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 ジンケは自宅にいた。つい先ほどまでヨリコの部屋にいたのだが、次に向かうべき場所がわかった途端、意志の力よりも先に本能的な反射反応とでもいうべき俊敏さで移動した。ほとんど瞬間移動だった。細かく思い出せば、一つ一つの動作は覚えているのだが、その全てが光の速さだった。霊である少年が記憶している(しかも馴染みが強くイメージしやすい)場所ならば、このような瞬間移動が可能なようだった。

 行き先はもちろん屋根裏部屋。そこに瞬間移動することも可能であったが、滑りやすく急な階段をかつてのように一段一段上りたいという気持ちが強かった。それは少年にとって、いとおしい日常そのものだったのだ。

 あの人からのサインがあるはずだ。その想いは確信に近づきつつあった。一歩一歩階段を上がる。いつものようにぎしぎしと軋む音はしない。当たり前だろう。この幽体には体重がないのだから。こんなことが当たり前だと感じるのが腑に落ちなくてジンケは幽体に圧力をかけた。すると階段は軋んだ。いつものように板が鳴いた。全くおかしな話だ。霊が物理干渉している。その重大性と、その先にある予測不能な可能性を想像する前に屋根裏部屋に到達、部屋はひどく散らかっていた。

 父はよほど慌てたのだろう。ベッドの上の掛け布団は捨て落ちたパラシュートのように無遠慮にのさばり、あらゆる家具は位置と向きがほんのすこしだけずれる。少年の魔除けコレクションの数々も口裏を合わせたかのように倒れている。

 突如、突き上げるような整合的衝動に襲われる。全てを元通りに正したい。それは目の前の物質的損傷だけのせいではなく、おそらくもっと広い意味での悔悟だった。だが散らかった部屋を整頓したところで何かが好転するわけでもなし、むしろ世にも不思議な物語が一つ増えるだけのことだ。それにジンケの目的は他にある。今はただサインを探すのみ。

 だが、この荒れ果てた部屋の中でサインなど見つかるのか? ひょっとすると、この混乱の中であの人が残した僅かな兆しが破壊されてしまったのではないか? 不安要素は芋づる式に湧いて出て来るが、今まで気がつかなかったのだから、ひと暴れしただけで壊れて消えるような代物ではないはずだ。

 ジンケは無意識に彼自身がチェックと名づけた定例儀式を始めていた。ロウソクの炎で部屋を精査する少年独自の霊的な習慣である。ロウソクに火を灯すことはできないが、指先に炎をイメージすると、人差し指の幽かな爪が妖しい陽炎と化した。これはこれで便利だなと少年は感心した。我ながら器用だ。

 異常なし、異常なし、異常なし……。エクトプラズム状の炎は良家の令嬢のように細くすまして立ち昇る。残すは一箇所。半ば予想はしていたのだ。ここ最近、唯一不可解な出来事があったのだとしたらテレビだった。年代物のブラウン管テレビ。まともなチャンネル一つ映らない壊れたテレビ。砂嵐専門チャンネル独占放送チューナー内蔵テレビ。そう、それほど遠くない過去。町はいつも通りの平穏さで少年はいつも通りの変わり者だった数日前、このブラウン管テレビの凸型の画面に小さな手形を発見したのだ。

 手形はあった。以前発見したのは一週間も前か。当時ほど鮮明ではないが画面の中央にモミジのように可憐な手形。粉雪が舞ったかの如く、新たな塵にうっすらと覆われている。

 手を近づけてみる。指先の炎は一度激しく燃え立ち、逃げるように元の人差し指に戻った。お役御免だ。だが命じたわけではない。この幽かな炎には独立した意志でもあるのだろうか。今後の研究課題として覚えておこう。

 幽体でも手のひらがざわざわするのがわかる。静電気は霊にとっても馴染みが深いもののようだ。すわ、ここで気がついた。赤子サイズの手形の周りに点状の跡がある。だがやはり鮮明ではない。ここにも塵が堆積しているところを見ると、手形と同時期につけられたものだろう。手形を見つけた時の興奮が強すぎて見過ごしてしまったのかもしれない。仮に見つけていたとしてもそれほど気にはしなかっただろう。問題は、今、見つけたというタイミング。点は八個だ。まるで何か由緒ある紋章であるかのように、手形を中心に同心円状に配置されている。しかも、よく見ると点はそれぞれが微妙に異なる大きさで、それ自体が独立した文字であるかの如く象徴的な形状をしている。

 わかった。この八つの点は僕らだ。南を守る三つの点はナオユキにハッセにタカシ。東はスグル。西はガイ。北には僕。その両隣にはヨリコとカホル。なぜわかるかって? それは夢で見たからさ。あの時僕らは輪になった。遠い異国で手をつなぎ、理不尽な悪に抵抗したんだ。そして輪の中心は絶対的な予約席。僕らは文字通り身を削りながら、あの人を喚び寄せた。

 あの人は来ていた。これを知らせるために? いや、このサインが特別重要なわけではない。この紋章さえ掲げれば這い寄る混沌よろしく水色の子どもを撃退できるわけではない。それは分かりきっている。重要なのはあの人がこの屋根裏部屋に、おそらくはずっと前から来ていたということなのだ。

 少年が自力で幽体離脱を習得した? 独学で瞑想術を極めた? ちゃんちゃらおかしい、笑わせるぜ、どれもこれもあの人の手引きがあったのだ。それも、本人には絶対に気づかれないような超特級工作員並みの用意周到さで!

 もちろん物的証拠があるわけではない。あるとすればブラウン管画面に残った意味不明の手形のみ。だが霊であるジンケ少年にはこれだけで十分だった。この手形だけですべての説明が通った。なぜ僕は超自然現象に興味を持った? なぜ僕は屋根裏部屋のチェックを始めた? なぜ僕は霊界の存在を信じ切った? なぜ僕は屋根裏部屋に住み始めた? 論理的な説明など一つもできないが、霊的な説明ならできる。答えはひとつ、あの人に導かれたからだ。僕が僕だけの力で切り開いた世界は、そう、星座のみを頼りに夜の大海原へ旅立った遥か昔のスターゲイザー達のように、清い光に導かれていた。光とはすなわち、あの人のことだ。

 ーーよし。少年は決意した。その様子はさも、刃こぼれだらけの折れた刀で、生傷から滴る血を拭うことなく、ただ迫り来る敵を撃つ。そんな老練の剣士のような心境だった。

 霊はベッドに寝た。幽体に眠りが必要なのかどうかは知らない。次に目を開いた時には変わらずこのベッドの上なのか、はたまた病院のベッドなのか、それすらもわからない。だが、今は他に考えがない。とにかく慣れ親しんだこの部屋で英気もとい霊気を養おう。それに、今なら屋根裏部屋に残留したあの人の気配を察知することができるかもしれない。そうだ、少年は次のステージに備えなくてはいけない。この幽体には、まだアイドリングが不十分なのだ。

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