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sleepy time

 朋子は遅めの昼食を用意した。てっきり娘は男友達と外食をしてくるものだと思っていた。まだ彼氏ではない。友達ですらないのだろう。これはいわゆる一つのロールプレイ。我が娘の性格は、当然の如く理解できる。親としては複雑だが、微妙に微笑ましくもある。

 サンドイッチ。それに紅茶。適当に掴んだティーバッグの表記は『sleepy time』だった。少し眠りなさい、というわけでもないが、これでいいと思った。それに、思春期の娘が、母親のおとぼけにどんな反応をするかも気になるところだ。朋子は声が不自由な分、茶目っ気を多用した。そして何より表情が豊かだった。母子の間では手話すらもほとんど必要ないほどだった。

 ヨリコ。笑うと鼻筋に皺ができる我が娘。それは赤ん坊の頃から変わらない。だからヨリコと名づけた。この子の人生、それが鼻筋の皺に暗示されているように感じたのだ。幾本もの人生が交差し、絡み合い、もたれ合う。依り、縒って、寄り合う。積もり重なり、皺が凭る。だから、より子。

 ヨリコの部屋をノックした。三つ数えてドアが開いた。いつもと同じ部屋着に着替え、いつもと同じ笑顔。そしていつもは筆を走らせたような糸目が、満月のように丸くなる。朋子がみぞおちの位置でささげ持つサンドイッチを発見したのだ。

 となるとまるでバレリーナ。ヨリコはサンドイッチが乗ったトレーを受け取ると爪先でステップ。机に置くや否やでターン。その反動を利用して母親の胸にダイブ。そして必死な子猫のように、肉体の全面積をマザーに擦り込む。

 人様から見れば、スキンシップが過ぎるのかもしれない。日本人なのにハグだなんて、白い目で見られるのかもしれない。だがこれは言葉だった。『ありがとう、おなかペコペコ』という日常的なボディランゲージだった。朋子は幸せだった。同級のどの母親よりも、母たる特権を持て余していた。そう確信していた。娘の匂い。心臓の音。赤ん坊の頃と変わらない。むしろ、成長するにしたがって、いとおしさは募るばかりだった。

 ヨリコは母親の胸から離れた。身長はさほど変わらないので、猫のように背中を丸めたままだ。背筋を正すと、サインを送った。まるで舞踏。相対した母子は、つかの間のフラを踊る。

 会話の内容は、デートの報告だった。どうだった? 何を話して良いのかわからなかった。最初はそれでいいのよ。買い物は?

 ヨリコは踵を返して机の上のラジカセを持って来た。年代物だ。中からカセットテープを取り出し母親に見せる。

 またか、と朋子は思った。このご時世にカセットテープ。この子は変わっている。タイトルも、「みんなのうた」。カセットは色あせ、汚れている。明らかに中古品。何年前のものだろう? 朋子が子どもの頃のものかもしれない。もう、卒業しても良い時期なのに。アイドルグループに熱中しても良い年頃なのに。この点については、少し心配になる。しかし、朋子にはそれを指示する権利はない。どちらも聞いたことがないのだ。言葉の喪失の主たるものは、聴力の喪失が原因だった。

 さあ、私は紅茶でも飲んで少し休もう。読書もいい。そのまま少しうたた寝するのも悪くない。急に肩の力が抜けて、心地よい気だるさを感じた。やはり緊張していたのだ。娘の初デートが、我が事のように胸を騒がせた。

『じゃあね』と目で合図して娘の部屋を後にする。その時、ふと、娘の部屋がまぶたに焼き付いた。もう少し女の子らしくさせなきゃ。音楽の趣味は仕方がないとして、もう彼氏らしき人もできたのだから、せめてあの悪趣味な赤いロボットは処分させなきゃ。それに、ほんの気のせいかもしれないけど、娘はあのロボットに対して何か話しかけているような気がする。ロボットの方にも不気味な存在感がある。何か、私には聞こえない、健常な聴力を持った人間にさえ聞こえない秘密の言葉で囁き合っているような気がしてならない。まあ、それは今考えることもない。とりあえずは休もう。娘と同じ『sleepy time』の紅茶でも飲みながら。


 母親の予感は当たっていた。一人のはずのヨリコの部屋から、明らかにそれとは違う声がしていた。そして、声は、部屋の主と掛け合いをしていた。思春期の少女同士の、早口言葉のような取り留めのない会話だ。そしてテープ、みんなのうた。会話、うた。会話、うた。爆笑。その繰り返し。

 ヨリコがサンドイッチを手にした。すると赤い手が伸びてきた。

「ワタシモタベタイ」片言の声がした。出所はまさに、目下話題の赤いロボットだった。顎がカクカク上下し、ワタシモタベタイを連呼する。

「食えんのか、お前に食えんのか」とヨリコは言い、サンドイッチをロボットの口にぐいぐい押し当てる。

「ウメエ! サンドイッチウンメエ!」ロボットは叫ぶ。

「超ウケる!」それを聞いたヨリコは爆笑する。

 ケラケラケラ、ロボットも笑う。

 一人とダンボール製のロボットは互いに腹をよじらせて笑い続ける。

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