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樹の証言

 卓に戻った樹は水を一杯飲んだ。背後で座敷に寝転ぶ末弟をちらりと見やり、うつむき気味に顔を戻した。ジンケとスグルは黙って待つ。樹は少々無口な気性だ。その分、よく気を使い、よく人を観察している。そうジンケは感じていた。三兄弟の真ん中は色々と複雑なのだろう。人目を伺って生きているという印象。だから、きっと兄とその友人の会話をずっと聞いていたのだろう。末弟の世話をしながら、誰もが想像する以上に聞き耳を立てている。それが齢幼くして身につけた樹の生き方だ。

「おかしかったんだ」樹は言った。「お姉ちゃんの部屋、おかしかった……」

「何が、どうおかしかったんだ?」スグルは聞いた。

「言っちゃいけないって言われたけど」

「いいんだ。言えよ。だいじょうぶだから」

 樹は再び水を飲んだ。もうコップには殆ど入っていなかった。露ほどの水滴を樹は舐めて吸い込んだ。まるで強い酒を求めるかのように。

「最初はアニメを見てたんだ」樹は話す。「ずっと昔に24時間テレビでやってたアニメだって言ってた。角が生えたユニコーンと目が三つある中学生の話だって言ってた。お姉ちゃんはユニコーンの方のビデオーーDVDじゃなくてビデオだよ、ビデオデッキ初めて見たーーを再生して出かけたんだ。おもしろい感じだったよ。巧と二人で見てたらおばさんがジュースとお菓子を持ってきてくれた。だけどおばさん一言も話さないんだ。ニコニコしてて素敵なおばさんだけど話さない。きっと、おばさん、喋れないんだと思う」

「喋れない?」スグルは聞く。

「うん。お兄ちゃん聞いてないの?」

 スグルは小さくうなずく。ちらりとジンケを見るが、ジンケも知らない。

「あんなに愛想良いおばさんなんだもん。子どもが二人いたら何か話すはずでしょ。だけど一言も話さない。それが嫌な感じはしないんだ。なんか、すごく優しい感じなの」

「へえ」スグルは言う。「障害なのかな」

「会ったことないの?」ジンケは聞く。

「会ってる。特に気にしなかったけど、言われてみればニコニコしてるだけだった。何も話してないな」

「まあ、それは置いといて」樹は言う。「問題はそこじゃないの。むしろそこまでは何の問題もなかったし。お菓子もジュースもおもしろい感じのアニメもやってるし、たまには人の部屋もいいなって思った。片付いているし、くつろげる感じだった」

 ジンケは回想した。己の内側にダイブする感覚だった。ヨリコのお母さん。同級生たちの母親。一斉に集う場。母親参観日。覚えている。隅々まで。だって、その日はジンケ少年にとって特別な日。なぜなら少年には母親がいないのだから。

 教室内でむせかえるような香水の匂いを同級生たちは臭いと言った。だが少年は貪るように鼻を利かせ、肺が破裂するほど吸い込んだ。そして、きらびやかに着飾る母親たちをできるだけ視界の中の留めるように努めた。まるで王室主催のパーティに紛れ込んだ物乞いのような気分だった。何もかもが手に入らない。分不相応。手の届かない世界。だが、想像することは許されるような気がした。この中にお母さんがいる。未だ知らぬ、これからも決して知ることはない母がこの中にいる。少年は級友たちの母親を選り好み、値踏みして、禁忌じみたゲームを楽しんだ。だから覚えているのだ。級友たちの母親はほぼ全員記憶している。一度も同じクラスになったことがない者は仕方がない。だが、ヨリコとは二年間同じクラスだった。記憶にも新しい小学校高学年。なのに、そのはずなのにヨリコの母親の記憶がない。おそらく一度も参観日には来ていなかったのだ。

 その時、記憶が弾けた。当時の視界、教室の後ろに並ぶミスコンもといミセスコンさながらの母親たちが色鮮やかにフラッシュバックした。だが、ファインダーはミセスの列を外れた。まるで生体反応を自動でズームする監視カメラのように全く別の方向へ逸れたのだ。教室の外。後ろの引き戸のガラス窓の奥。そこに一人のミセスはいた。悲しげで、優しさに満ちた笑顔。樹とスグルが「ニコニコ」と言ったあの顔。おそらくあの人が、ヨリコの母親だったのだ。

「……赤いロボットが」樹の声がした。

 その声で乱暴に引き戻された。白昼夢が音を立てて崩れた。

「何て?」ジンケは聞き返した。樹の話が上の空だったのだ。

「だから、声がしたんだ。笑い声。オレでも巧でもなく、アニメの中の声でもない。部屋のどこかで誰かが笑ってた。おばさんじゃないのはわかった。だって、おばさんはいないし、やっぱり喋れないんだと思ったから。それで巧みと一緒に部屋を探したんだ。それで、悪いと思ったけどクローゼット開けたんだ。だって中から聞こえてたんだもん。ケラケラって笑い声が。そしたら、いたんだ。中に……赤いロボットが」

 赤いロボット!? ジンケとスグルは顔を見合わせた。樹は同じことを二度説明したが、二度聞いたスグルも、一度目を聞き逃したジンケも、驚きのベクトルは相違なかった。おそらく三度目を聞いたとしても同じ結果になるだろう。

