亜鉛
ナオユキの部屋の窓からは見えないが、この町にはもう一つ影のシンボルと言える建物がある。外湾沿いの崖下にひっそりと佇む○×大学付属北方生物臨海研究所である。立地上、ほとんど人目に触れることがない。海岸沿いは切り立った崖が連続し、干潮時のほんの僅かな時間以外は海底に沈む。そこに訪れるには一度峠道を通って崖の頂上、いわば断崖絶壁の岬の入り口まで進み、そこから再度未舗装の道を下る。こんなところで何を研究するのかと訝しがられるのも大概だが、この区間一帯、海と陸、そして空に連なる高い崖全てが鳥獣保護区なのだ。そう、臨海研究所では海洋生物を中心に、自然動物全般の生態系を調査している。とはいえども町は古来より豊かな海の恵みを享受して発展を続けた。水産系の研究が主となるのは事実。近年では昆虫や鳥獣の繁殖・居留地としても注目が集まって来たが、陸と空の調査はまだまだ軌道に乗らない。ゆえに人材も手薄。海洋研究の研究員が10名に対し、鳥獣部門はたったの1名。季節ごとには大学院生の研究チームが逗留することもあるが、常駐するのは1名なのだ。その人物こそが学術研究員兼臨時職員として研究所に勤務する、この物語の主人公であるジンケ少年の父親、達郎であった。
ちょうど昼食時だった。達郎は研究所から徒歩5分の位置にある原生林の中にいた。白樺の木が痩せて倒れている。近年数を増やし続けているエゾシカによる害だ。シカは食料に困窮すると樹の皮まで食べる。皮をむしり取られた樹は枯れる。この辺りの白樺林はどこもこんな状態で、ところどころ円形脱毛症のように緑地を欠損している。達郎はなぜかここに引き寄せられ、自分だけの呼び名で密かにテラスと名づけていた。
正午。陽だまりがテラスに直下する。ここだけは冬でも温かい。皮肉なものだ。シカの害による倒木が陽だまりを作り、達郎のような人間が引き寄せられる。害とは一体何のかと思う。世の中には無駄なものは何一つ存在しない。害虫と益虫を分け隔てるものは、人間社会と共にうつろう価値観。達郎は温まった土の匂いを胸いっぱいに吸い込む。
ここで食べる昼食は格別だ。言えど、特別なものではない。カップ麺とコンビニのおにぎりが一つ。持参した魔法瓶が未来人のツールのようで、原生林の中でひときわ冒険心をかき立てる。ここからもう少し歩けば岬の突端だ。食べ終えてから腹ごなしに散歩でもしよう。あそこの眺めは素晴らしい。人工物が全く視界に入らないのだ。岬の突端に立つと、外海の大パノラマに飲み込まれそうになる。何年も変わらず、きっと文明のうつろいとは関係なしに素晴らしいままだ。きっと流れる時間自体が違うのだろう。
「やっぱりここか」後ろから声をかけられた。同僚の米山だ。
「ああ」達郎は答える。「今日は特に空気が美味しい。プーアル茶の匂いがする」
「そうか?」米山は犬のように鼻をひくつかせる。「全然しないけどな」
達郎は「はは」と笑ってそれに答える。
米山が腰を下ろす。達郎の隣。倒木のベンチ。同じく倒木のテーブル。悪くないアート空間。
「海水にさ、亜鉛が多いんだよ」米山は言う。「そりゃあ毎回変動するもんなんだけど、今月は妙に高い。無視しても問題ないラインではあるんだけど、どうも気になる」
米山は海洋部門の研究員で、海草藻場の生物多様性が専門だ。
「牡蠣の影響とか?」達郎は聞く。
「いや、それは考えにくいな。この時期、例年だと亜鉛濃度は下がるはずなんだよ。ほら、牡蠣は年末に向けて大売りするだろ?」
「そうなのか?」
「そうさ。まあ、牡蠣に限らず海産物は売りさばくけど、この町では特に牡蠣だ。普段は観光客相手に値段設定が高いだろ。だけど年末は観光客もいない。だから地元民に還元するのさ。在庫処分だ。まだ流通が閉鎖的だった頃の値段に戻るんだ。だから牡蠣は根こそぎ売れる。結果、湾内の牡蠣は減少する」
