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乖離

 何かが見えた。それはまぶたが開いたというのではなく、何年も使用されていなかった監視カメラがいたずらに通電したという感覚だった。

 辺りは暗い。だが闇ではない。慣れてない目には心地よい暗さだ。まるで夜景のような色彩の異なる明かりがあちらこちらで明滅している。これはきっと……器械だ。赤い光の点に緑の線。線は数字か? なるほど、デジタル表記だ。知っている。これらの器械には見覚えがある。そして匂い。空気がよどみ、濃くて湿っている。明らかな消毒液の匂い。そうだ、ここは病院。

 ジンケは病室で寝ていた。輸液ポンプや心電図モニターのおもちゃめいた光点のせいで、薄暗い病室が宇宙空間の明るい闇を連想させた。次にジンケは自分の体に何か異変が起きたのだと理解した。そして芋づる式に思い出した。気を失ったのだ。屋根裏部屋で。だが、発端はその場所ではない。海だ。あいつに、水色の子どもに精神が干渉した瞬間、彼の霊体はショートしたのだ。

 隣に誰か寝ている。一つのベッドにもう一人いる。そんなことありえるのだろうか。父かと思ったが、体格が違う。隣に寝る者はジンケとほぼ同じ。というより鏡に映したかのように完全に同じ体型だった。隣の少年もジンケだとしたら、こっちで寝ているのは誰だ? 目を覚ましている方のこの僕は、果たしてジンケなのだろうか……。

 考えるまでもない。彼にはわかっていた。この感覚には馴染みがある。隣に寝ているのが本体で、今ここにある意識は抜け出たもの。これこそまさに幽体離脱。絶対秘密の十八番。門外不出のお家芸なのだ。

 しかし妙だ。いやに覚醒している。幽体離脱なら何度も経験したが、決まってどこか幻のような浮遊感があったのだ。そしてこの違和感。本体に対するよそよそしさと圧倒的な距離感。まるで鏡の世界じゃないか。決して交わることのない平行世界。そんなわけはないのに。これは紛れもなく僕の肉体なのに。心のどこかで疑わずにはいられない。

 試しに少年は自身の肉体にその幽かな体を重ねた。やはりそうだ。親和性を感じない。いつもならよく馴染む温泉質のぬるま湯のように肉体と幽体は何の障害もなく交差するのに。それが一体どうしたと言うのだ! これではまるで石像だ。肉体が幽体を拒絶しているではないか!

 ーー僕は死んだのだ……。

 ならば、なぜ点滴を打つ? なぜ心電図は細いビープ音を出し続けている? 僕はまだ踏みとどまっている。とても危うい状態だが、皮一枚でまだ生きているのだ。

 ジンケはもう一度試す。今度はしっかりと体を重ねる。ボディスーツを着るイメージで、垂直な地球の引力をイメージする。そうだ、我が身に沈むのだ。垂直の力で、平行の角度で、元の場所へ帰る。あるべき姿へ融和するーー。

 だめだ。これではまるで別人。それも会ったことすらない他人だ。ひょっとして脳死……? その想像は寒さを感じないはずの幽体に鳥肌を呼ぶ。限りなく死に近い状態にあるだと? まるで予想もしなかった。死というものはこんなにも単純なものだったのか。死ねば追い出される。無慈悲に肉体から追放されるのだ。もちろん皆がこんなはずじゃない。だったらこの世は路頭に迷った死者で溢れ返るはずなのだ。だからこれは間違った死に方。最終列車に乗り損じ、永遠の終りの中を彷徨い続ける。まさにリアルなバッドエンド。

 どうにも泣きたい。だが幽体には涙がない。きっとそれで良いのだ。もしこのまま泣き出してしまうのなら、それは余程の未練を残して死んでしまった、いわゆる悪霊というやつだ。

 おや……? 何かうめき声のようなものが聞こえた。そういえば眠りの森の我が肉体に気を取られ、病室の中を調べていなかった。悲嘆に暮れていても仕方がない。現にこうして現代医療が手を尽くしてくれている。死者は死者らしく、闇の中を徘徊すべし。