「赤いロボットって……」ようやく言葉が出た。発生源はスグルの口だったが、ジンケも同じことを思った。

 あれは捨てたはずだった。一時の過ちだったのだ。自分でもなぜあんなものを作ったのか理解できない。半ば取り憑かれたかのように、啓示を受けた預言者の如く骨身を削りながら制作したのだ。ロボットはダンボール製だった。全長は153センチメートル。当時でジンケと同じ身長。ダンボールと言っても、その造りは精巧だった。特にこだわったのは関節だった。自身の体を参考に七十三箇所も可動できるようにした。色は赤にした。真っ赤に塗った厚紙を、重ね貼りしてボディに自然な立体感と滑らかさを施した。だがクラスの反応は冷淡なものだった。担任の木村までもが汚物でも見るような目で一瞥をくれた。皆、直視するべきものがそこにあるのにことごとく見て見ぬ振りを決める。まるで新鮮な死体を視界の隅で保存するかのような、目に見えない態度をとったのだ。中学一年生の夏休みの自由研究としては異端すぎたのだ。そもそも何のための研究なのかもわからない。出来栄えだけが謎めいて突出していたから、更に不気味だった。

「ジンケ……どういうこと?」スグルが聞いた。

「わからない」ジンケは答えた。「僕は、あの夏、捨てた。後悔したんだ。バラバラに分解してね。ゴミ袋に入れて捨てた」

 目の前ではスグルと樹が聞いている。だがジンケの意識はその光景とは裏腹に当時の教室へとダイブした。赤いロボットを従えた少年は、級友たちの冷淡な視線を浴びながらも奇妙な我を通した。心では恥じらっていたのだ。穴があったら、なければ掘ってでも入ってしまいたかった。だが、何かがそうはさせてくれなかった。少年の奥深くに潜む巨大な主のような存在が抗えない指令を出し続けたのだ。ジンケはロボットを隣の席に座らせた。あまりにも異様な光景だった。当時、ジンケの隣はタカシの席だった。ナオユキグループに属し、病気がちだが悪知恵一番のタカシである。その日もいつもの如くタカシはいなかった。病気がちという理由で、ほぼ毎日、大幅に遅刻していた。実際は嘘であった。病気がちなのは真実だが、成長するにつれて少しずつだが身体も強くなっていたのだ。本気で体調を崩すのは週に一度程度。その他は仮病だった。タカシは級友たちがアリのように登校するのを鼻で笑った。間違いなく自分はキリギリスだと思っていた。おいしいところだけをいただいて何が悪い。特に少年期の午前中。それは黄金の時だ。日が昇り続ける時間帯に自由を奪われるのは人間の尊厳の問題だ。それはある意味真理なんだとタカシは確信していた。そのタカシが給食の時間に合わせて登校して来た。すると自分の席に赤いロボットが座っているではないか。タカシは驚愕した。やるじゃないかジンケ。こんな羽目の外し方ってある? このジンケってやつはおもしろい。地味で生真面目で、決してルールから外れないやつだが、決してアリじゃない。アリのふりして潜入してるんだ。擬態ってやつ。目的はわからないけど、誰にも言えない秘密を抱えている。タカシは先学期から机の相方になったジンケに奇妙な好意を寄せていた。

 ジンケははっきりと思い出した。タカシはこう言ったのだ。

「なにこれかっこいい俺にちょうだい」

 かなり強引だった。俺の席に座っているから俺のもの、とまで言い放った。なぜかジンケは反発した。別にあげても良かったのだ。だが、タカシの執拗なまでのロボットへの賛辞が皮肉に聞こえた。からかわれているのではないかと感じた。それに、赤いロボットは処分すべきなのだ。深層心理の結晶は、決して表に出してはいけないのだ。

 だとすると盗んだのはタカシか。ありえない話ではない。それが巡り巡ってヨリコの部屋に。自分の知らぬところで、赤いロボットがたらい回しにされているのか? とても不快だ。そして何よりバカバカしい。

「なに? ジンケが作ったの? あのロボット?」樹が聞く。

「わからない。まだ……」ジンケは答えた。「話を続けてくれる?」

「うん」樹は話す。「オレも巧も『すげえ!』って言った。すごく良く出来てたから。かっこいいってわけじゃないけど、なんかリアルだった。それで、引っ張り出したんだ。クローゼットの中から。そしたらそいつ、笑ったんだ。ケラケラって、さっき聞いたあの笑い声。顎をカクカク揺らして笑うんだ。オレと巧はもう一度『すげえ!』って言った。どういう仕掛けなんだと思って調べたけど、わからなかった。何も仕込まれてないように思った。それでだんだん怖くなってきた。笑い声は止まらないし、だんだんロボットっぽくないって思えてきた。ただの繰り返しじゃないの。人間みたいに、なんて言うか、不規則だった。笑い方が……」

 理解できない。何の話だ。どうして、僕が作った赤いロボットが笑うんだ。それも、人間みたいに。

「声は? 機械みたいな? それとも人間に近い?」ジンケは聞く。

「女!」樹は叫ぶ「女……女みたいな声だった。オレ怖くなってロボット投げたんだ。そしたら巧がおもしろがって真似して投げた。巧は全然怖くなかったみたい。でも、壊したらだめだと思ったから、やめさせようとした。巧さ、笑ってるんだよ。巧が投げる度にロボットも笑ってた。もう気味が悪くて怒鳴っちゃった。それでようやく元あった場所にしまったんだ。テレビのボリューム上げて気にしないようにしたけど、ずっと笑ってたんじゃないかな。だから、あの家、オレもう行きたくないよ」

「だみだ」突然スグルが言った「もーわけわかんないよ。帰ってちょっと昼寝しよう。こういう時は一回リセット」

 それにはジンケも賛成だった。一度整理した方が良い。そして憶測だけでは何も解決しない。ヨリコに直談判する必要がある。そのためには時間を置こう。やっきになってはだめだ。何を考えているのかわからないが、相手は相当に手強いようだ。

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