↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
29/75

猫

 ガイが夢うつつで帰路に立っている頃、さほど遠くない船着場にナオユキと二人の悪童がいた。あの疑惑の事件現場から漁船五隻分ほどの位置である。

 海面は満潮。コンクリートで成型された入り江は波打ち際の半身浴を味わう。ナオユキと二人はそのたっぷりな波に対峙する。彼の腕には子猫が抱かれている。ガイに分けてもらった子猫である。「子猫いるか?」半ば聞き飽きたガイの質問に、考えもなしに「いる」と答えた。突き詰めれば「いる」と答えたのはナオユキ自身ではなく、他の誰かが彼の口を借りて答えたような気がした。ナオユキは他人の声を聞くように、「いる」という返事を聞いたのだ。

 犬ならまだしもだ。猫にはてんで興味がなかった。むしろ、あの図々しさ、薄っぺらい愛想、蔑むようなあの目つき、どこを取っても好きにはなれない気がしていた。だが、一つだけ思い当たる節がある。猫ーー、去年の夏だ。やはり今のように、とりとめもなく猫のことを考えた時期があった。


 夏の陸上競技大会。ナオユキは短距離走の選手だった。正しくは400メートルリレーにも1200メートルリレーにもエントリーされた。リレーは重複出場が可能だったのだ。しかも遠投、高飛び、幅跳びにも出場した。トラックでナオユキの姿を見ない瞬間などなかったのだ。だがナオユキは辟易していた。短距離走以外はあからさまに手を抜いた。本気を出していないのは誰の目にも明らかだった。それでもナオユキは全種目3位以内には入った。どんなに手を抜いても平均より上の数値を叩き出してしまうのだった。

 全ての競技が終了した後、エキシビジョンマッチとして男女混合の100メートル走が行われることになった。校長の即興で職員の飛び入り参加もありだ。全校生徒は大いに沸いた。もちろん男女のハンデはある。だが生徒と教師のハンデはない。逆にハンデが欲しいのは教師の方であった。思春期の鍛え抜かれた肉体に勝てる教師などそうそうはいないのだ。

 走者は10名。各学年から男女2名ずつ。これで6名。教師は社会の木村、音楽の川上恵子、大学野球で肩を鳴らした数学の金井、普段は生徒と接点のない若き用務員ーー名を高山というが生徒にほとんど知られていないーー、これで10名だ。一年生から選抜された男女は、もちろんナオユキとカホリだった。

 選手たちはそれぞれのスタートラインに立った。ナオユキとカホリは隣同士。これは異例だった。カホリが10メートルのハンデを拒否したのだ。カホリが早いことは知っていた。だが、あまりにも挑戦的だ。勝てるはずがない。相手はこの、俺なのだぞ。ナオユキは今大会で初めて本気を出そうと決めた。逆に音楽教師の川上恵子は倍以上のハンデを申し出た。50メートル。それだけもらって初めて勝つ見込みがある、と。だが恵子先生のハンデは25メートルで手が打たれた。これでも大サービスだと校長は言った。生徒たちの笑い声で校庭が揺れた。

「手加減しねえから」ナオユキは隣のカホリに言った。

「そう」カホリはそっけなく答えた。

 合図のピストルが鳴った。

 二人はまさに弾丸のように発射した。他の誰も見えなかった。スタートから二人は抜きん出ていた。場内は唖然とした。すでにトップスピードだった。さした勢いもなく、まるでリニアのように直進した。

 25メートル先にいた音楽教師川上恵子を追い越した瞬間も二人は横並びだった。ナオユキは愕然とした。恐怖すら感じていたのかもしれない。カホリのタイムを知らないわけではない。本日行われた女子の短距離も一応は見ていた。だから負けるはずはなかった。タイムはナオユキの方が上回っていたのだ。それは地球が丸いのと同じように当たり前のことだった。だがカホリのスピードは落ちない! むしろ増しているようにも感じる。そして、我が心臓が悲鳴をあげる。エンジンは、オーバーヒート直前だ!

