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証明

 ヨリコは待っていた。家の前にバス停があるのだ。家族が寝静まった頃、厚着をしてこっそり抜け出した。計6個のカイロをおおよそ目星をつけた経絡に貼ったので寒くはなかった。息は真っ白なのに若干汗ばんでいた。うとうとしかける度に「寝ちゃダメ」と心の中で言った。だが、カイロさえあれば、雪山でも凍死しないはずだと思った。登山家はカイロを持たないのだろうか。これは重大な発見なのではなかろうか。思考を何度も巡らせながら、実際ヨリコは眠っては起きた。だが、本人はそれに気づいていなかった。時間潰しに少女漫画の月刊誌も持参していたが、手袋をつけた状態では読みにくいので放置していた。少女は外気と体熱のギャップ。そして意識と無意識の狭間で遊んでいた。これは、世が世ならば、非常に高度な霊的自慰行為であった。

 時々、歌を歌った。まーるさんかくしかーくー。なんとなく耳に残っていた歌だった。まーるさんかくしかーくー。それ以外の歌詞は覚えていない。歌っているうちに、夜空の星々が変化した。まーるさんかくしかーくー。星屑がメロディに合わせて「まる」や「さんかく」や「しかく」になった。まーるさんかくしかーくー。歌えば歌うほど星屑のダンスはバリエーションを増やし、今では荘厳なスペースオペラと化していた。

 目の前に少年がいた。まるとさんかくの間の出来事だった。浮いていた、透明な見知った顔。ジンケだった。

「遅かったじゃない」ヨリコは言った。

「僕が見えるんだね」ジンケが答えた。

 それは声ではなかった。だがヨリコには聞こえた。ちゃんと耳で聞いていた。耳には音以外のものを聞き分けられる能力があるということを、少女は本能的に知っていた。

「嘘はついたことないって言ったでしょ」ヨリコは言った。

「そうか……」少年は言って、思慮深げに歩いた。円を描くように。同じところを行ったり来たり。まるで妻の出産を待ちわびる夫のようだったが、少年の場合、床がなかった。

「うらやましい」ヨリコは言った。

「君もできるんじゃないの?」ジンケは言った。

「君」と言われたことにムッとしたが、少女は言い返さないことにした。この目の前の霊には、何か屈服させるような威厳めいたものがあったのだ。それも含めて悔しかった。すでにうらやましいは通り越していた。

「前はできなくもなかった。でももうやめた」

「なぜに?」

「質問攻め?」ヨリコは言った。「聞きたいのはこっちの方よ。得体の知れないのはジンケの方なんだから」

 なるほどその通りだ。そうジンケは思った。この少女、なかなか理性的である。少々見くびっていたのは認めよう。だが、自分が異質であるとは思えない。むしろ、何もかもが自然。肉体を持たないことの方が、この世界では多数派だ。だって、こんなにも満ちている。目に見えない物質が。

「じゃあこうしよう。一問一答。かわりばんこでフェアにね」ジンケが言った。

「二答よ」ヨリコが答えた。「あたしの場合二問二問。だってフェアじゃないもの。こっちは寒いし、寝てないのよ。倍答えてもらうから」

「いいだろう」ジンケは了承した。

「気分は?」ヨリコは聞いた。

「良いよ。すこぶる良い」

「そうみたいね。座ったら」ヨリコはベンチの隣を指す。

 ジンケは宙に浮いたまま考える。座る、ということがよく覚えていないようだ。

「わかるわ」ヨリコが言う。「座る必要なんてないものね。でも忠告しておくけど、ちゃんとバランスをとらないと悪い結果になるわよ。人間と、霊の中間にいるの。人間であることを忘れないようにするの。さもないと、あんたはジンケじゃなくなっちゃう」

