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ガイ

 今日のガイは政治家並のスケジュールだった。それは少々言い過ぎかもしれないが、少なくとも町議会議員よりは過密だ。午前中の二時間を使って、クラスの男子生徒の家は回り尽くした。留守だった家には手紙を入れた。これはあくまで直接話をできなかった者に対するメモ書き程度で、要点を箇条書きにした程度のものである。だが、B5用紙一枚でまとめられた簡潔にして完結な文章を評価するものは多く、一部のマニアの中には創刊号からスクラップする者までいた。そして親しみを込めて『ガイ新聞』と呼んだ。

 事実、ガイは記事がうまかった。達筆でもあった。文章も日に日に上達した。だが、決してそうしようと狙ったわけではない。自分が集取した情報を同世代で共有したいという純粋な欲求から生じたものだった。そして、それを達成した時に得られる達成感と満足感は、日常ではおよそ得られぬものであった。そればかりは決して純粋なものではなかった。情報を操作し、人々を扇動するかのような支配力はどこか悪魔的であった。純粋さとねじれた欲求がガイの中で交錯し、異様な推進力を持ってペンを走らせるのであった。

 コピーしたガイ新聞は十部。留守にしていた男子生徒四名の郵便受けに入れた。両親に開封されないように、糊は多めに塗ってある。これで男子は完了した。

 既に午後。暗くなるまではあと二時間というところ。正直、疲れた。残すは女子か……。そもそもガイのジャーナリズムは男子の間だけで流通していたものである。そう意味で言えばある種の結社だ。あの組織もあの結社も、秘密めいた集会は男のものと決まっていた。決して差別的な考えを持っているわけではない。そう、歴史が証明しているのだ。通り名であるガイが象徴しているように、ガイ新聞はguy(男)paper(新聞)であったのだ。

 だが、いつまでもそうはいかない。時代は変わったのだ。ガイ自身、ジェンダーは尊重すべきだと考えている。男は頭が硬いし保守的だ。その点、女は自由。正直。野生的で独創的。何より生物として美しい。日々、ガイの中で女というものが興味の対象としてどんどん膨れ上がっていくのことは本人も認めるところだった。だから、女子は人数を絞って訪問することにしていた。女子の中でも有能だと認める人材。特にガイが一目を置くのはカホリだった。冬休み前の週間日直を務め、その美声と物腰でクラスの男子を魅了した、カホリである。今日はカホリで締めればいい。むしろ、それがあるから一日がんばって来れたのだ。カホリは美しい。それは、海が青いのと同様、ガイの中では普遍的な真理だった。

 カホリの家も、ナオユキ同様港湾の一等地にあった。父親は町の名士。無論、親同士のつながりも強い。同じ檀家で同じ政党で、同じ町内会の役員。子同士はいわゆる幼馴染で兄妹同様に育ったが、物心つく頃から付き合いはなくなった。もしかすると、そう仕組まれたのかもしれない。双方の親は、我が子をすこぶる溺愛していたのだ。

 ガイは一日のうちに二度、港湾を訪れた。カホリの家もナオユキ宅に次ぐ豪邸だ。妙な気持ち。格が違う。ガイも漁業を営む一族に生まれたが、改めて二人の家を見ると歴然たる生活レベルの違いを見せつけられる。こんな地方都市の末端の漁村でも、いや、漁村だからこそ特に目に見えない身分というものが存在するようにガイは感じる。個人の自由よりも、社会を形成する上での技芸を重んじるヒンドゥーの精神こそが、情報途上の漁村には似合うのかもしれない。しかしながら、ガイの心中には妬み嫉みの類はなかった。むしろ、春の若い昆布が香る爽やかな潮風が吹き抜けていた。もちろん自分は裕福ではない。だが、この頭脳がある。容姿端麗で家柄にも恵まれた級友を操作する天性のカリスマがある。そして、のし上がる気質を備えている。例えば、カホリのような美女をこの手に治めた時のギャップ。俺が醜ければ醜いほど、世間は俺を崇め奉る。ナオユキが王だとすれば、俺はお抱え魔術師。才智の限りを尽くして、富も女も吸い尽くす。そう空想すると喜びが生じた。そして、意識の深い部分、もしそれが海だとすれば、生命も光も届かぬ深い海溝の果て、そこで眠り続ける亡霊がほんの少し泣いた。