 70メートルを過ぎた頃、ナオユキの体に異変が起きた。息ができない。きっとタバコのせいだ。中学に上がってから時々吸うようになった。単に好奇心を満たすため。味も匂いも好きなものではない。だが、妙な満足感はあった。有害な煙で体内を燻すという魔術的で禁忌めいた行為には、どこか己の成長を妨げ、社会に異を唱える反乱組織の無言の意思表示のような気がしていたのだ。それでも慣らして走る分には影響はなかった。だが、かつての全力疾走(全くの無垢だった頃の太陽のような運動能力)に対応する心肺機能はすでに失っていたのだ。それでもナオユキは止まらなかった。完全に無呼吸状態、酸素の代わりに自らの霊魂を燃焼させながら猛烈なスパートをかけた。

 肺が潰れそうだ。肺に痛覚があるのかどうかは知らないが、鉄の拳で両側からプレスされるようなむごたらしい痛み。このままゴールまで行けるか? 無論、それは可能だ。精神が肉体を凌駕する術をナオユキは知っている。だが、ゴールした後はどうなる? 圧倒的な副作用、魂のバックファイアに肉体が焼き尽くされるだろう。肺や運動を司る神経に重度の障害を残すことになるかも

しれない。この一瞬の躊躇がナオユキの速度に歯止めをかけた。

 カホリは見事だった。火だるま状態のナオユキをよそに、まるでガゼルのようにカホリは跳躍した。目に見えないバネの上をスキップしているかのようだった。それほど流麗かつ軽やかだったのだ。全校生徒は魅了され、その場に釘づけになりながらも、心だけはカホリの後に続いた。まるでジャンヌ・ダルク。乙女に付き従う戦い方も知らぬ市民。全校生徒は、教師陣でさえ、一人の可憐な少女にその身を捧げる心情だった。

 ゴール。テープを切ったのはカホリ。続いてナオユキ。その差はコンマ3秒。二人はその場に崩れ落ちた。しかし勢いは止まらず、火照った汗だくの体を地面に投げ出した。土に紛れた小石が二人の膝に食い込んだ。

 肺ははち切れんばかり。二人ともあばらからバルーンのようにはみ出す肺を想像した。身動きの取れない二酸化炭素の洪水の中で、ナオユキが最初に声を出した。まるで老人の声だった。

「何が欲しい?」

 どうしてそんなことを聞いたのか。酸素欠乏状態の中から、あらゆる会話をすっ飛ばし、数分先の未来へスリップしたのだろうか。別に賭けていたわけでもない。負けたからと言って対価を与えるというのも傲慢だ。普段のナオユキなら軽蔑すべき行為である。だが、返事はすぐに返ってきた。

「猫が欲しい」

 カホリも自分がわからなかった。猫が欲しいのは嘘ではない。だが、本人も声に出して初めて気がつく程度の漠然とした思いであった。それに、ナオユキは何を思って問うているのだろう。勝った者への敬意なのか、敗れた者の償いなのだろうか。考えれば考えるほどわからなくなるが、確かなことは会話は一瞬で、しかも完結したということだ。たった二言のやり取り。だが、その中で確かに心が通じ合った。何十年も連れ添った者同士の親密な空気が一瞬の中に満ち溢れていた。「何が欲しい?」「猫が欲しい」たったこれだけで、何千何億という言葉用いて埋め合う関係を成立させたのだ。

