香り
応接間は立派だった。ガイはもっと言葉を知っているはずだが、「立派」という二文字熟語しか出てこなかった。理由はただ一つ、圧倒されていた。
トロフィーの数々。類似して盾のそれも様々。床には毛皮。壁には首を突き出した鹿の剥製。巨大で渦を巻いた何かの角。額に入った賞状。のっぺりとした壺。泡音を立てる水槽。中のどこか遠い異国の魚。などなど。まばたきする度に何か新たな発見がある。まるで博物館。だがどこか自慢気。居心地が良いのか悪いのか、ガイにはまだ判断ができない。良しとしよう。そう思うことにしよう。なぜなら、ここは将来の俺の部屋になるからだ。
ガイが室内を物色している間、カホリは茶を淹れた。いかにも高価そうなティーポットに湯を注ぐと、湯気と共に甘い香りが立った。それは直線的にガイの鼻を貫き、途端に甘美なメロディが脳の中に流れた。
一瞬気が遠くなったが、ティーカップが目の前に置かれた「スチャ」という上品な音で気を取り戻した。この家はやたらに「スチャ」が多いなと思いながらカップを口に運んだ。感じるよりも「うまい」が口を突いて出た。それは温度であり香気でありソーマであった。舌を通り越して魂に直接親和する液体。ガイは一気に飲み干すのをこらえてカップをソーサーに戻した。「ガチャガチャ」と下品な音が立った。作法を身につけるには相当な練習が必要だろう。
「家族は?」ガイは聞いた。
「お父さんは会合。お母さんは会社。私は留守番」
会合に会社。親父さんは漁業連合会の会長。お袋さんはカホリの家業の水産加工会社の社長という名目。会合はなんだ? ガイの父親も言うに及ばず魚連会の一員である。会合があるなら小耳に挟むはずだ。ということは秘密裏の会合? このタイミング、きっと何かある……。
「爺さんと婆さんいなかったっけか?」ガイは聞く。
「二人とも今は施設。お正月は帰ってくる予定だけど」
「そうか」ガイは茶を啜る。いつ間にか空だ。「親父さんに聞いたのか? おとといの事件のこと」
「うん」カホリは伏し目がちに答える。「だけど、聞いたって言えるのかな。何も教えてくれないの。あの音がした時ーー」
「鉄砲」
「うん。お父さんも一緒にいた。あれは銃声だって教えてくれた。だけどそれ以外は何を聞いても、とにかく外に出るなって。誰にも会っちゃダメ。海にも近づくなって」
カホリは身を竦める。寒い時に誰もが自然と取る動き。これが妙に色っぽい。真の強い女だと思っていたが、それはただの仮面だ。
「実はなーー」ガイは事の顛末を説明した。ジンケやナオユキらに話したのと同じ内容だが、今回は驚くほど熱が入った。事件の当事者である久坂のオジキや桜木とかいうお巡りのセリフがすらすらと口を突いて出る。言いもしなかったセリフである。気分は戯曲家。新作を即興で披露するシェイクスピアさながら、ガイは会話劇をまくしたてた。銃声の「ズギュン」、悲鳴の「ギャア」までも絶妙なタイミングで挟み、落語家や講談師の如く身振り手振りを交え、実際にテーブルを強く叩き、カホリの反応を楽しんだ。怖がらせて、安心させて、恐れおののくカホリに合わせてダイナミックに舵をとる。そうだ、西洋では船に女の名前をつけるんだよな。でかい船。豪華客船。いつかそんな船の舵を取りたい。そうだ、俺はこの女の北極星になろう。このサファイヤのような視線を独り占めするのだ。
この時、ガイはなぜか二人の少年を連想した。ほとんど無意識だった。虫の知らせや第六感と呼ばれる、無意識からの警告である。その二人の少年とはジンケとナオユキ。例えば、ある日の教室で何か得体の知れない事件が発生したと仮定しよう。その時、実際に頼りになるのはナオユキだ。ナオユキには力がある。その中学生離れした美丈夫に加え、腕っ節の強さもある。もし学校がテロリストに占拠された場合、ヒーローの資格があるのはナオユキただ一人だろう。こういう場合ジンケはダメだ。からっきしダメ。魅力も強さもヒーローの素質はゼロに等しい。だが異様なほど冷静である。いかなる時もブレない。ジンケはいつだってジンケだ。それ以上にも以下にもならないのだ。教育実習生の見習い教師が悪ガキどもに手を焼いている時も呑気に寝ぼけたような声で「やめようよ」と言えるにもジンケだし、弱いものいじめと言う名の集団ヒステリーを同様のセリフで鎮火させるのもジンケだ。