「ほう」達郎は知らなかった。この町で生まれ育ったはずだが、そんなこと考えたこともなかった。そもそも牡蠣を食べた記憶はあまりない。子どもの頃は好きではなかったのかもしれない。それにも増して、単に貧しかったのかも。
「だけど増えているのさ。亜鉛が」米山は言った。
「亜鉛って、多いと問題があるんだっけ?」
「ある程度の量なら生物の成長を促進させるけど、一定量を越えると急に悪さをしでかす。人間もそうだ。亜鉛を摂り過ぎると銅の欠乏症を引き起こす。鉄も吸収しづらくなる。貧血になり、免疫低下の原因になる」
「かなりまずい状況なのか?」
「いや」急に破顔して米山は言う。「そこまでではないよ。全然ね。ちょっと気になる程度なんだ。もっと広範囲にサンプルを取れば、きっと数値は落ち着くよ。ただ、今日で仕事納めだろ。なんだか心残りでね」
「そうか。いよいよ俺一人になるのか」
「ああ。留守番よろしくな」米山は立った。腰を回し、縦に伸びをして、上ずった声で聞いた。「そっちはどう? 何か問題ない?」
「いたって平和。オオハクチョウもポツポツ来てるし、そろそろツルも帰ってくるだろうね。空はいいよ。時間がゆっくりだ。こう見上げると、ふわーっと飛んで行きそうだ」
「もういいんじゃないか?」米山は言う。指は達郎のカップ麺を指す。
「ああ、食べ頃だね。失敬していただくよ」
「伸びてるんじゃない?」
「だから食べ頃なんだよ」
米山はアヒルのように笑い、片手を上げて立ち去る。
明日から一人だ。海洋部門の研究員は米山で最後、皆休暇のため帰省している。学術研究員兼臨時職員の達郎が研究所の留守を預かるのだ。とは言っても殆どやることはない。むしろ研究所を自由に使える年に一度の貴重な期間なのだ。
達郎はカップ麺の蓋を剥がす。内側のアルミ面についた水滴を包み込むように折り畳むと、ふいに記載された文字が目に飛び込む。こんなところにも文字情報がある。剥がした蓋の裏だぞ。日本の印刷技術も、食品加工メーカーも、仕事に一切の抜かりはない。大したものだ。と考えながら、目は着々と文字を追う。このカップ麺に含まれる栄養成分表だ。ビタミンB1、B2、カルシウム……。お馴染みの成分が続くが、この中には亜鉛が含まれてはいない。はたと思い、おにぎりを手にする。ビニールの包装にもご丁寧に栄養成分表が記載されているが、ここにも亜鉛の表記はない。まあ、それほど驚くことではない。亜鉛が摂取しにくい栄養素であることは、なんとなくだが知っている。では、人は通常どのように亜鉛を摂取しているのか……。
やはり牡蠣なのだろう。牡蠣などの二枚貝。巻貝はどうだ? あまり考えたことはなかった。他にもあるはずだ。だが思いつかない。ナッツやベリーなんかにも、ひょっとしたら含まれているような気もする。ただ、気がするだけで何の確証もない。亜鉛は、そもそも必須栄養素なのか?
なんだか無性に牡蠣を食べたくなってきた。やはりカキフライだろう。子どもの頃から牡蠣は苦手だったが、カキフライは別だ。あれは牡蠣とは思えない。何個でも食べられる。レモンを絞って塩でもよし。中濃ソースをたっぷり乗せて食べるもよし。タルタルソースなんかがあれば最高だ。ビールともごはんとも抜群に合う。亜鉛もたっぷり摂れるだろうし、今夜のおかずはカキフライに決定。
達郎は弾けるようなカキフライの味を想像してカップ麺をすする。そして熱い息を吐きながら天を仰ぐ。遥か上空でオジロワシが旋回している。鳥はどうなのかな。亜鉛をどうやって摂っているのだろう? 達郎はしばし思索に耽る。