「わかった」ナオユキは言った。

「でもうち、飼えないの」カホリが続けて言った。

 ナオユキは笑った。カホリも笑った。二人とも息が苦しかった。それがまた可笑しかった。やがて他の選手もゴールした。どん尻の恵子先生がゴールした後も二人は笑っていた。校長が三位までの選手を表彰する時も二人は笑いをこらえていた。観客は戸惑った。その光景は一見して微笑ましいものであったが、何か見るものを疎外するような、排他的な空気が漂っていたのだ。その結果、三位でゴールした高山用務員に脚光が当たることはなかった。今後も彼の名は生徒の記憶に残るまい。太陽は一位と二位だけを照らしていた。まるで世界は二人だけのものであるかのように。

 だが、二人の関係は翌日にはリセットされていた。あの黄金のクスクス笑いは、家に帰り風呂に入り、夕食を食べて自室の闇の中で布団に包まれながら、鍾乳洞の水滴の如くじっとりと眠りに落ちるまでの魔法だったのだ。若すぎたのかもしれない。あの達観した親密さを受け入れるには、二人は幼すぎたのだ。それどころか、日を追うにつれ二人は疎遠になった。互いの距離が目に見えて風化して行くようで、目をそらすことしかできなかった。端的に言えば、あれは一夏の奇跡だったのだ。

「猫が欲しい」それだけがナオユキの心に石碑の如く穿たれた。だからガイから子猫をもらった。それ以外に理由はない。だからと言って、どうすれば良いのかもわからない。カホリは「でもうち、飼えないの」と言った。だから持って行く訳にもいかない。一目見せてやれたら良いと思う。だが、どうやって? 一年も前のことを急に持ち出されても困るだろう。それに、ナオユキ自身あの件に関しては確信がなくなっている。夢や幻だったのではないか。あの時、二人は何も会話していなかったのだ。全ては酸欠の脳が生み出した妄想。だとしたら赤っ恥以外の何ものでもない。


「本当にやるんですかい?」ハッセがおどけて言った。

 目の前には青い海。満潮だ。溢れんばかりの波がたっぷりと揺れている。現実。こちらがリアルな世界。まばたき一つする間に、ずいぶん遠くまで旅をした。なんだか俺もずいぶん老けたな。そうナオユキは思った。

「ああ」ナオユキは答えた。

 タカシが発砲スチロールの箱を持っている。大きめの、魚介の詰め合わせに使うような比較的頑丈なタイプだ。

「こちらの準備もオッケーですぜい」タカシもおどけて言った。

「ガイの話が本当なら、きっと何かが起きるはずだ」ナオユキは自分に言い聞かせるように言った。

「へいへい、ナオユキ様も怖いお方で……」ハッセはそう言い、ナオユキから子猫を取り上げる。

「さあ猫ちゃん、伝説になれよ」今度はタカシが子猫を受け取り、そのまま発布スチロールの中に入れた。小さな頭を指先で撫で、ほんの小さな声で「だいじょうぶだからな、ペロ」とつぶやく。

「なにお前、勝手に名前つけちゃってるの?」ハッセが問う。

 それには答えずタカシはナオユキを見上げる。「ねえ、本当の本当にやるの?」

「確かめるだけだ」ナオユキは答えた。「あの話が本当なら、確かめる価値はある。それに、誰かがやらなきゃいけないことだろ?」

「めんこいのになぁ」そう言って、タカシは人差し指を子猫の鼻に押しつける。子猫はすぐさま顔を背ける。ニコチンはまだ染みついたままだ。

 計画としては子猫が乗った発泡スチロールを内湾中心部の弁天島付近まで渡す。そのためには動力が必要であるが、そこはナオユキである。父親が所有するラジコンボートから小型船外機を失敬して来た。小型とはいえ作りは本物である。何度か操縦もしたことがあるので、そのパワーは保証できる。発泡スチロールも流線型に加工済みだ。船首も継ぎ足してある。が、問題は進行方向だ。ラジコンのコントローラーは使えないのでモーターの電源を入れたら一定方向に進み続けることになる。舵取りは不可能だ。ある程度波を読んで、後は勘を頼りに方向を定めなくてはいけない。そして忘れてはいけないのが猫ボートの回収方法である。これには遠投用の釣り竿とリールを用いることにした。あらかじめ釣り糸を猫ボートに括りつける。絶対外れないように、何重にも巻く。子猫の安全は保障しなくてはいけない。自ら海に飛び込みでもしない限り、まずは安心だろう。これが非人道的な行為だとしても、要は回収できれば良いのだ。モーターのスイッチはオン。船外機は飛沫を上げる。準備は万端、いつでも出航可能。

