ピアノ
ほとんど話は耳に入って来なかった。いや、正確には入って来ていたのだろう。よくある漫画みたいに、右の耳から入って左の耳から抜けるという現象が実際に起きたように感じた。それほど恵子先生は木村を魅了した。普段はここまで惚けることはない。きっと冬休み効果だ。生徒のいない学校。禁断めいた密室。よりプライベートに近い、時間の共有。
「木村先生はどう思います?」恵子が言った。
まあ、要約すると、漁師が大怪我をして、警官が発砲して、そんなことがあったからとにかく海には近づかないように、ということだろう。
「はい……物騒な世の中になったもんですね」
とても良い匂いがした。音楽室が恵子先生の香りで満ちている。音楽と香り、まるで貴族だ。待てよ、俺の体臭はどうだ? まずいんじゃないか? だって、もう五日間も風呂に入っていない。どう切り抜ける? 距離だ。距離を保て! さすれば姫の香りがかき消してくれるはずだ。いいか、匂いの射程を詰めさせるな!
「お化けですよ」恵子はいかにもじれったいという顔をして言う。「お化けのことどう思いますかって聞いてるんです」
「お化け……」そんなこと聞いたような聞かないような……。
「本当にお化けが出たって思います?」
「まさか!」木村は答える。そうだ、教頭の話の後、国語の野茂先生を中心に「妖怪」とか「怪物」とかいう言葉が飛び交っていたような。「出ませんよ。お化けは出ません。出ませんしいません。そんなことあるわけないです」
「じゃあなんだと思うんです?」恵子が聞く。
「いや、わからないですけど、結局はアザラシとかトドとか、ひょっとしたらシャチなんてこともあるかもしれませんよね。わからないですけどね」
「それはないって増谷先生が言ってましたよ。生物学上あり得ないって」
「お化けの方があり得ないでしょう」
恵子は口をとんがらせる。この表情もチャーミングだが、「お化け」という幼稚な言葉をチョイスするところも可愛らしい。ちなみに増谷は生物専攻の教師だ。恵子とは同期で細面の独身。木村はうずくような嫉妬を感じた。
「まあ、わからないことをあれこれ言っても、結局何もわかりませんからね。数日経てば、何だそんなことだったのかって結論になると思いますよ」
「でも気になりません?」恵子は言う。「これって不謹慎かもしれませんけど、今があれこれ言う一番のタイミングだと思うんです。真相がわかってしまったら、このドキドキする感じ終わっちゃうんです。だから私推理小説は最後まで読めないんです。謎解きして欲しくないんです。ピアノもそうですよ。最後まで弾きたくない。まだ続きがありそうなところで止めるのが好きなんです」
「なるほど」木村は答える。「ゲームだとしたら、レベルを上げるのが好きなのと一緒ですね。クリアしちゃうと虚しいだけってやつ。だから直前で止めてしまう。虚しくなっちゃうんですよね、エンディングって」
「それはちょっとわかりません」恵子が言う。そして「あははは」と笑う。
その笑い方があまりにも奔放、言うなれば地球の反対側に住む人々の笑い方のようにあけっぴろげなので、木村もつられて笑ってしまう。
ひとしきり笑いあったところで恵子は体の向きを変えてピアノに向かう。なんとなく目で、「弾きますね」と言った気がする。あははは、と笑いあっただけだが、その中でたくさんの会話をしたような気がする。この感覚には懐かしさがある。言葉にしていないのに、「この話はこれでおしまい。私はそろそろピアノを弾きますね」と聞こえたのだ。かつて木村が教え子たちと同じ歳の頃、何人かの親友と呼べる者たちと共有していた親密な空気感だ。恵子のメッセージを受け取ると同時に木村も意思を返した。「ちょっと、聞かせてもらいますよ」。二人は弓なりの目で意思を互いに打ち返し、瞬時に演奏者と観客になった。
花の香りは消えた。一瞬にして冷たい夜。針のような気配に満たされ、ピアニストは異常なほど猫背になる。さっきとは別人だ。
プロの道はなかったのだろうか。いや、きっと彼女にとってピアノとはプロとかアマとか、そういう区別をするものではないのだろう。もっと決定的な、生命活動そのもの、弾かずにはいられない宿命的な行為なのだ。
興味深い人だ。必ずや、良い友人になれる。親友と呼べる何かが二人の間に存在している。おそらく、恋人にするには惜しい人なのだろう。そうだ。友情こそが人類の至宝なのだ。愛や恋で汚すべきではない。
曲名も知らぬピアノの音が、降り始めの雨のように次第に数を増す。今度は耳から抜けない。音は木村の脳にとどまる。嵐のような打鍵が、さも彫刻家の鑿のように木村の精神を穿つ。ああ、これもきっと前兆だ。ピアノの音に、従うべきなのだ。




