叩く手
いつもの目覚まし時計が鳴ってから何度止めたかわからない。それにしてもしつこい。このスヌーズ機能ってのはいつまで続くのだろう。ひょっとしたら目覚ましが鳴る夢を見続けているだけで、本当はまだ夜も明けていないのかもしれない。だけど確かに耳障り。だから布団の中に、お腹の真ん中に閉じ込めた。温めたって目覚まし時計からは何も孵りませんことよ。我ながらうまい事を言う。少女は頭まで毛布をかぶり、夢うつつにほくそ笑む。
ーーぴよぴよ。時計が鳴った。おやおや、ちゃんと孵ったじゃないか。先ほどまで不快感しかなかったアラーム音が若干の愛嬌を伴う。ちょっと考え方をシフトするだけでこんなにも前向きになれるなんて、朝からなかなか調子が良いぜ。さて、そろそろ起きてみようか。ヨリコは目覚まし時計を止めるべく腹の真ん中あたりに手を伸ばしたーー。
はずだった。使い古した目覚まし時計の、広くて浅い、カスカス言う押し口を指先で連打するつもりだった。だがアラーム音は止まらない。それもそのはずだ。体がぴくりとも動かないのだから。
……金縛り。それもかなり強力。しかも技術的にも卓越している。まるで水晶の中に閉じ込められてしまったかのように身動きが取れない。運悪く鼻と口を毛布が覆っていたら窒息死してしまうだろう。それほどに完全な麻痺状態。だが怖くはない。現に今の今まで邪悪な気配はしないのだ。これが夢だとも思えない。こんな金縛りは初めて。ヨリコの知る金縛りとは、とにかく不快であり、地の底から這い寄るような悪寒で全神経が毛羽立つのだ。
ーーやめて。ヨリコは念じた。心に強く。容赦なく、歯向かうようなら切り捨てる覚悟で。結局、金縛りをかけてくるような霊はこけおどしに過ぎない。ヨリコほどの霊感少女ならば金縛りの解き方など九九の算より容易いのだ。
だが解けない。どうしたことか。皆目わからない。毛布を頭まで被ってしまっているので、外の様子もわからない。これは本当に霊なの? まさか……病気……!
そうだ、目覚まし時計のアラーム。こんなに鳴りっ放しなのだから、きっとお母さんが気づく。お母さんが起こしにくる。助けて……お母さん!
刹那、身も凍るような寒気。くるまっているはずの布団の中にえぐるような冷気。腹だ……。何かが腹に触れた。そして暴力的にヨリコの腹をまさぐり、カチリと耳慣れた音。アラームは止まった。何者かの氷のような手が、目覚まし時計のスイッチを押したのだ。まさか、布団はどうした? あれは布団の上からの感触ではない。布団をすり抜けてヨリコの腹に触れたのだ。
ーーやめてやめてやめて! ヨリコは念じた。強く、叫ぶように祈った。だが謎の手は次なる行動に移った。叩いている。ポンポンと。いつも頭まで布団にくるまってしまうヨリコにとっては無用の長物である枕。それが羽毛洞窟の外にある。ポンポンポン。手は枕を叩いている。もしお行儀よく枕に頭を乗せていたら? 想像するだけでぞっとする。この時ほど寝相が悪くて良かったと思ったことはない。誓っても良い。この先一生、そう思うことはないと。
ーーおはよう。
頭の中で声がした。あたしの声ではない。あたしはおはようだなんて念じていない。気持ち悪い。精神にまで干渉しようとしている。もう朝だというのに。いや、昼まで寝てしまったのかもしれないけど明るいのは確か。布団にくるまっていても外の光を感じる。光? そうだ、目は開いている。多くの金縛りに共通することだが、目だけは自由が効くのだ。