「面舵いっぱーい! 出発進行ー!」タカシが叫んだ。

 ナオユキは猫ボートをそっと海に放った。幸い海面は凪いでいる。ボートはまっすぐ進み、子猫は絶え間なく鳴いた。胸が痛んだ。それを紛らわせようと、「面舵いっぱい」の正しい意味をタカシに教えてやろうと思ったが、少し考えてやっぱりやめた。どうでも良いことだ。それよりも必死に見守ろう。子猫はあんなにも鳴いているではないか。おそらく、これほどの恐怖は初めてなのだろう。第一、海に放り出されるなんて、猫の常識では考えられないはずだ。ひどいことをしてしまった。こんなにも良心が痛むとは我ながら意外だった。そして安堵した。これで笑っていられるようなら、魂の進路がある意味決まったようなものだ。俺は試していたのかもしれない。何やかやと理由をつけて、自分の猟奇性を自己診断しようとしていたのだ。結果は良好。いざとなれば凍てつく海に飛び込んででも助ける覚悟はできている。

「おお、行った、行ったー!」ハッセが歓声を上げる。

「いいぞー! ニャンコ船長ー!」タカシも続く。

 もういい。これでやめだ。ナオユキは既に冷めていた。まるでガキじゃないか。ああ、それはそうだ。俺たちはガキに違いないが、あんまりにガキだ。好奇心が小便臭い。知性の欠片もないではないか。いいか、大人なんてクソ食らえだ。だが、ガキのままではいけないんだ。俺たちはガキから脱皮して大人ではない何かになるべきなんだ。少なくとも俺はそうなる。なってみせる。

 ガイが言う『水色の子ども』なる化け物が本当にいるのならば、それを確かめたいのが好奇心というもの。だが大人はそうは思わないだろう。そんなものいるはずがない。社会活動に機能不全をもたらす事柄は総じて無視。自らの意思でそうしているわけではないだろう。成人のヒト族だけに備わる高次な本能なのかもしれない。俺は無視できない。だからと言ってハッセとタカシのような無垢な好奇心があるわけでもない。なんだろうこれは? 化け物の有無が気になるわけではないのだ。奴はいる。認めたくはないが、己の深い部分がそう確信している。当たり前の事実として認識している。俺はそう、ただ、放っておけないのだ。

「あ!」誰かが言った。

 そうこう考えているうちに、猫ボートは弁天島までの中間距離まで進んでいた。「あ!」と言ったのが悪友のどちらだったのかはわからないが、言った理由はわかった。どうして気がつかなかったのだろう。子猫の安全は全く保障されていなかった。海から守れば良いとばかり考えていたが、それよりも脅威は空だった。猫ボートの頭上に、カラスとカモメが蝿のようにたかっていたのだ。そして更に上空、雲に届きそうな高みには巨大な影が旋回している。空のハンター、オジロワシだ。

 ナオユキがたまらずリールを回したのと同時に、オジロワシが急降下した。その躊躇ない野生の美しさに魅了され、一瞬リールを回す手が止まった。

「ハッセ! 巻け!」ナオユキは怒鳴った。

 間に合わない。寸分の乱れもないオジロワシの直下降にそう悟ったのだ。となると逃げていてはだめだ。矛も盾も持たない子猫に代わって反撃せねば!

