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再生

 彼は漂っていた。何かとてつもなく大きな流れの中にいるのだと感じていた。一度、この世に生を受けたことは記憶していた。目に飛び込んできた光も、全身で味わった乳の味も、色めき動き出しそうな無数の匂いも、彼の魂の深い部分に刻まれていた。だがそれらは既に過去のものであった。おそらくは母の胎内に戻ったのではないか? そういうことも、この生まれ出た世界という場所では珍しくはないのかもしれない。彼は謙虚に、そして超然的に現状を受け止めた。

 だが今度の母は巨大だった。母の胎内は彼のちんけな脳みそでは想像の及ばない広さであった。これならば、もう外に出る必要もないだろう。母を内側から圧迫して痛めつける心配もないし、自身が苦しい思いもしなくて良い。これだけ広いのだ。例えば、彼が続けて千体誕生しようとも、まだまだ余裕がある。その自身を含めた千と一体が全力で駆け回っても母の胎内は十分過ぎるほど広いのだ。

 思えば外界は過酷だった。産み落とされてからは苦痛の連続だった。肌はひりひりと痛み、目は眩しさに焼かれるようで、骨は軋んで悲鳴を上げた。必死で喰らいつく乳の味のみが生への執着であり生存の証だった。

 だが数日経てば驚くほど順応した。肉体の変化は顕著で、骨はみるみる硬くなり、毛皮は強靭な鎧と化した。風にそよぐ毛並みは気持ちが良いとさえ感じた。それから肉の快感というものにも目覚めた。肉体の限界を確かめるべく意味もなく駆け回ったり、自身と同様の容姿を持つ者たちと骨肉をぶつけ、時には歯を立て合うということもあった。それが彼をどうしようもなく夢中にさせた。血が熱くなれば、肺に出入りする空気が冷ました。その連続が快感だった。肉体の酷使と気絶寸前の快感。その連続運動こそが、この世界に産み落とされた理由なんだと、彼のちんけな脳みそは悟った。

 だから再び母の胎内に戻るなど想像だにしなかった。恐ろしいことなのだ。いわば、ようやく形になった己という存在をまた無に戻すという悪夢……。

 だが時は突然訪れた。大きな者たちが彼を水の上に放ったのだ。足場はあった。どうやら水の上に浮いているようだった。足の下の水は彼が感じたことがないほど大量で、見通せないほどに広かった。その時初めて「戻るんだ」と感じた。彼の足の下に別の世界がある。それも、形のない、動き続ける世界。放り出された彼は生まれた初めて虚しいという感覚を味わった。彼は無力だった。そして足の下の膨大な水にとって彼という存在は無に等しいもの。だが無縁ではない。一部なのだ。他の無数の有機物と同じように彼もまたひとつながりの水の中の一粒子である。そう彼が悟った瞬間に、母の気配がとてつもない恐怖を伴って急接近した。そうなのだ。水は、母なのだ。恐怖は畏怖であり、再生への鼓舞。彼は母なる膨大な水の上で、ただ漠然と理解した。ならば、何度でも生まれ直せば良いーー。

 彼は落ち着いていた。まだ生まれて間もない彼であったが、その平静さは齢百を超える老齢動物のそれに近かった。だが、一つ気に食わないものがあった。空から降りてくる多くの嘴である。多くは「キイカア」と威嚇するだけの見かけ倒しだったが、中でもひときわ高く飛ぶ巨大な翼は別格だった。巨大な翼は血に飢えた嘴だけでなく、肉食獣の牙など廃れて見えるほどの鋭い鉤爪を持っていた。この巨大な翼には迷いがない。間もなく彼を殺しに来るのだろう。それは空にとってはごく当然の権利なのだと彼には感じた。

 怒りを覚えた。だが、ちっぽけな彼にはどうしようもなかった。吠えてもひ弱な鳴き声しか出ない。これでは威嚇になどならず。空の者たちにとっては食欲をかき立てる芳醇な香りにしかならないだろう。それでも彼は吠えた。ーーお母さん助けて……! ちんけな彼の脳みそはきっと、そう訴えたのかもしれない。吠えて吠えて吠えまくると、母の気配がぐんと近づいた。麻痺しそうな畏怖に包まれる。これに比べれば空の者など虫でしかない。黒く小さな六本足の虫。噛みつかれることもあるが、さして痛くはない。

 だから彼は空から急降下する鉤爪に対して恐怖は感じなかった。既に自由意志の領域を超えていた。母なる水か、獣なる空かの戦いである。彼はその勝敗を分かつ旗でしかない自分を受け入れたのだ。彼は目に神経を集中させた。肉体は未成熟であったが目には自信があった。この世界を映す眼球は、やはり母なる水を有しているからなのかもしれない。

 死か再生かの間際、まさに鉤爪が彗星の如く墜ちる瞬間、予想だにしない邪魔が入った。空と水の戦いに、大地からの横槍が入ったのだ。岩石ーー、およそ自然界には存在しないような石の寄せ集めが巨大な翼に命中した。彼は咄嗟に地上へ目をやった。そこには大きな者たちがいた。彼らのことを忘れていた。彼らは仲間だった。同族だった。そういう意味では彼らもまた母であった。だが彼らには恐怖も畏怖も感じなかった。死も再生も、真の意味では存在しなかった。もう大地には戻れないのだと、彼らを哀れむような気持ちになった。母が近い。母が来る。ついに母が姿を表すーー!