 父がいた。簡易ベッドに寝ていた。低いベッドはリノリウムの床にほど近く、つま先で蹴れば崩れてしまいそうだ。ぺらぺらの毛布が一枚。とても貧相な寝姿。それでも父は見つけてくれた。屋根裏で仮死状態に陥った少年を病院に運んでくれた。その時の父の気持ちを考えると申し訳ない気持ちでいっぱいになる。父を打ちのめした衝撃、焦りと戸惑い、言いようのない不安、そして底なしの悲しみ。行き場のない怒り、途方もない無力感、まだまだ足りない。上げればきりがないが、その全てが疲れ切ったこの大人の体に詰まっていると思うと、やりきれない思いが込み上げる。たまらないよ、父さん……。

 横向きで眠る父の背中にそっと抱きつく。父はこんなに小さかっただろうか。わかっている。僕が大きくなったのだ。果てがないと思っていた世界は父の背中と同様、いずれこの手に収まるようになる。どうしてだろう。なぜ成長を止められないのか。少年に言わせれば、それは成長などでなく疲弊だ。世界が輝きを失ってしまう。ヘラクレスだった父の背中が薄っぺらい骨と皮に見えてしまう。これはある種の病である。大人になるということは精神を病むということだ。

 父より大きくなりたくはないーー。

 ジンケはそう願った。事によると叶うのではないか? このまま寝たきりの生活を続ければ肉体の成長は止まるのかもしれない。そうすれば僕は一生子どものままだ。世界は膨張を続け、父の背中は再び隆々とそびえ立つ。……ばかな! そんなものはまやかしだ! それこそ病的だ。ねじくれた精神を閉じ込めた牢獄。第一父の疲弊は止められないではないか。父は一人で歳をとり、息もできないほど窮屈な世界で生きて行くことになる。そんなことはさせない。……いやだ。卑屈な自分に嫌気がさす。もっと建設的に考えろ。父の背中は子が受け継ぐのだ。目に見えて小さくなった背中は、目に見えない己の背に反映する。その繰り返し。背中でつなぐ果てのない連鎖。宇宙は父と子の連続で今もなお膨張を続ける。

 ーーなるべく早く戻るからね。

 そう父の背中につぶやく。なんだか逆転したような気分だ。目の前で眠る父は、まるで小さな子ども。身を縮めて、毛布を頭までかぶり、泣き疲れて眠ってしまった無力な子ども。優しい父を悲しませてしまった。その事実が心の奥深くをえぐり、小さな気泡が一つ弾けた。自分たちをこんな目に合わせたやつが憎い。その感情が、気泡を連発させ怒りのガスが充満した。カチリと歯を噛み合わせれば、たちまち火花に引火してこの僕は大爆発。プロミネンスの如し燃えさかる龍となってたちまちに元凶であるあいつを破壊してくれる。だが、それは最終手段だ。今はまず、できることから……いや、何ができるのかを探って行こう。

 ジンケは浮いてみた。目覚めてからずっと感じていたことだが、以前よりも幽体の密度が濃い。ないはずの筋骨ーーとまでは言えないものの、全身に一本の芯が通っているのーーを感じる。ただ、ふわふわと綿毛のように浮くのではなく、確かな物理的干渉のもと、意志をもってして、その場に留まっていると感じるのだ。張力……とでも言うのだろうか。張り巡らされ、ぎりぎりの均衡を保った状態。いつでも発射可能な、矢のような状態。

 くるりと回転して着地する。背面には壁。対面するはガラス窓。その向こうには星降る夜空。ジンケはその場にしゃがみ、クラウチングスタートの姿勢をとった。なぜそうしたのかは説明ができない。ただ、自分が弓であり、それと同時に引きしぼった矢であると強く感じたのだ。

 再び怒りの気泡が弾けた。引きしぼればしぼるほど、倍速で増える泡粒は幽体内を圧迫する。もっと……もっとだ……。今や膝を着いた下肢は鋼鉄の筋肉さながら物質界にその存在を誇示する。もしタイミング良く巡回の看護師が立ち寄ったのならば、院内に響き渡る悲鳴と共に正体不明の悪霊としてはっきりと肉眼で目撃されたであろう。弓だ……僕は弓で……変幻自在な矢だ!

