事件
事件が起こったのは冬休みが始まって三日目の午後だった。
地元警察の記録によると時刻15時34分、ゴム長姿の男が同管轄の本所署に駆け込んだ。本所署は内湾と外湾を隔てる、町のシンボルでもある真っ赤な大橋の袂に番犬のように軒を構える。駆け込んだ男は漁師であった。主にアサリ漁を営む久坂勇三(63)である。
「子どもが! 子どもが!」
勇三はそう叫ぶなり、駐在所勤務中の桜木宏明(27)巡査の腕を鷲掴みにし、50メートルほど先の船着き場まで引っ張って行った。もの凄い力だった。まるで山から下りてきた怪物のようだった。だが、勇三の全身はびしょびしょに濡れていた。顔からは湯気が上がっていた。その形相はまさに鬼のようだった。桜木巡査は腰の拳銃に手をかけた。射撃訓練以外では初めてのことだった。勇三は気が触れていると思ったのだ。身の危険を感じた。すでに腕が痛い。勇三の指が食い込み、骨まで達している。漁師とはこんなにも力が強いのか? しかし、それを振り切ることはしなかった。勇三の下半身からズッポズッポと音がする。ゴム長の底に溜まった水が立てる音だ。それを聞いているうちに、これは何か悲惨な事件が待ち受けているのではないか、という予感が波のように押し寄せた。第一、「子どもが!」という勇三の叫び声が耳から離れない。一体何が起きた? 地元の小中学校は、つい三日前から冬休みなのだ。
船着き場には女がいた。勇三の妻である康世(61)が同じくゴム長姿で立っていた。最初、霊かと思った。まるで現実感がなく、景色と一緒に棒立ちだった。「康世! だいじょうぶか!」と勇三が叫んだ。だが、妻は背を向けたまま何も反応しなかった。桜木巡査は周囲を仔細に見回した。感情はどこか遠くへ消え、そこには警官としての技能のみが残った。だから、「子ども」を探した。二人に聞き込むよりも、まずは警官の目を信用した。
子どもはいた。棒立ちの康世を中心に、桜木巡査と勇三の同心円に子どもはいたのだ。だが、その位置が理解不能だった。康世はほとんど波打ち際にいた。船着き場のへりだ。ゴム長の先を蛇の舌のような波が行きつ戻りつつ何度も舐めている。だから理解不能だった。子どもはいたのだ。海の上にいたのだ。
桜木巡査はとっさに動いた。まるで徒競走だった。からっぽの銃声が頭の中で響いた。だが、二、三歩ダッシュしたところで足は止まった。頭の中の審判が「フライング」を告げたかのようであった。パニック。海の上に子どもがいる。子どもが海で溺れている。身を挺してでも助けるべきだ。凍える海に飛び込んででも、大人は子どもを助けなくてはいけない。理性ではそうなのだ。だが、本能が危険信号をかき鳴らした。それも特大のやつだった。ビービー鳴る警告音で桜木巡査の肉体は内から焼き切られる思いだった。子どもはいたのだ。海の上に立っていたのだ。
「あそこ……」ようやく康世が口を開いた。同時に肩を上げて指をさした。震える指先で、はっきりと海面に佇む子どもを指した。
そんなことはわかっている。桜木巡査は思った。それよりも聞きたいことは山ほどあった。あれは何だ!? どうして、子どもが、立っている? どうして、寄せては帰る波の上に、微動だにせず立てている? それに、あれがどうして子どもだと言える? 嘘だ。嘘にちがいない。悪いものでも食べたのだ。これが幻覚作用というやつだ。町は集団食中毒の被害下にあるに違いない。それもとびきりひどいやつ。どうして……どうして子どもは透明なんだ? どうして子どもは透けているんだ? どうして子どもは海の色なんだ? 第一、あんなものは子どもなんかではない。だけど、この脳が、哀れな実験犬のように認識するのだ。あれは子どもだ。子どもが海の上に立っているのだ!