ヨリコは見た。キツネだって本気を出せば、これだけ目が開くのだと言わんばかりに、己の糸目を見開いた。
視界は広がる。くるまった布団の中にいく筋もの淡い光。どこかに隙間があるのだ。ヨリコは眼球を限界までねじれさせ光の源を辿った。
……見えた。かまくら布団の中から垣間見る外。ちょうど枕が見える。そして上下する手。霊にしては濃い。だが人間にしては薄い。ヨリコだけに視える半透明な幽なる手。規則的に枕を叩く、この世のものではない存在。
ーーおはよう……おきて、おきて、おきてよ……。
霊が自分を起こそうとしている。それも意識的に。だからこんなに強力なのだ。通常、霊は人を起こさない。無理矢理入ってこようとするのだ。それは霊の本能のようなもので、猫が暖かい陽だまりに集まるように人の寝息に呼び寄せられる。そして、ある程度取り憑く段階までこぎつけたら、霊は対象の人間が目覚めないように全精力を注ぐものだ。目覚めてしまうと、意識の力でたいがいの霊は弾き飛ばされてしまう。眠っている人間こそが霊にとっては癒しなのだ。だが、中には例外もある。それが起こす霊だ。この場合、明確な意志を持ち強烈な怨念を持つ悪霊か、何か重大なメッセージを伝えに来た先祖霊もしくは守護霊の類。そのどちらであっても対象の人間は強い緊縛状態に陥る。これは肉体的な麻痺というよりは、どちらかと言えば催眠に近いものであると推測できる。遥か古代、人類がまだ呪術に全面の信頼を寄せていた時代。神なる存在との交信に、自らを実験体として脳の禁忌領域を侵した呪術士たちの名残なのかもしれない。だがこの霊はどちらでもない。ヨリコは既に気づいていたのだ。枕を叩く手を見た瞬間に超然と理解していた。邪悪なものではない。神聖なものでもない。この霊は初対面ではないのだ。霊にしては濃いが人間にしては薄い半透明な手。これはヨリコのよく知る人間の手だ。
「ジンケ!」ヨリコは叫んだ。その瞬間金縛りは解け、少女は温いかまくらから飛び出した。「何してんのよ! ジンケ!」
ジンケは面食らって後ろに飛び退いた。そのまま霊は、宙に浮く。
「なに起こしてんの! やめてよ! 知らないの? 金縛り!」
ーーえ? だってもうお昼過ぎてるよ。僕はただ、心配で……。
「寝るでしょ! 寝たっていいでしょ! なんで起こしてんのよ!」
ーーいや、だって……僕みたいになったかと思って……。
「そっか……」ヨリコは寝起きのボサボサ頭を重たそうに支えて言った。「だいじょうぶよ。最近眠れてなかったから。一気に寝ちゃったのね。でも、起こしちゃだめじゃない……」
ーーなんで?
「本当に知らないの?」
ーーなにを?
「ああ……」ヨリコは両足をベッドの外に揃えて出した。霊と向き合う形。霊は未だ浮いたまま。母親の平手を待ち受ける幼児のような緊張した面持ち。「霊が眠っている人間を起こしたら超ド級の金縛りになるのよ」
ジンケはびくっと体を震わせた。そして自分の両手を見て、信じられないといった傍目にはおちゃらけているような仕草を見せ、まるで何かの電源が切れたかのように浮遊装置が切られ、油圧シリンダーの緩慢さで床に着地した。その一連の動作は、妙に憐れみを覚えさせた。
「それで、調子はどう?」ヨリコは聞いた。
ーー変わりなし。病院の僕も。こっちの僕も。昼間に活動するのは初めてだけど、夜と同じように動ける。どう? 見た目変化ある?