「でかい家だな」ガイは思った。ほんの少し口に出していたのかもしれない。ただ、海を見て、山を見て、千年の時を超える大樹を目の当たりにした時に突いて出る感嘆だった。

 親父さんは大したものだ。こんな豪邸を建てたカホリの親父さんは尊敬に値する。そんな親父さんはこの町の表も裏も知り尽くしているのではなかろうか。親父さんに比べれば俺なんかちっぽけだ。まだ何も成し遂げていない。そりゃそうだ。まだ子どもなんだからな。じゃあ、この家を建てた親父さんが子どもの頃はどんなだったろう。俺ほど思慮深かったか。いや、きっと違う。どんな偉人だって14歳の頃は俺ほどじゃない。俺ほど世の中をわかっている14歳はどの時間軸にも存在しないのだ。だいじょうぶだ。俺はやれる。カホリを前にしてうまく立ち回れる。いい女、カホリ。俺が初めて意識した女、カホリ。あの女豹のようなふくらはぎ。短距離走の選手だったカホリ。ロケットのような前傾姿勢。風になびく赤い鉢巻。家柄でもなく、その淡麗な容姿でもなく、あの野生的なダッシュに魅了された。気高く、美しいカホリ。許されるならば、剥製にして四六時中眺めていたい。

 チャイムを押した。今は15時過ぎか。家族がいるかな。もう年の瀬だものな。親戚もいるかもしれない。これだけの家だ。きっと何世帯も集まり、女は台所仕事、男は寝転がって持ち寄った雑誌の回し読み。本家での過ごし方はそんなものだ。だが、ガイは気がついた。車が停まっていない。一台もだ。なんだこりゃあ、留守ではないか。家族総出で出かけている。ひょっとしたらハワイで年越しなんてこともあり得るぞ。そうだガイよ、この豪邸だ、お前の田吾作頭とは次元が違うのだぞ。

 と、玄関のドアが「スチャ」と開いた。ガチャではない。スチャである。

「へん、この豪邸は玄関のドアまで気取ってらぁ」口にこそ出さなかったが、ガイはあからさまに顔をしかめた。途端に今まで制御していた卑屈な精神が腐肉に群がる虫の如く沸いた。だが、それはほんの一瞬のことであった。ドアの隙間が押し広げられ、家の中の高級な空気が鼻先をこするや否や、柔和な商人のようなえびす顔を取り繕った。やあやあ、どうもどうも、このドアとても素敵な感触ですねぇ、奥さま。

 しかしドアはそこで止まった。それ以上開かなかったのだ。突然の違和感。これは一般の家人の反応ではない。都会では珍しくないだろうが、ここは辺境の港町だ。町は一つの大家族。誰が来たって門戸を開け放つのが常識だ。だからわかる。中の人間は極端に警戒しているのだ。

 ドアの隙間からアーモンド型の目が覗く。これはダイヤだ。世界に名高いブラックダイヤ。うるわしきカホリ姫の、叡智と野生の結晶体。

「……ガイ?」カホリは言った。

「よう」ガイは答えた。

 ドアが無音で開いた。グレーのパーカー。黒のスパッツ。衣類から飛び出した四肢は品の良い小麦色。ボブのヘアーは墨汁が染みた筆のようで、頭頂部に艶やかな光沢を湛える。肌は大理石。凛と冷えて、適度に潤う。奇跡だ。これこそ神の造形物。ガイは途端に立ち眩む。

「どうしたの?」とカホリ。

「いや、ちょっとな」ガイは内心のへどもどをおくびにも出さずに答える。「知ってっか? おとといの事件」

 カホリの目の色が変わる。猫科の肉食獣がプライベートスペースを侵された時のような無言の圧力。最大の警戒心。

「知ってんだな?」ガイは言う。

 ほんの少しだが猫の目は丸みを帯びた。好奇心。その命取りの感情がドアを開かせた。

「外には出るなって言われてるの」カホリは恥じるように言った。「どうぞ……入って」

 ガイは入った。靴を脱いで、あらかじめ揃えて置かれてあるスリッパを履こうとして気がついた。靴下に穴が空きそうだ。右の親指。ぎりぎり、繊維がメッシュの形状を保つ。きっと爪が伸び過ぎなんだ。幸いカホリはすでに応接間に消えた。念のため足先の靴下を引っ張り、メッシュの部分を弛ませる。スリッパを深く履けばまずバレないだろう。これで良しと一歩踏み出して、ふと思い留まった。玄関の靴が脱ぎっぱなしだ。慌てて振り返りなるべく丁寧に揃える。汚い靴。でもいいのだ。何ら恥じることはない。これが俺の現状。下がりようがない。上がって行くのみ。現にこうしてチャンスタイムに突入した。カホリと二人っきり。やっぱりそうだ。俺はこの世界の主人公だ。

 ガイは応接間のドアを引いた。開きかけのドアは空気のように軽かった。

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