さらに、近づいて来ている。まるで動いている気配などないのに、視界の中でみるみる大きく、子どもが占める割合が増す。まばたきなどしていない。できるはずもない。こんなことは初めてだが、目がまったく乾かない。その気になれば、人はまばたきなど不要なのだ。
誰も何も言わない。康世は惚けたように右腕を上げたまま。どこか恍惚として、ある種のトランス状態のようでもある。勇三は成す術もない。何を成すべきかも見当がつかない。初めて日蝕を目にした古代人のように慄然とする。桜木巡査はまだほんの少し冷静だった。というのも、心のどこかでこんな状況を期待しないでもなかったのだ。桜木宏明は映画が好きだった。桜木宏明はSFが好きだった。桜木宏明はホラーが好きだった。厳格な公務をこなす毎日の中で、それらの創作物を鑑賞するのが桜木巡査の唯一の愉しみであった。警官になったのも、平凡な日常とは違う世界を覗き見できると期待したからだ。だが、期待通りなものなど何一つなかった。もちろん、非日常を体験することはできた。だが、あまりにも常識的だった。行動のすべては組織にコントロールされていた。それが、今、完全に崩れた。目の前で起きていることは、およそ映画の中の出来事だった。映画なら、警官はあくまで警官。一般市民を守り、正しい行動を選択するのだ。あれは危険なのか? あの子ども。いや、そもそも子どもか? 透明だぞ、あれは海だ、海水の塊だ。だけど、なぜか、俺の脳はあれを子どもだと認識する。それ以外の何者でもない。言葉にするならば……ああ、そうだ……。
「水色の子ども」声が重なった。
桜木と勇三はお互いを見やった。二人同時に声に出したのだ。水色の子ども……水色の子ども……。
「おい!」勇三が叫んだ。視線は桜木を突き抜けて元の位置へ。慌てて桜木は視線を戻す。
子どもがほとんど陸にいた。もう細部まで観察できる距離。水だ。ぜんぶ水でできている。子どもは康世を見ていた。その顔に目鼻などないが、不思議とそれがわかる。康世はまだ右腕を上げていた。もう対象物は近すぎて、指先は弁天島を指したままだが、その惚けたような母性で子どもを見つめていた。康世がそっと前に出た。一度でも母になった者ならば、あまりにも自然な行動だった。
子どもも応えた。形の定まらない体で。崩れそうな両手をいっぱいに伸ばして。種を超えた母性に必死でしがみつこうとした。
桜木も勇三も、この未知との遭遇に釘付けだった。胸に熱いものさえ込み上げた。もう少しで、ようやくまばたきができそうだった。溢れる涙の奔流が予感されたのだ。
だが、子どもは違った。子どもは無垢だった。ゆえに邪悪だった。康世の本能的な母性に感化されたわけではない。ただ、欲しかったのだ。康世が差し出す肉体の一部、その所有権を獲得したかった。
腕が飛んだ。弁天島の鳥居を指していたあの腕だ。子どもの顔がない。覚えているのは、一瞬ほんの少しだけ笑ったように見えたことだ。その直後、表情は崩れた。いや、表情どころか頭全体がぺしゃんこになり宙を走った。まるで柄杓で投げた水が一瞬にして凍りついたかのようだった。そして、康世の腕が飛んだのだ。
ひしゃげた子どもの頭は鋭利な刃物だった。康世の腕を断ち切ったかと思うと、すぐさま絡め取った。そして、昇り竜の如く宙を駆けると、まるでけん玉の玉のように元の位置に戻った。康世の腕は彼の腹の中に収まった。そのせいで、子どもの胴は縦に伸びた。上等なゼリーのように中の具材がよく見えた。腕の切断面は上で、手は下だった。子どもの頬は紅潮していた。切断面から染み出した血が、子どもの頬を赤く染めていたのだ。
桜木巡査は発砲した。隣で勇三が叫んだ。それでようやく康世も我に返り、その場に崩れ落ちた。尻餅をつき、腕の断面から血が吹いた。水芸のようにぴゅっと出た。
あっという間に弾切れになった。射撃精度などくそ喰らえだった。ろくに構えもせずに乱射したのだ。6発中5発は海の中に消えた。ジュッと水を焦がす音がした。ただ、1発だけ命中した、ような気がした。子どもの肩のあたりをかすめたが、やはり後ろの海に消えた。弾が切れた後も引き金を引き続けた。空打ちすると撃鉄が劣化するな、とぼんやり考えていた。だが止まらなかった。その代わり、腹の奥から声が出た。隣の勇三に負けず劣らぬ怒号が暴走機関車のように桜木の体を通り抜けた。
息継ぎをした時だった。子どもがいなくなった。この時、桜木は初めてまばたきをした。何度も何度もしばたいた。だが、本当に、子供は消えていた。まるで手品だ。ああ、夢だったのか。そう思い始めた瞬間、勇三が妻の元へ駆けた。
「救急車!」勇三は叫んだ。
もう拳銃は下ろしていたが、桜木は引き金を引き続けた。ガチッと鈍い音がして指が痛かった。あれは何だったのだろう。もし、あれが現実だったとしたら、現代映画のCGはかなり真に迫っている。そうだ、今夜は映画を見よう。とびっきりぶっ飛んだやつ。ビールとジャンクフードを買い込んで。そうだ、今夜は映画を見よう。
15時51分。銃声は町中に響き渡った。計6発。ほとんどの住民がこの音を耳にした。皆、運動会の合図かと思った。それでなければリハーサルなのだろうと思った。季節も時間も出鱈目だが、何にせよ、そう思った。