 ジンケは座る。尻の下に、ちゃんと木の感触がある。

「なんでそんなこと知ってる?」ジンケは聞く。

「まだ私の番よ」ヨリコは言う。「でもいいわ。答えてあげる。聞いたの。霊の友達はジンケだけじゃないんだからね」

 誰だ? と聞きたい気持ちをこらえる。フェアを掲げたのは自分の方なのだ。

「じゃあね……」ヨリコは次の質問を考える。「金縛りにはあう?」

「そりゃあね。でも、久しくあってない。なんて言うか、その段階は終わったんだと思う」

「対処できるってこと?」

「そう」ジンケは答える。「だと思うよ」

「思った通りね」ヨリコは言う。「私もそうだもの。金縛りなんて、初歩中の初歩よ。金縛りを克服して初めて次に行けるの。はい、次はジンケの番」

「じゃあ」ジンケは考える。「初めて金縛りにあったのはいつ?」

「確信に迫って来たわね」ヨリコは答える。「そんなの保育園の頃に決まってるわ。ね、ジンケ」

「まさか……」

「その、まさかよ。私もジンケと一緒。あの夢を見た時から始まった。あの夢、わかるでしょ。あたしたちの楽園が、悪の魔王に滅ぼされる。思い出しただけで鳥肌が立つわ」

「僕のことがわかった?」

「ええ。輪になって手をつないだわ。その中にジンケもいた」

「僕にはわからなかった。僕以外は人間じゃなかった。みんな、野菜や動物だった」

「じゃあ私はきっとニンジンね。ニンジンって大好きだもの」

「僕以外には誰かいた? 知ってる人」

「いたわよ。後になってわかった人もいる。だってまだ保育園児だったもの。現実世界で出会う前に夢で出会ってたのね。とにかく、その時わかったのはジンケの他には一人だけ。だけど誰かはまだ言えない」

「どうして?」ジンケは聞く。

「口止めされてるのよ」ヨリコは答える。「まだ秘密なの。いずれわかる時が来るわ。私から言うかもしれないし、その人本人から言割れるかもしれない」

「そうか」ジンケは答える。「いいよ。秘密は嫌いじゃない。秘密は歓迎するよ。お互い秘密は持っていた方が、良い関係を持てる」

「ふん、いっちょまえに」ヨリコは吐き捨てる。

「それで」ジンケは聞く。「ヨリコはどうして抜け出さないの? できるんだよね?」

「ちょっと、質問が多い」ヨリコは言う。「だけど、まあいいわ。数えるのがめんどくさくなっちゃった。幽体離脱したのは一度だけ。たった一度よ。あの人、秘密の人に手を貸してもらったの。だけど、ものすごく怖かった。寒いし、痛いし、霊なのにガタガタ震えるし、何しろ見えすぎるの。見たくないものまで全部わかる。なんせ、まぶたがないみたいなんだもの」

「なるほど」ジンケは言う。「僕は見えないんだ。こんなことしてるくせに、いわゆる幽霊ってやつを見たことがない。実は自分の姿だって見えていない。感じるだけだよ。ここに霊の体があるってね。だからだと思うんだけど、僕は心のどこかで信じていない。結局、これは僕の脳の中で再生されている仮想世界だって」

「どっちでもいいけど、見えない方が絶対いいわよ」ヨリコは言う。「だから、あたしは抜け出すのがダメなの。フィルターがなくなるのね。もっとやばいのが逆に見られること。あたしって目立つみたいなの。この世のものではない奴らから一斉に見られるのよ。じろりって。いやよ。あれってすごく気持ち悪いわ」

「それでも僕は……」ジンケが言う。「見てみたいと思ってる。これが僕の妄想なんかじゃないって証明したい。それができるのは今しかない。もう、あまり時間は残されていない。わかるんだ。大人になりかけているって。みんな、大人になろうとしている。競うように、大人になりたがっている。だけど、大人になるってことは、この見えない世界を否定することだと思うんだ。知っているのに知らないふりをする。ぜんぶ内にしまい込んで、社会と折り合いをつけるんだ。それが大人になるってことだ。僕は根っからそれを望まない。どうしてか、反発するんだ。異常なのかもしれない。病気なのかもしれない。だけど、そんな僕も、折り合いをつけつつある。これがぜんぶ悪い病気だと信じ込んで、治す努力も必要だと考え始めている。だって、そうじゃなきゃ、生きていけない……」