 ーー行け。ジンケは念じた。

 全ての気泡がジェット噴射の如く放出した。

 次の瞬間、ジンケは冷たい夜空を、その幽かな頬に感じていた。


 ……地震か!!

 達郎は飛び起きた。だが、どこも揺れていない。確かに激しい揺れを感じたのだが、夢だったのだろうか。試しに廊下に耳を澄ませても、慌てふためくナースの足音はしない。地震があると必ず各病室を点検するものなのだ。それくらいのことは知っている。やはり、夢だったのだ。

 気を静めて起き上がる。慣れない簡易ベッドのせいか体が痛い。時計を見ると眠ったであろう時刻からほんの一時間しか経っていないので、この薄っぺらいベッドのせいではないのだろう。元々、疲れていたのだ。もちろん運動不足のせいもある。ちゃんとしなきゃな。

 息子の顔を見やるが、まだ何も変化はないようだ。医師の話では眠っているだけだと言っていた。昏睡と言えなくもないが、それに至る理由がわからない。検査の結果が出ないと何とも言えないが、今の所は安定している。では息子の心拍は、この肌の冷たさはどう説明する? 問うと医師はこう答えた。「亀のような状態です」。あるいは冬眠のような状態。呼吸も脈拍も、常識では考えられないほど低速だが生命を維持する程度には機能している。達郎のとっさの素人診察では、そのわずかな脈を感じられなかったのだ。でも普通じゃない。きっと恐ろしい病気だ。医師によると、このような例はあると言う。非常に稀有な症例だが世界中あちこちに存在した。中には翌朝何事もなかったかのように目覚めた者や、数年後に浦島太郎の如く夢の世界から帰還した者、そして今でも眠り続けている者……。

 考えるな。きっと明日中には目覚める。寝る子は育つのだから。身長だって5センチメートルは伸びているかもしれない。明日は仕事を休もう。どうせ、研究所の掃除と書類整理だけだ。学校には連絡するか? いや、まだしなくていいだろう。だが担任の先生には伝えておくか。本を貸してくれると言っていた。あまり連絡がないと不安だろうし。もし目が覚めても数日退院できなければ、読書は最高の時間つぶしになるだろう。待てよ、読書なんてして良いのだろうか? 脳に悪いだろう。これはきっと脳に関係しているのだ。とにかく脳を休ませなくては。いや、そもそも脳は休むのか? だとしたら、今、こうして、とことん休んでいる状態なのではないか……? 息子は一体どうしてこんなに消耗したのだ? 何か思い当たるふしはないか……考えろ……考えるんだ……!

 目覚めた途端これだ。次から次へととりとめもない考えが沸いてくる。一時間眠れたのは奇跡的だった。もう完全に目が覚めた。トイレにでも行こうかと思い、何気なく首をぐるりと回した。ほんの準備運動のつもりだったのだが、何かが気を引いた。窓か……。カーテンが開いていたのだ。きっとあまりの事態にナースもカーテンを閉め忘れ、自分もそれに気がつかなかったのだ。冷静に考えれば夜中開けたままというのはおかしい。どうしても冷気が入ってしまうものだ。だが、この違和感はそれだけによるものか? 何かが違う。その証拠に、論理的に己を納得させようとする、脳の合理化が働くのを感じる。その何かから目を逸らしているのだ。

 ……地震だ。やはり地震はあったのだ。その証拠に、カーテンだけは揺れているではないか!

 達郎は一度息子の顔に目を落とした。月明かりを浴びて青白く光る息子の顔は亡き妻によく似ている。散らばった前髪を指先で梳いて、達郎は窓へと近づいた。

 ……蜘蛛の巣? 波打つカーテンに挟まれて、闇の中に六角模様の糸が張り巡らされていた。達郎が触れると、やはりそこはガラスで、わずかに指の腹に引っかかる感触はひびなのだった。雪の結晶のようなひび割れが蜘蛛の巣のように見えたのだ。だが、これは何なのだ……? 意味がわからない。論理的な説明が全く思いつかない。だめだ……目を逸らすんじゃない! 何かが起きている。何かが息子の身に起こっているのだーー。

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