 ハッセは放心したままだった。子どもが時折見せる異常な集中力で降下するワシを凝視していた。いつもは悪びったその表情も、今は赤ん坊のように無垢であった。純粋な暴力というものは、時に美しく見えるものだ。

 たまらずタカシが割り込んだ。ハッセの手の上から強引にリールを巻いた。しばらく釣り糸は風にそよいで宙を舞ったが、急に「ぐい」と手応えを感じた。その時にはハッセも正気に戻っていた。海面との接点がもたらす思いがけない引きの良さに、力で勝るハッセが釣り竿をさばいた。タカシはタカシで素手で釣り糸を引っ張った。その勢いにボート上の子猫はバランスを崩したが、迫る追撃手のスピードから逃れるには手段は問えなかった。

 思いがけない獲物の素早さにオジロワシは戸惑った。この進路では獲物に到達できそうもない。無駄に水中に突っ込むのも面白くない。今からでも間に合うだろうか。二度目の追撃で、あの柔らかくて美味そうな肉を仕留められるだろうか。ワシは踏ん張った。黒衣のような翼を広げ、その羽先でよく冷えた空気を掴んだ。よし、今日の空気はよく引っかかる。これなら、ずぶ濡れにならなくて済みそうだ。

「ああーー!!」

 ハッセとタカシが声にならない叫びを上げた。

 猫ボートはぐいぐい引かれる。子猫は進行方向とは逆に身を投げ出し、その綿玉のような四肢で必死に踏ん張る。オジロワシは海面を蹴った。鉤爪と純白の尾を海水にさらしたが、そこで踏み留まった。そしてあろうことか突進した。垂直にではない。水平にだ! 海面を蹴り上げ、旗のような羽根を振り乱しながら、強引に追撃の第二波を繰り出した。

「ううーー!!」

 間に合わない。ハッセとタカシはそれぞれの単純運動の限界を迎えていた。両腕の筋肉は硬直し、鉛のような疲労が蓄積していた。これ以上、どれだけ力を込めても結果は同じだ。釣り竿は折れ、釣り糸は千切れ、貪欲なワシは望みを叶えてしまう。二人が諦めかけた時、「ひゅん」と風を切る音がした。そして嘘のようなことが起こった。ワシが、急に脱力して落ちたのだ。

 ナオユキだった。二人が見るとナオユキがヒーローの決めポーズのような格好で立っていた。このフォーム。完璧なピッチャーのポーズ。ピッチングを終えた後の芸術的な静の姿勢。

 二人は理解した。ナオユキは投げたのだ。ただ投げたのではない。釣り竿を二人に託して、彼は石を探した。あの距離まで届き、なおかつ大型猛禽類を仕留める破壊力を有した石。投擲武器としての条件を備えた石ころを、吟味し選別し、テストプレイなしで投球したのだ。

 到底命中できる距離ではない。プロの野球選手でも十回に一度の成功率だろう。だが二人は知っていた。ナオユキなら可能。このカリスマめいた級友は恐ろしいほどの身体能力を有している。これはまるで、神さまからの贈り物。

 遅れて「ぽちゃん」と音がした。ワシの頭部に命中した石ころがバウンドして今頃海に落ちたのだ。あざやか。ナイス。ファンタスティック!

「やった! やった!」タカシが息を切らし、マンガのように飛び跳ねた。

 安堵も束の間、三人は不気味な気配を感じた。感じただけではない、目にもはっきり見えていた。だが、理解は遥か彼方の銀河を漂った。その次元を超えた不気味さが、彼らに超感覚をもたらした。不思議と自分を含めた少年たちの意識が一つにつながったように感じたのだ。自分が見て感じたことを、同様に彼らも感じている。脳が横並びで、意識が光の速さで行き来する。

 水色の子どもだった。三人が見たものはそうとしか形容できないものであった。確かにガイからそう聞いた。しかし、例え事前知識がなくても、彼らは直感でそう名づけただろう。互いに言葉を交わさなくても強烈なインパクトでそれは己を主張した。水色の子ども……。

