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ジンケ、女子の家を訪ねる

 その頃息子のジンケはヨリコの家の前にいた。

 ガイと別れてからスグルの家を訪ねたが不在だった。母親に聞いたところ、弟二人を連れて市街まで出かけたそうだ。列車に一時間揺られると、そこそこの市街に出る。本でもゲームでも洋服でも、とりあえずはなんでも揃う。我が町に住む者は皆、食料品以外は市街まで出向いて手に入れる。スグルほどの智恵者ならば尚更、我が町の情報量では満足しない。弟二人のお守りも兼ねて、古本屋巡りでもしているのだろう。とにかくスグルはいない。となれば誰と話せば良いのか。ガイから聞いた話を気兼ねなく話せる友人はスグルしかいない。いや、待てよ……。

 自然と足が向いた。他にも話せる友はいたのだ。スグル以外いなかったと決めていたのは冬休みに入る前までの話。むしろこちらの人物の方が議題的には相応しいのかもしれない。まだ理性では認めたくはないが、現時点で超自然的な話のできる友人はヨリコしかいない。

 しかし、女子の家を訪ねるなんて初めてだ。しかも一人。この13年間、こんなことは必要なかった。いつもスグルやガイや、気の良い少々変わり者の男友達が行く先々で門を開いて待っていてくれた。いざ、同級生の女子の家の前に着くと尻込みした。ジンケはふと思った。幽体の時には緊張なんてしなかったのに……。

 それに親が出てきたら何て言えばいいのだろう。むしろ親が出る可能性の方が高いのだ。「同級生のジンケですけどヨリコさんは御在宅ですか」と言えばいいのか。いや、通り名では通じないだろう。しかしスグルの弟たちやガイの血の濃い親戚筋にはジンケで通っているようだ。物心ついた時から少年はジンケだった。ならばここはやはりジンケで通したい。こんなことになるなら初めから幽体離脱してくればよかった。だけど夜まで待てない。この胸の不安を閉じ込めておくのは無理だ。得体の知れない存在が、町に忍び寄っているのだから!

 少年は巡り巡った思考を抱えながら、いつかの夜にヨリコと語らったバス停のベンチに座り、また最初から同じことを考え直した。

 すると午後一番のバスが目の前に停まった。

「おう、ジンケ」

 バスの扉が開くと同時に名を呼ばれた。見上げるとスグルがバスから降りるところだった。一瞬で思考が停止した。まるで石にでもなった気分だった。理解不能。なぜここにスグルが? ああ、そうか、バスを乗り過ごしたんだな。いつもは列車を使うが、今回はバスにしたんだ。行きは列車だったかもしれないが、帰りはバスにした。弟たちの世話にかまけていて降りるはずのバス停を通り過ぎてしまった。でも弟は? 兄貴の後ろにくっついているはずだ。特に年少の巧はまだ手をつないでやらなければ5分と保たずに泣いてしまう。そして、あれは誰だ? 巧がいるはずのポジションに立つ女。スグルのすぐ後ろにぴったりと寄り添い、見方によっては機動隊の盾のようにスグルの背中に隠れる女。あれは誰だ……?

 答えはわかっていた。外行きの洋服で、髪は丁寧に結われ、ほんの少し淡い色の紅を引いているがその女性はヨリコだった。飾り立てている。少なくともジンケの知っているヨリコではない。だが、内なる幽体の目を借りて見ると、その女性の中には確かに針金のように尖った少女が潜んでいた。女はこうも変わるのか。スグルと一緒にいるのは紛れもないヨリコであった。

 すぐにスグルがバツの悪そうな顔をしてヨリコから離れる。その一瞬、二人の指先が触れ合っているのをジンケは見逃さなかった。

「いやあ、ちょっとたまたま一緒になってさ」スグルが言った。

「ごめん」食うようにジンケが言った。

「別に謝ることは……」とスグルは言ってヨリコの方を振り返って「なあ」と同意を求めた。

 ヨリコはその「なあ」にどう反応して良いやら憮然とした顔で氷の壁を作った。スグルが「なあ」の口の形のまま唇をひくひくさせていると、ヨリコはまるでプログラミングされたロボットのような動作で通り過ぎる。ガチャン、バタン。ヨリコが玄関に収納されると、ふいに訪れた静寂にジンケとスグルは居心地が悪くなる。

「実はさ」先に口火を切ったのはスグル。「……付き合うことになったんだ」

 それは驚いたさ。だがある程度の予想もしていた。さながら、「まさか、そんな、いつの間に……」という感嘆が洪水のように押し寄せた。男女が付き合うということはずっと先のことだと思っていたのだ。だが、それは誤魔化していただけだ。ジンケ自身の中にも性の芽生えはあったのだ。元に女子の家の前でぐずぐずしていた。ヨリコのことを少なからず意識していたのだ。だからなおさら複雑だ。第二次性徴の影響なのか、本心とは別の感情で女性を意識してしまう。ただヨリコに友情を示したいのに、己の男性が邪魔をする。そして同時に嫉妬する。スグルを取られた。ずっと僕だけの特別な友達だったのに、スグルは嘘を言いかけてまでヨリコとの関係を密にしようとした。だが、スグルを責められるのか? だって、先に浮ついたのは僕の方じゃないか。ヨリコと密会をしたのは僕の方だ!