「明るいからちょっと違和感はあるけど」ヨリコは答える。「透明で見えないってことはないわね。確かに半透明で後ろが透けて見えるけど、ちゃんといる、ようにあたしには見えてる。それに霊は日中でもいるわよ。ただ、存在感がなくなるだけ。人々は忙しいの。霊にかまっていられない人たちでこの世は回っている」
ーーそうか。
ジンケは無意識にうなだれた。完全に霊側の思考になっている。ヨリコの話を聞いて悲しくなったのだ。日中は存在感がなくなると聞いてうらめしい気持ちになった。まずい。このままでは本当に悪霊と化してしまう。僕はまだ人間だ。本体には温かい血が通っているのだ。気を強く持てーー。
「……してたの?」
ーーえ?
ヨリコがなにか言った。ジンケは聞いていなかった。
「あたしの部屋でなにしてたのって聞いたの」
ーーああ。他に行くところもないから、朝からずっとここにいたよ。
「朝から!? で、なにしてたのよ!」
ーーなにって、なにも……まぁ、見てたよ。
「見てた? なにを?」
ーーなにをなにをって……だから君を見てた……。
言いながらジンケはバツが悪くなるのを感じた。
「……ずっと?」
ーーうん。だってそれしかないじゃないか。他になにをしろって……。
ヨリコは眉間にシワを寄せ、瞬間的な思考の暗渠に埋没した。まずは恥じらい。次に淡い好意。そして苛立ちと嫌悪。様々な感情が入り乱れるが最後にはその全てが足音も立てずに退場した。残ったのは虚無感。ジンケはたった一日で人間的な感情を失い始めている。一処にじっと居座り、相手の感情を無視する行為は霊的なものに他ならない。いわゆる地縛霊的な特徴である。まずい……あたしだけじゃ手に負えない。もっと人間的な、熱い感情をぶつけなきゃいけない。
「スグルに電話してくる」ヨリコは言った。
ーーじゃあ、僕はこれで……。
「僕はこれでって、どこに行くのよ」
ーーどこか適当に……だって邪魔でしょ、スグルが来るんじゃ……。
「まだ来るなんて言ってないでしょ」ヨリコは言う。「まあ、呼ぶつもりではいるけどさ。それよりちょっと向こう向いてくれる、着替えるから。ちゃんとそこにいてよ。出て行かないでね。ちゃんと見てるんだから」
ヨリコは着替える。霊は窓の外を見ている。
「なんでスグルが来ると出て行こうとするのよ」パジャマを脱いでヨリコは聞く。
ーーだって君たち付き合ってるんだろう?
「霊のくせに変なところで気使うのね」ヨリコは言う。「別に……付き合ってるっていうか、ちょっとした実験みたいなもの。本気で付き合ってるわけじゃないし」
ーーなんだよ、実験って?
「なんでもいいでしょ」着替えを済ませたヨリコは答える。「そうだ、まだ顔も洗ってない。電話かけて顔洗って水飲んでくるから、ちゃんとここにいてね」
ヨリコは出て行く。取り残された霊は突然の静けさに居心地が悪くなる。孤独がどんなに寂しいものか、身を切るような感覚に襲われる。人が恋しい……。ふと、ヨリコが寝ていたベッドに気を取られる。掛け布団はかまくらの形を保ったまま。中はとても温かそうだ。人間が持つ温度と、生命の匂いが霊をたまらなく誘惑する。しかし「ここにいて」と言われたから動かないことにする。別に動いても「ここ」の範囲の解釈次第で何とでも言い訳できるが、霊にしては律儀な、まるで飼い犬のような習性が頑として動かないことを主張する。なんだろう、ヨリコに言われると従いたくなる。単純に、霊の扱いに長けているのか、もしくはジンケの人間性とは別の霊性とでもいうべき習性が、際立って従順な特質を秘めているからなのか、本当のところはわからない。だが、確かに言えることは、ジンケが「じっとしている」という選択肢を取ったということだ。それは人間の温度と匂いを諦めさせてもなお、別種の魅力に満ちた行為だった。ただ、じっとしていることが霊にとっては苦ではないのだ。もしかしたら閉じ込められた時間の中で深遠な思惟にふける特権を、霊は死して勝ち得るのかもしれない。