「わかるわ」ヨリコは言う。「あたしも一緒。あたし、保育園の頃に世界は二つに分かれているって知ったの。みんなに教えてあげなきゃって思った。だから、インチキ呼ばわりされようが構わず布教したの。あたしはまだ進むべき宗教を選んではいないけど、その時はイエス様のことを考えてがんばったわ。そういう面では聖書はためになるわね。とても前向きになれる。少数派であればあるほどね。それにあたしにはあの人もいた。秘密のあの人のことよ。あの人があたしにとって身近なイエス様で、唯一の友達で、家族なの」

 ヨリコの話には一つ引っかかる点があった。ヨリコは、世界は二つに分かれている、という言い方をした。だが、ジンケはそうは考えてはいない。世界は二つどころか三つにも四つにも、それこそ無数に、星の数だけ存在し、しかもそのどれもがどこかで一つにつながっているのだ。そのつなぎ目! それこそが霊。どちらでもない状態にアクセスできる離脱状態。何かが、そこに通じているのだ。ヨリコとはここまで理解し合えるだろうか。今夜、この持論まで持ち出すのは妙に気が引ける。何となく、これは秘密にしておいた方が良い気がする。

「あの人のこと聞いていい?」ジンケは話題を変えた。

「う〜ん」ヨリコは渋った。「答えられることだけね」

「生きているの?」ジンケは聞いた。「それとも本当の幽霊?」

「生きてるわ。死んだ霊とは遊べないの。だって、それって取り憑かれてるってことじゃない?」

「なるほど。確かにその通りだ」ジンケは感心する。「じゃあさ、どうして正体を隠すんだろう。何か目的があるのかな?」

 ヨリコは下唇を噛む。きっと、言ってはいけないことなんだ。

「いや、いいよ」ジンケは訂正する。「答えなくていい。だって秘密だもんね。秘密は秘密のままに。僕はそれを受け入れた」

「きっと、順序ってものがあるのよ」ヨリコが答えた。秘密を持つのは、それはそれで大変なのだ。「魔王よ。悪の魔王。まだあいつに知られてはいけないの。時期が来るまで、光の戦士が揃うまで秘密にしなければいけない、ってあの人が言ってるのよ」

「光の戦士!?」ジンケは霊でありながら、素っ頓狂な声を出した。

「あの人がそう言っているのよ!」ヨリコは言う。「あたしだって言ってて恥ずかしいわ。だけど、そうとしか言えないんだもの」

「光の戦士……」ジンケはつぶやく。「スグルもそうなのかな」

「そうだったらいいなって、あたしも思うわよ。でも、私がわかっているのは今のところジンケだけ。それとあたし。それとあの人。そこまでしか知らない」

「そうか」ジンケは口をつぐむ。

 つかみどころがない話だ。僕が狂っているのだとしたらヨリコも相当に狂っている。いや、他人を巻き添えにしてはいけない。僕が狂っているのなら、僕だけが唯一狂っているのだ。隣にいるヨリコも、透明に透けて宙に舞う僕も、脳内幻覚これ全て妄想なり。

「ねえ、ジンケ」ヨリコは言う。「どうしてあたしが今こんな話すると思う?」

「わからないよ」ジンケは答える。「何もかもがわからない。まったく予測がつかないよ」

「この冬休み中に事件が起こるから」ヨリコは言う。「あの人はそれを恐れているの。そしてひどく焦っている」

 ジンケは聞く。

「あの人は言った。ジンケに知らせなさい。何をするにも、まずはジンケと手を結ぶのです。さすれば道は開けるでしょう。さもなくば道は永遠に閉ざされるでしょう。世界は闇に支配されることになるのでしょう。ってね」