「弟はどうしたの?」

 思いがけない台詞が出た。この際どうでもいいことだ。次男の樹だってもう5年生だ。末弟の面倒ぐらい見られる。

「ちょっと、預かってもらった」そう言ってスグルはヨリコの家を指した。

 そうか。弟たちをヨリコの家に預けて、自分たちの母親には嘘をついて、二人きりでデートしたのだな。デート! なんて浮ついた響き! それにしても嘘はきついな。なんだかこう、肋骨の間を虫が這うような嫌な感じがする。嘘か……。嘘をついたか。それはとてもきついことだな。

「それにしても早い帰りだったね。それともこれからまた出かけるのかな? ああ、もしよかったらだけど、僕が弟たちの面倒を見ようか? 今日は一日暇なんだ」

 また心にもない事を言ってしまった。これは俗に言う、心の防衛反応なのかな。傷ついた心は別の方向に自動運転を始める。ちゃんとよくできている。白血球とか血漿とかは、ちゃんと心にも備わっている。だいじょうぶだ。本当の心は、当の本人も出入りできない秘密の部屋に閉じ籠る。そこで好きなだけ眠ったり空想したりする。いいな。僕は自由に出入りできるように鍛錬しよう。鍛錬は好きだもの。鍛錬は得意だもの。だからあの、深遠なる瞑想と奇跡の幽体離脱をものにできたのだもの。そしてこれから先にはもっと深くてもっと高みに登り詰めた世界が僕を待っている。待て! こんなこと考えちゃいけない! 僕は傷ついている。こんなことで傷つく僕は醜い。スグルとヨリコが幸せなら、僕も嬉しいはずだろう! 特にスグル。僕の親友。命を投げ出すほど大好きな友達。

 ああ、これは嫉妬だな。脳が沸いてきた。脳みそのしわに蛆の群れがのたうち今にも「嫉妬」という文字を形成しようとしている。だめだ。ギリギリのところで踏ん張らなくちゃ。えい! それ! 蛆虫つぶせ!

「いや、もう終わったから、これから弟たち連れて帰るよ」スグルは言う。「一緒に行かない? その後ちょっと話したいから」

「うん。いいよ」ジンケは答える。すると玄関の扉が開く。

 巧が飛び出して来る。その後ろにヨリコと樹がいる。樹には目に見えて活気がない。病気の犬のような顔をしている。

 巧は弾丸のようにスグルの腹に飛び込み、すぐさま首だけ後ろに向けて叫ぶ。

「お姉ちゃん、また遊びに来てもいい?」

「いいわよ」ヨリコは答える。「でもここで見た事、聞いた事は絶対に内緒だからね」ここまでは良きお姉ちゃんの口調だったが、すぐさま隣の樹に耳打ちする様子はいつもの魔女だった。「じゃないと呪われるんだからね」

 無邪気に笑う巧をよそに、樹は口を真一文字に縛る。まるで犬だ。調教された犬。そして病気の犬。きっと、この犬は深い精神の病気をわずらっている。

「どうだ。おとなしくしてたか?」スグルは戻った樹に聞いた。

 樹は黙ってうなずく。口の中にビー玉が詰められているみたいだ。

「じゃ、また」スグルがヨリコに向けて手を上げる。

 ヨリコは微笑んで返す。この笑顔、見たことある。そうジンケは思う。

 そうだ。あの時、幽体離脱して真夜中に会った時、別れ際に見せた笑顔。普段は見せないヨリコの笑顔。少なくとも学校ではキツネ目だ。それに付随して意地が悪い。誰もがヨリコにそんなイメージを持つ。その吊り上がった目が垂れる瞬間。僕とスグルには解除するキツネ目。こんな技を隠していただなんて、だから女は油断できない。

 ジンケは胸に焼き付けた。キツネが微笑むその一瞬を。できれば写真に残したい。じっくりと手にとって確かめたい。だけどそんなことをするとまた脳に虫が沸く。急いで排除しなければいけない。だめだ、考えれば考えるほど蛆は増える。今度は真夏の大量発生だ。薬がいる。強力な殺虫剤。でも薬は使いたくない。これは僕の問題だ。僕だけの力で駆除しなくてはいけない。

 少年は救いを求めるように前を歩く親友の背中を見た。すると彼の背中は光って見えた。脇を固める彼の弟たちも光って見えた。その光に触れると、脳の蛆虫たちはのたうつのをやめた。不思議な光は蛆虫の遺伝子を組み替え、別の生物に変異させようとしていた。決して蝿ではなく、別の全く違った何かに蛆虫は進化しつつあった。ジンケには一瞬見えたような気がした。光を取り込み、無数の炉のように煌々と輝く虫群が新たに形成した文字。それはおそらく未だ知らぬ「愛」なのだった。

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