搬送
「カキフライ買ってきたぞー」
家に入るなり達郎は言った。酒が入ったせいだろう。声が大きい。上機嫌なのが自分でもわかる。そして息子が恋しい。息子、息子、息子の顔が見たい。
「おーい。いないのかー」
玄関に靴はある。だが照明が点いていない。ゆえに家の中は真っ暗だ。事実、息子が暗闇の中で沈思黙考を決め込んでいることは何度かあった。最初は心配したが呼べば返事は返ってくるし、必ず父親の帰宅と共に闇の行は切り上げるのが常だった。しかし返事がない。眠っているのだろうか。それにしては気配がない。凍ったタールのような闇が家の中に充満している。
「帰ったぞー」
屋根裏部屋に声を飛ばす。居間の照明を点け、上着と鞄を置き、自分の体には少々狭い屋根裏階段に足をかける。
やはり眠っているのだ。なんと言っても冬休みだ。この無限に続くかと思われる時間の連続は、彼ら少年たちの財産なのだ。思う存分浪費すれば良い。いっそ、夕暮れ時をすっ飛ばして眠ってしまいたい気持ちも達郎にはわかる。一日の終わりを予感させる朱色の空が、少年たちの希望あふれる未来にほんの少しだけ影を落とすのだ。いっそ闇の中で目を覚ますくらいが好奇心に火をつける。深夜は子ども達にとってファンタジー以外の何ものでもないのだから。
階段がきしむ。やけにつるつるしている。毎日の上り下りで、足の裏の厚い皮によって研磨されたのだ。これならいつ足を滑らせても不思議ではない。だが、子どもの反射神経があれば問題ない。それに、子どもの足の裏には反重力措置が付いているのだ。
「入るぞ」達郎は言う。
依然として返事はない。よほど深く寝入っているのだな。まだ白々しい月がうすら寒い光を投げ落としている。息子はベッドに寝そべっていた。白と黒の版画だった。ベッドも、机も、タンスも、本棚の本も、すべてが息を止めた版画だった。
ひどい胸騒ぎがした。出そうとした声が喉の奥で固まった。その時すでに何を言おうとしたか思い出せなかった。かろうじて鼻から熱い息を吐き、息子の体に触れた。肩に触れたつもりだったが、石膏のように冷たかった。
毛布を剥いだ。今度は息子の肌に直に触れた。首だった。達郎は胃袋が落ちたかと思った。内臓が一瞬にして抜き取られ、その空洞にひゅーひゅーと冷たい風が吹き抜けた。息子はとても冷たかった。
シャツをめくって腹に手を突っ込んでも、脇下に手を突っ込んでも、陰部に手を突っ込んでも温もりを感じることはできなかった。こめかみが締めつけられ、酸っぱいような匂いが頭蓋骨の奥から染み出した。ひどい目眩にやられ、一気に血の気が引く。それでも確かめなくてはいけないことがあった。息子の鼻と口に耳を寄せた。次にその胸に耳を当てた。手首と首に指を当てた。何も聞こえなかった。何も感じなかった。息子は死んでいるのだった。
息子は死んでいるのだったーー。
待合室はもっと広くするべきだ。テレビドラマのお約束シーン。妻の出産を待つ夫が部屋の隅から隅まで行ったり来たり。この狭い空間ではせいぜい四歩だ。ソファが邪魔なのか? ソファさえなければ床を正方形に確保できる。行ったり来たりの反復運動からぐるぐる回る円運動へ。いや、やはりソファは必要だ。「行ったり来たり運動」だけでは身を持て余す。「座ったり立ったり運動」も組み合わせないと場が持たない。いっそトレッドミルでも置いてくれないか? 待合室を簡易的なジムにすれば良いのだ。そうでもしなければ、不安に押し潰される。絶対に声の漏れない箱なんてのも良いかもしれない。体をいじめるか、叫ぶか、それしか考えられない。
絶叫しながら走ってやりたい。だけどこの場から離れてはいけない。逃げちゃいけない。絶対にだめだ。でも弾丸のように走りたい。今ならフルマラソンでも、いっそウルトラマラソンでも完走できる。走ることでこの状況が好転するのならば、いくらでも、たとえこの心臓が止まっても走ってやる。おお……どうか助けてください。何でもします。何でも……今すぐに……息子のためなら、どんなことでも!
達郎は、何度立ったり座ったりしたであろう、このソファを思い切り蹴り飛ばしてやりたかった。だがいざ立ち上がった足を振り上げると、糸を切られた操り人形のように脱力した。いっそこのまま麻痺してしまいたかった。だが、頭脳だけは怒涛のように覚醒していた。ちゃんと冷静に事態を分析している自分が、この待合室の角を結んだ接点のような場所に鎮座していた。
搬送されてから(感覚としてはその10倍以上だが)15分は過ぎた。心肺停止してから10分を越えると蘇生は難しいと聞いたことがある。息子がいつ生体機能を停止したのかわからないが(肌に触れた時の冷たさを考えれば絶望的だが)、蘇生の見込みがなければもうとっくに処置を止めているはずだ。医師が姿を見せないということは、まだ見込みがあるということ。まだ良い。まだ出て来るな。仕事をしてくれ。全力で医療行為を施してくれ。
だが、不意に手術室の扉が開いた。何かのついでのような足取りでマスクをした白衣の男が達郎に近づいた。白衣の下は青のVネックで、とても通気性が良さそうだった。かなり鍛えているであろう体つきをしていた。
「お父様、ですね」医師は言った。
「はい」被せるよう達郎は答えた。
二つに一つだ。マルかバツか。合格か不合格か。生か死か。もちろん達郎はマルの方を信じていた。むしろ、そうでなくては全てが嘘になると思っていた。答えがバツの場合、瞬時にして夢から覚めるのだ。そう、これは悪夢。やけにリアルな長編夢物語。だから息子がただの知恵熱的な、または知恵仮死状態とでも言えるような思春期特有の奇病を患いでもしたのだと高を括っていた。そうでないと自分の中のあらゆる神経がぷっつりと切れてしまいそうだった。そればかりか、肉も腱も骨もどろどろに溶けて粘液質な物体へと転じてしまうという確信めいた予感があった。
「一命は取り留めました」医師は言った。
「はい」当たり前だと言わんばかりに達郎は答えた。夢ではなかったのだ。息子が体調を壊したという日常。子の親である以上、避けては通れない道だ。重い流感や骨折の類など、子どもにとっては通過儀礼のようなものだろう。
「これからICUに移送しますのでご一緒にどうぞ。その後はしばらく面会できなくまりますから」
息子を乗せたベッドが出てきた。やけに大きい。真ん中に寝ているのが息子。ベッドに対してとても小さく見える。顔を半分も覆う酸素マスク。真っ白で決して暖かくはなさそな掛け布団が丁寧に肩まで掛かっている。ベッドには息子と一緒に輸液ポンプや心電図のモニターや素人目にはわからない器械が相乗りしている。おそらくそれらを立てるであろうキャスター付きの棒状のスタンドは一人の看護師が手にしている。看護師の数は4人。それぞれベッドを押したり、器械類を支えたり、カルテなどの書類を抱えたりしている。その中で達郎は手持ち無沙汰に後を追う。
これだけの従者に囲まれた息子は大したものだと、直感的に達郎は思う。何の根拠も論理性もない印象だが、人を動かしていることには違いない。こんな状況だが、息子が大人に近づきつつあるのをこの瞬間ほど強く感じたことはない。そうだ、目が覚めたら旅行にでも連れて行こう。子ども扱いせずに、食事も宿も、大人で取ろう。