そのせいでジンケに被害が及ぶことはない。悪ガキどもは高名な僧侶にほだされたが如く、悪時から手を引くのだ。更に突拍子のない事を言えば、例えば宇宙人に学校が占拠された場合、突破口を見出すのがジンケだ。誰もが絶望のさなかにいる時、ジンケだけは相変わらずジンケのままだ。寝癖のついたままの頭で凶悪な侵略者に「やめようよ」と言えるのはジンケただ一人なのだ。ガイの見立てではナオユキ自身もジンケには一目置いているように思える。二人が懇意にしている姿はこの狭い港町で一度も見たことがないが、きっと互いを意識しているはずだ。人知れず、表の世界では想像の及ばない協定を結んでいるのかも知れない。
「信じられない」カホリが言った。「そんな話、信じられるわけがない。でも……何かが起こっているのは確かね。お父さん、この時期は毎年必ず家にいるもの。仕事は月の頭に片付けて、他の誰よりも早く休むの。親戚も呼んで、賑やかに過ごすのよ。だけど今年はまだ誰も来ていない。お父さんもお母さんも朝から出ずっぱり。大学に行っている兄も今年は帰ってこない気がする。こんなのおかしい。何か……嫌な予感がする」
カホリはため息をついた。今までとは違う空気。緊張ではなく弛緩。吐き出した息は適度に湿っていてほのかに安堵の匂いがした。きっと、カホリ自身、何か得体の知れない存在を仮定していたのだろう。それを俺がちょんと突っついてあげたわけだ。とてつもなく不安ではあるが、俺という存在だけがあの夜空の北極星のように信じられるものなのだ。よし、良い仕事をした。
「それで……これからどうするつもり?」カホリは聞いた。
「わからん」ガイは答える。「もう少し情報を集めてみる。今日はもう打ち止めだ。なんて言うか、飽和状態って言うのかな、きっと明日になればわかることもある。俺にはわかるんだ。なんとなくな、大まかな流れってのが」
「また、教えてくれる?」
「もちろんさ」
普段とは違う言い回しをした。「もちろんさ」だと? まるで都会っ子の転校生だ。ガイの口から混ざり気のない標準語がいたって自然にこぼれ落ちたのだ。
「カホリも、何かわかったら、教えてくれな」
感覚が瑞々しいうちに再度試す。悪くない。俺はきれいな言葉を使っている。浜言葉は出ていないはずだ。いける。俺は、別の何かになれる。
「ちょっと待って」カホリが言った。
ガイは腰を上げていた。もう、思惑以上の事は達成したのだ。あとは帰って休むのみ。少々頭を使い過ぎた。ガキに戻っても良い頃合いだ。だが、カホリは食い下がった。予期せぬ行動だ。カホリの方からガイを引き止めた。何やら、メモ紙を取り、ボールペンで書きつけている。
「これ」破った紙を目の前に突きつけた。「何かあったら連絡して」
ガイは受け取った。「ああ」と答えて、乱暴にポケットにねじ込んだ。はした金でも受け取ったというような苦い顔をして見せた。だが内心は真っ白に焼け焦げた。まるで胸の中に恒星が輝いているかのようだった。ガイは目からも鼻の穴からも、その白銀の光が漏れないように呼吸を止めた。脈すらも、必要とあらば時間さえも止めるつもりだった。
「じゃあな」と言い捨て、ガイは去った。最後までカホリは見送ってくれた。だが、一度も後ろを振り返らなかった。ポケットにねじ込んだメモ紙の方がカホリ本人よりも大事に思えた。言うなれば、それは指輪だった。かの大作家トールキンが編纂した一大叙事詩の核となる存在。全てを統べる指輪であった。
外に出ると走った。ほとんど呼吸もせず100メートル以上も走ると全身が熱くなった。毛穴が開き、汗が吹き出し、どこもかしこも痒くなった。そしてようやくポケットに手を突っ込んだ。メモ紙に指先が触れると甘美な香りが鼻をよぎった。カホリが淹れてくれた、あのお茶の香りだった。きっとあのお茶は紅茶なのだろう。おかしなことを考えるものだと思ったが、あれが本物の紅茶というものなのだ。ティーバッグやペットボトルで誤魔化された世界からガイは逸脱したのだ。そして指輪を手に入れた。全てを統べる指輪。俺にとっての魔法そのもの。指先でその甘い香りを辿りながら、ここで開くべきか自問した。もう少し、指輪の禁忌を楽しむのも良いだろう。それに、メモ紙に書かれたものが何であるのかをガイはほぼ完全に理解していた。カホリは持っているのだ。魔法の番号……携帯電話を。




