ターコイズブルー
新聞に載ることはなかったが、この一件はすぐに町中に知れ渡った。
まず、人々の口をついて出るのは、「久坂さんとこの奥さんが事故で怪我を負ったらしい」ということだった。次に「腕をやったらしい」「どうやら切断したらしい」「船外機に巻き込まれたらしい」「一命はとりとめたらしい」などと「らしい」が次々と派生した。何はともあれ、気の毒な話だ。発砲音かと思われた音は、故障した船外機のバックファイアの音だったらしい。いやはや、お気の毒に。
子どもたちが知ったのは更に翌日のことだった。しかし、事実とは異なる曖昧な情報だ。流血沙汰は子どもたちには無縁なのだ。大人たちは暗黙の了解で情報を操作した。ほぼ無意識と言ってもよい、いわばシンクロニシティな状態であった。誰もが言葉を濁したのだ。
だが、子どもたちのネットワークは侮れない。その周到さは野良猫のそれと同じである。子ども100人に対して、必ず一人の情報屋と呼ばれる者が存在する。ジンケたちのコミュニティではガイがその役目を担っていた。誰が頼んだわけでもなし、ガイが自ら働きアリの如くその職務に従事していた。ガイはなかなか優秀な記者だった。その情報に決して感情を持ち込まず、事実を事実のままになるべく広く伝える。元々多趣味な少年であったが、近年、猫の育成よりも、虫の解剖よりも、ジャーナリズムこそが進むべき道なのかもしれないと考え始めていた。
ジンケの家にガイが訪ねて来たのが事件の翌日であった。朝一番の来訪だった。ジンケは毎夜の幽霊散歩のせいで起床が遅かった。だからガイの一声で目覚めた。
「ジンケー、いるかー?」
まだ朝の8時だった。すでに父は出社。来訪者は家人の返事を聞くまでもなく玄関をまたいだ。けたたましい足音と共に引き戸が行き来する。ジンケ少年は慌ててベッドから跳ね起きた。
「おはよう」
寝間着姿のままジンケが降りる。ガイはすでに居間であぐらをかく。
「ずいぶん早いね」はしごを下りながらジンケは言う。「まだ、もうちょっと寝たいんだけど、どうしたの? また猫生まれた?」
「ジンケや」ガイは言う。「大変だど。とにかくこっち来て俺の話さ聞け」
食卓には父が残して行った食卓がある。ジンケは戸棚から湯呑みを二つ出してガイの前に座る。急須に入ったままの冷めた茶を注ぐ。「どうぞ」と出すとガイは一気にあおる。腹が減っている。ガイには悪いが、まずは朝食を食べたい。
「朝ごはん食べる?」ジンケは聞く。
「昨日な、鉄砲の音聞こえたべ?」ガイは無視して話し出す。「聞こえたよな? あれ、運動会の練習なんかじゃねえぞ」
「うん、聞こえたよ」ジンケは焼いた魚肉ソーセージを一つつまむ。「役場の防災訓練でしょ。うちのお父さんが言ってた」
「違う。全然違う」ガイは言った。
父が言ったことは嘘である。それはジンケも知っていた。父は善意の嘘をついたのだ。愛情のある嘘だ。それはそれで、ありがたい話だ。だがジンケは知っていた。事件のあった時刻、お決まりの瞑想に耽っていたのだ。少年の精神は町のあらゆる事物とつながっていた。何が起こったのかについては、物理的ではないにしろ、抽象的には理解していた。だが、直接ガイの口から聞くまでは白昼の悪夢だと思うようにしていた。第一、少年は本調子ではなかった。限りなく万能に近いと思っていた独自の瞑想状態が、抽象的な理解にまでしか至れなかったのだ。それほど、恐ろしい気配が押し寄せた。ちょうど、銃声が起こった時それはピークで、少年の瞑想は強制的に終了させられた。排除されたと言ってもいい。考えたくもないが、魔の襲来であった。幼児の時に見た、あの悪夢。真っ黒な嵐。その奥に潜む純粋な悪……。だから、今の今まで考えないようにしていた。それでも頭をよぎるのは、内湾、船着き場……色はターコイズブルー……悲鳴、悲鳴、悲鳴……。
「久坂ってアサリ漁師な、俺のうちの遠い親戚なんだけど、そこのおばさんの腕もげたんだど。海で、久坂のおじさんの目の前でな。ああ、そこにお巡りもいたど」
「腕?」ジンケは聞く。「もげた?」
「ああ。ここからばっつり」ガイは自分の上腕を指す。「ばっつりな。切断だ。切断」
