土着
「ケストナーを読んで、教師になるって決めたんです」
木村はそう言った。コップには黄金色のビール。皿の上には大きめの餃子。小鉢にはラー油で和えたもやし。ここは町の定食屋で肩書きはラーメン屋の三休。他にチャーハンとレバニラ炒めも注文した。余裕があればラーメンも頼みたいところだが、ラーメンは道路向かいの居酒屋KAZUの方が旨い。
「これです」木村はそう言って紙袋から本を出した。エーリッヒ・ケストナーの『飛ぶ教室』。言わずと知れた名作だが、恥ずかしながら達郎は読んだことがない。息子に貸す本だと聞いていたが、どう見ても新品。紙袋も本屋の店名が入った折り目一つないもの。わざわざ買って来たのだろうか。
「何度読んでも感動しますね。むしろ大人になってから読んだ方がよく分かります。あ、これジンケくんに貸すって言いましたけど、これはもう永久貸し出しってことで返す必要ありませんから」
やはり新品なのだ。
「文学がお好きなんですか?」達郎は聞いた。
「というわけでもないんですけど、まあ本を読むのは好きですね。意外に思われますけど」
「でも先生、社会科ですよね? 国語は教えないんですか?」
「教えるなんておこがましいですよ。読む専門です。俺が教えて欲しいくらいですもん。それに、本当のところを言うと、読むのは好きですけど、国語ってあまり好きじゃないんです。俺自身成績悪かったし、ああいうのって答えがない世界じゃないですか。読んだ人それぞれが感じることであって、唯一の答えは作者が知ってるはずだけど、国語のテストに出てくる文学の作者ってほとんど死んでる。これっておかしいと思うんですよね」
「たしかに」達郎は相槌に回る。
「その点、社会は答えがある。単純なんですよ。暗記しちゃえばいいんだから。教えるのも楽です。でも教わるほうは楽じゃないでしょうね。退屈だと思いますよ。俺の授業、みんなまあよく寝ますね」
木村はぐっとグラスを煽る。瓶ビールが三本空いた。達郎はグラスで二杯目に口をつけたところだ。この教師はザルかもしれない。
「そんなことより、さっきの何だったんですかね?」木村が聞いた。
初めてその話題に触れた。自分語りが気恥ずかしくなったのだろか。それとも一教師が特定の父兄と酒を交わすことに後ろめたさを覚え、学業とは関係のない話題に持って行ったのか。本心を図ることは安易に思えたが、それよりも先に自ずと声を潜め周囲の視線を気にする。胡座をかいたまた尻を浮かせ、互いの距離を縮めるほどだ。
「そもそも、どうして木村先生が呼ばれたんですか?」達郎が聞き返す。
「俺、生活指導部なんです。なぜか社会の教師ってそういう役目なんですよね。もう一人ベテランの先生がいるんですけど、直接電話あったんですよ。その先生は行けないから俺一人で行って欲しいって」
「なるほど」達郎の予想通りだ。「私は勤め先が臨海研究所なので、漁連から直接連絡がありました。臨時職員扱いなので、普段なら出席しないのですが、あいにくこの時期は所長も他の研究員も出払っているんです」
二人ともそれぞれに相槌を打ち、ため息ともつかぬ感嘆を交わし合う。だが、それ以上に言葉は続かない。何か、この話題を掘り下げるには材料が足りない気がする。まるで夢を追憶しているかのようだ。
「先生、この町に来てどれくらいですか?」達郎から口火を切った。
「来年度で三年になります」木村が答えた。
「どう思いますか? この町」
「どう……」木村は考える。顎の無精髭に手を当て、時折爪の先で器用につまむ。「良い町ですよ。海もあるし、山もあるし、人も良いし、何より飯が旨いですね。俺、この町に来て魚介類好きになりました。出身が内陸の方なので、魚が不味いんですよね。最高ですよ、この町の魚は。でも……」
「でも?」達郎は促す。
「俺、貝類はちょっと。元々好きだったんですよ、貝系は。でも、ここの貝は、牡蠣もホタテもホッキもツブも、何て言うか……」
「何て言うか?」
「旨過ぎるんです。こんなに旨くて良いのかなって不安になっちゃう。やばいですよ。クラクラしますもん。俺考え過ぎかもしれませんけど、こんな生物他にないじゃないですか。ちゃんと硬い容器に入っていて、中は丸ごと全部食べられるんですから。まるで自然界のコンビニ弁当ですよ。食べられるために進化した。そんな気がするんです。しかも、あたるじゃないですか。奴らただ食われるだけじゃなく、ちゃんと仕返しするんです。そんな事考えたら、旨い旨いって食えなくなったんですよね。見た目もグロいですし、それに妙に艶かしい、セクシーなんですよ。あの硬い殻の中にあの臓物っぽい造形美。何て言うか、ヤバいことしてるなって気になるんです」
「わかる!」思わず達郎は大声を出した。
それはまさに達郎が感じていたことだった。そこまで深く考えたわけではないが、心のどこかで感じ続けていたこと。それを目の前の若き教師が言い得た。代弁してくれた。そのことが単純に嬉しく、もう一度「わかる!」と大声で言った。
「でもカキフライは好きですよ」木村は言った。「フライにすればだいたい何でもいけます。たっぷりソースをかけて、味を殺してやるんですよ。そうすればただのご飯のおかずです。何も怖がることはないんです」
「その通り」達郎が話を継ぐ。「私もカキフライだけは別物だと考えています。ホタテもホッキもフライが一番旨いですよ。冒涜だと言う貝マニアもいるでしょうけど、貝類、特に二枚貝はこんがりと揚げるべきです」