 子どもは海面に立っていた。猫ボートと海面に漂うオジロワシのちょうど中間の位置。違和感が募る。子どもは決して子どもの大きさではなく、言うなればヒグマだった。明らかに巨大だが、それでもやはり子どもなのであった。

 違和感は増幅する。その肉体は透けている。対岸の建物(ホームセンターだが)と、駐車する車まで透けて見えた。体内には臓器の類は存在せず、どこまでも透明な水色だった。

 無論、誰にでもそこまで見えるわけではない。三人の中で視力が突出しているのもやはりナオユキだった。だが、今は他の二人にも見えていた。不思議な共感覚がナオユキの目を通して二人の脳に映像を運んだのだ。

 彼らは観察した。水色の子ども。色の違う部分がある。こちらから見て左側。子どもにとっては右腕だ。赤い。水に赤インクを垂らしたかのような滲み方。それが絶えず、右腕の中で揺れている。きっと、あれは血……。ガイの言葉が蘇る。おばさんの腕、もげたんだど。しかもその腕、まだ見つかっていないんだどーー。

 ぞっとした。叫びたかった。だが全身が萎縮してぴくりとも動かせなかった。仔細に観察していたのは、心の余裕からではなかった。それ以外何一つできなかったからだ。蛇に睨まれた蛙のように、見ることしかできなかったのだ。

 ナオユキは生まれて初めて友人を頼った。「たすけて、たすけて、僕をたすけて!」無理なことはわかっている。頼りになるのは俺なのだ。二人を助けなきゃいけないのは、この俺しかいないのだ。だが、どうしようもなく怖い。気休めでもいいから慰めて欲しい。そうでなければくじけてしまう。せめて怖がることだけは止めないと、このままでは殺される……。

 ハッセもタカシも感じていた。あのナオユキが恐怖している。となれば終わりだ。俺たちにできることはない。でもそれでいいのか? 終わってしまっていいのか? 俺たちの頼れる大将が怖がっているんだぜ。俺たちだって怖いけど、大将ほどにはビビってねえ。なんせ、ビビるのにはいくらか慣れちまっているからな。いいか大将、ビビった時にはからいばりよ! 虚勢とハッタリぶちかますぜ!

 二人は叫んだ。恐怖を怒りに変えて、声にならない声を上げた。咆哮は萎縮した体内で渦を巻き、感情の昇華を遂げた。並列した精神のラインからナオユキへ送り込む頃には、おびただしい量の勇気となった。ナオユキは左右に勇気のブースターを備えたのだ。

 熱かった。あの夏、カホリと共に脚力を競った時よりも熱く燃えた。恐怖、怒り、勇気、ないまぜになった感情が肉体の隅々で渦を巻いた。

 ふざけやがって、何色の子どもだか知らねえが、俺たちの海で何をやってやがる。その腕、血に染まった右腕はあれだろ、人間の腕をどうにかしたんだろう! 何がどうしたのか知りたくもねえが、お前は気に食わねえ。なぜなら、俺たちをビビらせたからだ!

『きえろ』

 三人は一斉に念じた。一瞬、目に見えない波動が海面を揺らした。

 すわ、子どもはのけぞった。突風に煽られたかのような間抜けな格好だった。だがそこまでだった。そいつはすぐに体制を立て直し、何事もなかったかのように海面に漂うオジロワシを文字通り鷲掴みにした。そして食らった。

 ひと呑みだった。だが、その捕食方法は不快なほど低能だった。己の口の位置すらわからない愚鈍さで、掴んだワシを腹に直接突っ込んだ。ここからが不気味だった。次の瞬間、まるで手品みたいにワシは子どもの中に入っていたのだ。ワシは気絶していただけだった。腹の中に入った途端目を覚ましたようだった。感情のない鳥の目からでも、彼の驚きぶりが伝わったが、自慢の羽根を数回開け閉めしただけで、すぐに動かなくなった。それから鉤爪を一度ぴくっと痙攣させて完全に静止した。ワシの目は恐怖に凍りついたままだった。