ジンケの頭の中がぐるぐる回った。記憶ではない。あの時張り巡らせた思考の糸が再生した。色、匂い、音。まるでおぞましいシュールレアリスムの絵画が脳内で形成されつつあった。これは、断じて記憶ではない。
「でよう、見つかってないんだど、腕」ガイが言った。「もげてもすぐにつなげればくっつくんだど。でもどこにもねえんだど」
「どうして見つからないの?」
「そこなんだけどよ、さすがの俺にも意味不明なんだわ」
ダイゴは素手で油まみれの魚肉ソーセージをつまむ。三切れ口に頬張り、ろくに噛まずに飲み込む。その手で湯呑みをつかむが、すでに中は空なので、ジンケは慌てて注いでやる。急須の口からどろりとした粉っぽい緑茶が滴る。
「水色の子どもだって言ってたど」ダイゴは言った。「久坂のおっちゃんが言うにはな、水色の子どもがやったって言うんだ。取り憑かれたようにそればかり言うんだど。それじゃあ何にもならねえから俺もしつこく聞いたど。したら、びくびくしながら言うんだ。俺、あんなびくびくしたおっちゃん初めて見たど。正直、俺の親戚の中でも一番おっかない人だからな」
ガイは続ける。
「子どもはいきなり現れたんだど。おっちゃんとおばさんが漁から帰って来て船引き上げてたら、弁天島の方にいたって言うんだ。島の上にいたのかな。よくわからないけど子どもが行っていい場所じゃなかった。だから『おーい! 何やってるー!』っておっちゃんが怒鳴った。だけどなんにも反応がなかった。いよいよこれは大事かもしれないと思って、もう一度船を出そうと決めた。そしたら気づいたーー」
ガイは息を飲んだ。
「その子ども、透明だったんだど」
透明。無垢。ターコイズブルー。
「しかもデカかったんだ。と言うより、見るたびに大きさが変わった。弁天島の鳥居に対して、どう見てもでかすぎる時もあれば、カモメみたいに小さい時もあった。服は着てなかった。だけど裸って感じでもなかった。おかしな話だけど透明っていうのが、何もない状態でなくて、それはそれで確固たる存在感があったって言うんだ」
ジンケは引き込まれた。ガイの説明で、あの時思考の糸が絡め取った印象が物理的な像を結びつつあった。それに付随して、ガイの言葉尻が変わったというのも大きな理由の一つだった。ガイは漁師の血筋だ。その影響でキツイ浜言葉が体に染みついている。だが、ニュースを伝える時にだけ訛りが取れるのだ。そんなガイにジンケは妙な愛着を感じていた。
「怖くなってお巡りを呼びに行った。おばさんに『目を離すな』って言い残してな。それで、お巡りを連れて戻って来たら、子どもはいなくなってた。おばさんは見失わないようにずっと指をさしてたんだ。でもおばさんは見失った。灯台下暗しだ。指の先からは消えたけど、その死角に移動しただけだった。ぎょっとするくらい近づいていた。ほとんど波打ち際までな。おばさんのすぐ目の前。その時初めておっちゃんは、透明だと思っていた子どもが、水色だってわかった。海の色だ。そこからは一瞬だった。ほとんど覚えていないって言ってた。とにかく、子どもの頭が割れて、おばさんの腕を切り落とした。そして消えたんだ。俺が思うに、きっとさ、クリオネみたいなやつだと思う。ジンケ知ってるべ? クリオネ?」
「うん……」ジンケはうなずいた。
クリオネ。氷の妖精。その可憐な姿からは想像もできない捕食方法。人類が想像しうる最も残忍なハンティング。もしクリオネが等身大ならば、人はそれをエイリアンと呼ぶだろう。
「じゃ、行くわ」ガイが立つ。
「その話どうするの?」ジンケが聞く。「もっと広めるの?」
「ああ。午前中で十件は回りたいな。今日は忙しくなるど」ガイはノルマを達成した押し売りの如く無作法に玄関に向かい、靴を突っかけたまま去り際に言う。「用心しろよ」
ジンケはようやく食べ始める。魚肉ソーセージは二切れ残っているが食べる気がしない。白菜のぬか漬けがある。箸で一枚つまみ、葉っぱを広げて冷や飯を包む。口に入れる。噛みながら、つい腕が切り取られた場面を想像してしまう。右腕がぞわっとする。そう言えばどっちの腕かは聞いていなかった。だけど右腕なんだ。持って行かれたのは右腕。くすぐったい。上腕の骨と筋肉のつなぎ目がぞわっとする。
少年は白菜を噛む。あまり唾液は出ない。仕方なく茶で流す。