「となるとツブ貝はどうなります?」木村は聞いた。
「ツブは、そうですね」達郎は首をかしげる。「ツブに関してはボイル。もしくは炭火で焼く。刺身も抜群に旨いですね。なるほど、二枚貝と巻貝は分けるべきか。同じカテゴリーで扱うべきではない。私は、巻貝ならば親しみを感じます。生で食べても背徳感はないですね」
「同じです」木村は言う。「俺も全く同じなんです。ツブ貝はフライにしないほうが好きです。固くなっちゃうから」
「うん」達郎は頷いた。はて、何か話の途中だったか。何だったろう……。
「旨すぎるんですよね、魚介類が……」木村はぼそりとつぶやいた。
そうだ。その話だ。不安になるほど、この町の魚介類は旨いのだ。
「そうなんですよね」達郎は言う。「だから、漁連の人たちの態度もわかるっちゃわかるんです。木村先生はどう感じましたか? 客観的に」
「やっぱりちょっと」木村は答える。「神経質だなって。何かちょっと因習めいているというか。あれですね、ウィッカーマンみたいな」
「ウィッカーマン?」
「知りません? 古い映画です。イギリスの」
達郎は首をかしげて、知らないの意。
「大学の時に民俗学の研究してたんです。それの参考に観たんですけど、ひどい映画でした。いや、民俗学的にはとても興味深いんです。でもとにかく気味が悪くて後味が悪くて」
「どんな話ですか?」
「ドルイドですよ」木村は続ける。「古い宗教ですね。キリスト教以前の。多神教です。日本でも土着の信仰には付き物ですが、山の幸でも海の幸でも、豊穣を祈願して生贄を差し出すんです。ドルイド教ではそれがウィッカーマンなんですよ。とんでもなくでかい、木の枝でできた人型の檻なんです。その中に人間を入れて火をつけるんですよ。ひどいです。だけど、映画のウィッカーマンでは、因習とその土地の人間の関係をうまく描いてました。スコットランド地方の離島が異教の町なんですけど、なんとなく雰囲気が似てるというか……ごめんなさい、言い過ぎですよね。この町はそんなんじゃないんですけど、さっきの会合のこと考えたら思い出しちゃったんですよ、ウィッカーマン」
宗教? この町に土着の信仰などあるのだろうか。確かに漁連のメンバーには何か強い宗教的つながりを感じなくもない。だが、例に漏れず仏教徒だろう。それが当たり前だ。町内会と一緒で、地区によって宗派が分類されているような印象さえ受ける。地区……宗派……? 待てよ、何か引っかかる……。
「お寺」達郎は言った。「この町お寺、多くないですか? 私、町を離れた期間があるんですが、他の町にはこんなに多くないですよ」
「俺も最初はびっくりしました。でも郷土史を調べて合点がいきましたね。この町は開拓の拠点だったんです。明治の屯田兵のことではありませんよ。もっと古い。江戸時代、もしくはもっと前かもしれません。髷を結ったお侍が、土着の民族を教化する拠点だったんです」
「アイヌですか」
「そう、アイヌです」木村は続ける。「でも当時はそう呼ばれてはいませんでした。彼ら全体を指す呼称は存在しなかったんです。そもそも一つの民族ではないですからね。地方によって言葉も違えば風習も違う。彼らにとって日本人も、その様々な民族の一つでした。そして有力な交易相手だったんです」
チャーハンとレバニラが運ばれてきた。瓶ビールを一本追加した。達郎は小皿によそってやった。木村は講義を続けた。
「でも、この町は本土から遠いですよね。あまり日本人の影響を受けない土地だったと思うんです。その分、北方民族との交易で栄えていた。地形的に見ても優れた漁場ですからね。当時で言う大都市ですよ。漁場は人が集まるんです。そこに幕府は目をつけたのでしょう。大量の開拓の徒を送り込んで、彼らの心の拠り所としての寺社、そして土着の民族を教化するための寺社を作ったんです。その名残だと思うんですよね」
「じゃあ、土着の宗教は……」達郎が聞く。
「もちろんあったでしょうね」木村は答える。「俺の考えでは、今に伝わるようなアイヌの信仰とは違う面もあったと思うんです。北方民族の影響も強いし、何よりこの海ですからね。汽水湖の内湾と、外海に広がる外湾。雄大な川と広大な湿地帯。地形的にドルイドとかやっぱり北欧的な多神教の匂いがするんです。なんて考えたらロマンがありますよね」
木村は「お、うまそ」と言ってチャーハンを掻っ込む。この一見不潔で無邪気な青年がこんなにも民俗学に造詣が深いとは少々面食らった。教師であるのならば驚くことは何のだろうが、何か意外性を秘めている。達郎はますます彼を気に入った。飯粒を飛ばしながら食べる姿も不快ではない。むしろ清々しいほどだ。
「でもそれが残ってるとは思えませんよ」木村は言った。
「はい?」達郎は聞き返す。
「宗教ですよ。おまじないとか民話に近い形で受け継がれているのはあると思いますけど、信仰自体が続いていると考えるのはナンセンスですね。それこそ映画の話ですよ。文明はある意味一つの信仰ですから、これだけ開いた社会になれば、それが心の拠り所になると思うんです。だから宗教離れは必然ですよ」
「なるほど」達郎は満足した。木村と食事を共にして、すっかり心が晴れた。漁連団の会合など遠い昔のことに感じ、それと交代するように健やかな食欲が芽生えた。目をしばたくとチャーハンとレバニラが輝いて見えた。