 水の中から現れた母は、彼が今までに見たどんな生き物とも違っていた。母は透明で、同時にとても濃かった。大きな者たちよりも更に大きく、やはりとても濃密だった。母は水の上に落ちた巨大な翼を飲み込んだ。母には口も鼻も目すらもなかったが、とにかく飲み込んだのだ。彼の自慢の目でも、どう飲み込んだのかはわからなかった。母の中で驚愕の表情を見せる巨大な翼を目にすると、彼は急に不安になった。もしかすると、母に選ばれたのは翼の方なのかもしれない。そんなのは嫌だ。このまま空にも水にも大地にも見放されて、見かけ倒しの黒い嘴に弄ばれる。そんなのは絶対に嫌だ。お母さん……助けて!

 母が彼の方を向いた。目も鼻も口もない顔だが、彼には母の表情がわかった。母は手を伸ばす。翼を飲み込んだ時とは違う。大きな者たちと同じ仕草。両手を伸ばして彼をそっと抱き寄せる。何も心配する必要はなかったのだ。この果てしなく広い水の上に放置された瞬間から、母はずっと見守ってくれていた。今こうして母の波打つ胸に抱かれているとそれがよくわかった。母はこうして意志を伝える。波を通して会話するのだ。

 早く一緒になりたい。毛皮も骨も肉も心から煩わしいと感じる。自分から母の胸を切り裂き、かき分けて潜ってしまいたい衝動に駆られたが、それでは利かん坊の悪たれだ。彼は待とう。従順に、母の子にふさわしく、凛々しいまなこを一心に見開きながら、母の咀嚼を受け入れよう。

 母の手に力が入った。いよいよだ。いよいよ母の胎内に戻る時が来た。母の両手が彼を押す。波打つ母の胸が彼を押し返す。潰される……? そのことには恐怖を感じなかった。母への憧れが恐怖に変わったのは次の段階だった。彼の毛皮が……濡れたのだ。

 半身近く母の中に入った。水が彼の中に侵入してきた。水は彼を内側から喰った。そしてすぐさま排泄した。これは再生などという程の良いものではない。言うなれば生命の蹂躙。排泄された彼の残骸は、彼にとっては馴染みのない全く別種の生物であった。生きながら、じわじわと、喰われ排泄され創り変えられる。かつてない嫌悪と恐怖に彼は絶叫した。

 しかしそれも束の間の出来事だった。負の再生が彼の過半数を超えたとき、嫌悪も恐怖も露と消えた。既に残りわずかな彼自身が異端であったのだ。排泄されて生まれ直した、真新しい別種の彼がうだるような快楽に身を投じていた。肉が溶け、骨は砂と化し、肺は酸素と別離した。ここは水。水の支配する世界。水こそが母であり、我は永遠のしもべ。母の胎内は彼自身と融和し、彼のちっぽけな脳みそは終わりを告げた。


 彼は漂っていた。流れはとても穏やかで、延々と広く、あらゆるものと繋がる。この大きな流れ全体が至上のゆりかご。母は子守唄のように語りかける。ーー再び地上に戻りなさい。さすがの彼も最初は耳を疑った。だが、もう生まれ直す必要はないのだ。肉も骨も毛皮も必要ない。母の胎内にいながら、彼はどこへでも行くことができる。そして常に母と繋がっていられるのだ。

 岸が近づいた。進んでは戻ってを繰り返し、ようやく地上が手に届く近さになった。コンクリートと呼ばれる紛い物の岩石が彼に邂逅の念を覚えさせた。懐かしさと不快さが入り混じった得も言われぬ感覚ではあったが彼は無視した。彼は母の胎内から彼自身の肉体を抽出するように努めた。するとコンクリートの船着場に寄せては返す波の中からーー最初は濃いコバルトブルーの波と化しーーゼリー状の塊が出現した。

 まるで出来損ないの胎児だった。白波に押し出される塊は日の光で炙られ、みるみる乾いて行った。乾くにつれてゼリー状の表皮は膜を張り、ほぼ球状だった塊は徐々に枝分かれした。四肢と頭部、それと尾。かろうじて四つ足の獣と判別できる段階で未だゼリー状を留める表皮から触手のような毛が生えた。やがてゼリーは硬質化した皮膚の下に埋没して行った。

 彼はかつての姿で帰還した。しかしそれは外見だけのことであって、中身は全くの別物だった。もう、息を切らすこともなく、疲労も痛みも感じることはない。彼はこの地上がとてもちっぽけに感じた。言うなれば、目に映る全てが虫なのだ。噛みつかれることもあるだろうが、さして痛くはない。いや、言い直そう。噛みつかれることもなければ、痛みを及ぼすこともない。地上は矮小な微生物の世界と化したのだ。

 彼は記念すべき一歩を踏み出した。行くべき場所は母が教えてくれる。新しく生え揃った毛は、その一本一本が彼の優秀な感覚器であった。色も匂いも方向感覚までこの無数の触覚が探知してくれる。彼は歓喜した。毛の全てで匂いをより分け、少しばかりの哀愁を込めて、このちっぽけな世界を歩き始めたーー。

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