 ナオユキは叫んだ。叫ぶと恐怖を認めてしまうようだったが、萎縮した体を動かすには叫ぶしかなかった。ハッセとタカシも後に続いた。三人は手当たり次第に石を拾って投げた。

 子どもは周囲で飛沫を上げる石つぶてには何の興味も示さず、次のターゲットに手を伸ばした。子猫は必死に鳴いた。だが、あろうことか、子どもの水ぶくれしたぶよぶよの手が近づくにつれ、いわゆる猫なで声にスイッチした。だめだ……ちがう……そいつは……。

「やめろー!!」ナオユキは叫んだ。

 石つぶては止めどなく飛び交い、数個は子どもに命中した。しかし何の手応えもなくすり抜けた。相手は水なのだ。どういう原理か知る由もないが、水が生きて、動物を襲っているのだ。

 水色の子どもは子猫を抱きよせた。愛嬌を振りまいていた子猫も、すり寄せた頬が水に濡れたのを知って再び鳴き声を上げた。これは守ってくれる生き物ではない。いや、生き物ですらない。死ぬほど怖い、大量の水だ!

 子猫はゆっくりと飲み込まれた。不気味だったが、子どもは子どもなりに猫を愛でているようだった。撫でて抱き寄せ、その胸に吸収した。子猫は水に呑み込まれる瞬間まで助けを求めて鳴いた。あまりにも鳴きすぎて喉が枯れていた。ナオユキもハッセもタカシも、子猫の枯れた声など聞いたことがなかった。

「ちくしょーーっ!!」

 ナオユキは投げた。瓦一枚分ほどもあるコンクリートの瓦礫だ。さすがに重量がある。砲丸投げのように、大きく弧を描いて飛んだ。だが、そのさなかに瓦礫は高速で回転した。惑星の軌跡を早回しで見ているかのようだった。上昇から下降に転じ、球速を増した瓦礫は兵器と化した。当たればひとたまりもない。並の獣なら致命傷は免れないはずだ。

 子どもは逃げなかった。だが、迫る暴力の前に足がすくんだわけではなかった。奴は血に染まった右腕を、太陽が眩しいとでも言うように掲げたのだ。そして当たり前のようにキャッチした。瓦礫を、古代ローマの投擲兵器さながらの瓦礫を、スローなセンターフライの如く微動だにせずキャッチしたのだ!

 それだけではなかった。キャッチした流れで、子どもは振りかぶった。まさかーー、ナオユキたちが理解する間を与えず、奴は投げ返した。

 ナオユキのキャッチボールを長く務めたハッセにはわかった。これは完璧な投球フォーム。一部の隙もない、一点の癖もない、ナオユキにしか投げられないフォーム。奴は、水色の子どもは見ていたのだ。そして、完全にコピーしたのだ!

 瓦礫は弧などを描かなかった。無回転のストレート。理解を超えた豪速球。「ちり」とナオユキの頬をかすめて、背後に打ち捨てられた廃船に突き刺さった。

 そしてそいつはいなくなった。「ざぶん」と水特有の音がしたと思うと、散らかった波紋を残して消えていた。発泡スチロールのボートが虚しく揺れた。

 ナオユキはしばらくそのまま立っていた。頬が潮風でひりひりと痛んだ。背後の廃船がどんな状態なのか気になったが、そのまま立ち尽くすしかなかった。最大の恐怖と危機一髪の安堵は全ての生命活動を再起動させるほどの疲労を伴った。そしてそれはハッセとタカシも同じだった。いや、ナオユキほど強くない彼れには精神に異常をきたすほどのショックだったはずだ。とにかく彼らには時間が必要だった。理解と狂気の狭間で、傷ついた精神を自己治癒するための時間がーー。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。