「まるでゲームだ」とジンケ。

「そうなの? あたしゲームしないからわかんないけど、ジンケがそう思うならゲームなんでしょ。そう。これはゲームよ。始まりのゲームよ」

 ヨリコの物言いに、ジンケはフッと笑った。霊なのに笑った。霊なのに笑えた。これは初めてのことだった。

「じゃあそろそろ行くよ」ジンケは言った。「もう遅いから、寝た方がいいよ」

「うん、そうする」

 ヨリコが右手を出した。握手……。女子と握手をするなんて、今までにあっただろうか。それもヨリコ。つい半日前まで、ヒカルちゃんに対する仕打ちで、どちらかといえば嫌いだったヨリコ。だが、今はその右手に友情という文字が黄金のように光っている。ヒカルちゃんの件はいずれはっきりさせねばいけないが、今は受け入れよう。この光り輝く友の手を。

 ジンケは右手を差し出した。何も見えない僕の手。しっかりと血の通ったヨリコの手。二人は互いの手を握った。

「不思議だ……」ジンケは言った。「ちゃんと握れる。ちゃんと掴める。ちゃんと温かく感じる。この体で人に触れたのは初めて」

「あたしも、あの人以外は初めてよ」

「どんな感じ?」

「普通」ヨリコは答える。「普通の人って感じ」

 二人は互いに微笑む。

「じゃあね。寒いから戻りな」ジンケは言う。

「そうする。バイバイ」ヨリコも言う。

「また明日ね」

 ジンケは言って、ポーンと跳ねる。それをヨリコは見上げる。

 つぶてのように舞い上がる少年を見ながら、ヨリコは少しうらやましく感じる。楽しそう。気持ちが良さそう。だけど、あたしには無理な話。だってあたしは見えすぎる。体質が合わない。これには個人差がある。だからしょうがない。どうしようもないことだって世の中にはある。


 帰り道、ジンケはお団子山までひとっ飛びした。そして秘密基地の屋根の上に着地し、暗い内湾を眺めた。ひょっとしたらスグルが弁天島にいるかもしれない。そう期待したが、黒い湖にぽつんと佇む鳥居の下には誰もいなかった。まあ、当然か。だけど行ってみようか。何しろ今夜は気分が良いのだ。ある意味、僕は狂っていないと証明できたのだから。でも、やめよう。弁天島はスグルとのとっておきのイベントだ。それに、一人で行くにはあまりにも不気味な場所。僕はスグルを待とう。大人になるまで気長に待とうーー。


 ジンケよりも高い空に、控えめに輝く星があった。しかしそれは他の星よりもだいぶ低い位置にあった。誰も知る由のないことだが、それは星ではなかった。では一体何なのか。きっと、人々はUFOと呼ぶのだろう。正体不明、謎の未確認飛行物体。

 少女ヨリコだけが、それの正体を知っていた。かねてから、あの人と呼ぶ、それである。あの人はヨリコが外に出てからずっと見ていた。高すぎず低くもない夜空からずっと見守っていた。ジンケが来てからも二人の会話を聞いていた。そして、ジンケが人知を越えた力でお団子山までひとっ飛びするのも、我が子を見守る親のような気持ちで見ていた。よくぞここまで成長してくれた。期待通り、いや、それ以上かもしれない。

 あの人はジンケを見た。ジンケを含めて内湾の鳥居も見下ろした。そして少し不安になった。ジンケが再びポーンと飛んで、家路に着くのを見送ってからも、しばらく鳥居を眺めた。そして、やはり不安な気持ちになった。果たして、うまく行くのだろうか。何もかもが万事整うのだろうか。もうすぐだ……もうすぐ奴が来る。あの人はそう感じる。何にも増して確信している。そのために私がいるのだから。奴が来るのだ。水の底から……やって来る……。

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