパラドックスが少年を強くする。異能へと異能へと成長させる。誰が望んだわけでもない。自らの本能が異端だと、少年は心のどこかで気づいている。時に誰かのせいにして我が身の不幸を訴えたくなるが、それは僅かに残った社会的執着に過ぎない。少年の本質が悪魔的だということを知るのは、彼自身と、密かに彼を見守る光の一点であった。




