スパイス
帰ると父がいた。珍しく早い。そして胃をくすぐるスパイスの匂い。
「カレーうどん作ったぞ」父が言った。
父の唯一の得意料理がカレーうどんだ。カレーライスも普通のうどんも作らないのに、なぜかカレーうどんだけは得意だと豪語する父。食べると実際においしいカレーうどん。何の予告もなく、父の帰宅が早い時にだけお目見得するカレーうどん。ジンケには作り方のわからないカレーうどん。きっと、レトルトなのだろう。だが、何か秘密のアレンジがあるに違いない。だって、こんなに良い香りがするのだもの。こんなに胃が締めつけられるのだもの。今夜はラッキーだ。夕飯の支度が浮いた。それに、父のカレーうどんは好物の一つだ。
ジンケと達郎は食べた。正しいカレーうどんの食べ方は音を立てないことだ。蕎麦とは違う。決して啜るのではなく、吸引力を利用して持ち上げる。その際、ルー状のつゆが弾け飛ばないように、慎重に、時間をかけてリフトする。口の形は「も」だ。鼻で呼吸をしながら、「ずももも」とうどんの束を吸引する。ゆえに、食事中は無言。スパイスの匂いだけが充満。かなり幸福度は高い。
熱いため息と共に、父子は第一ラウンドを終える。
「麺?」達郎が聞く。「オア、ライス?」
「ライス、プリーズ」ジンケが答える。
おかわりはごはんと決めている。替えのうどんなど用意していないのだ。だが、父子はこのやりとりが気に入っていた。
残ったルー状のつゆに冷や飯をぶち込み、さらにらっきょうと福神漬けを散らして食べる。どちらかと言えばこっちがメインなのかもしれない。二人はようやく口々に「おいしい」を連発し、今度はしっかり音を立てて雑炊を啜る。
「よし、じゃあお父さん仕事」食べ終えて父は言う。
「僕も宿題」ジンケも食事を終える。
二人は烈火の如く後片付けをし、それぞれの部屋へ引っ込む。
手形はそのままだった。消えていたら夢だと思えた。だが、どちらかと言えば嬉しかった。少年にとって超自然現象の有無は自己存在の理由でもあったからだ。テレビ画面に手を近づけると、ふんわりとした静電気に押し返された。それは幼い動物の産毛のようで、決して邪悪なものではないと感じさせた。少年は机についた。手形はそのままに、大量の宿題にとりかかった。明後日から始まる冬休みの課題である。
小一時間ほど経ったのだろう。その時はそう思った。だが、階下からの「もう寝るよ、おやすみ」という父の掛け声で、もっと時間は過ぎているのだと想像がついた。時計を見ると0時だった。集中しすぎた。就寝前のティータイムをすっ飛ばしてしまった。こうして、子は親への従順さを失うのだろうか。自分勝手でわがままになるのなら、それは正常なのだろう。怒りの矛先が親に向くのならば、まだ健やかと言えるのだろう。だが自分は違う。怖い。双子のように通じ合っていた父が離れていく。いや、離れるのは僕の方だ。僕がどんどん乖離する。世のつながりの全てが希薄に感じる。何より怖いのは、父を可哀想だと思い始めている。なぜ? 僕がこの世からいなくなれば、孤独なのは父だからだ。僕は半分死んでいる。こんなのって、ひどい話だろう?
徹夜するつもりだった。どうせ明日は午前中で終わる。それに、やけに目が冴える。その理由はわかっていた。ヨリコだった。心のどこかでヨリコのことを考えていた。彼女の言うことが本当ならば、今夜、幽体離脱が証明されるのだ。親友のスグルを差し置いて、あんないけ好かない女子と。そんなこと、僕は許していいのだろうか。だから、こんな時間まで起きていた。宿題にかこつけて、朝まで眠らないつもりだったのだ。ベッドに入ると始まってしまう。理性では望まなくても、霊がそう望むからだ。霊の僕は、どちらでもない僕。霊は霊性に惹かれる。ヨリコの元に行くに決まっている。
少年は真っ暗な階下に降りた。父の寝息を壊さないように、台所で湯を沸かした。熱いコーヒーを入れ、階上に戻ると、宿題の続きに取り組んだ。朝までに数学を片付けるつもりでいた。なぜなら、数学は嫌いだからだ。食べ物でも、嫌いなものは最初に食べる。好きなものは取っておきたい。そのまま、永遠に、時を止めてしまいたい。




