レクチャー2
話し声がする。その者は少年二人の存在を知っている。町の中央に鎮座まします小山。その中腹に人知れず佇む秘密の小屋。中には仲睦まじく語らう少年が二人。その者は彼らをよく知っている。そして、寒風吹き荒む外から聞き耳を立てる。寒い、惨め、羨ましい。いいなぁ、あたしだってそっち側に……。
「じゃあ、次のステップに移ろう」ジンケが言った。「実践編ってやつだね」
「よしきた」スグルが言う。「まるで雲をつかむような話だけど、とにかくやってみよう。まるで雲をつかむような話だけどな」
「だいじょうぶ。きっと僕よりスジが良いよ。僕ってさ、元々こういうの苦手なんだ。運動がてんでダメでしょ。これって、精神と肉体のバランスが重要で、運動音痴の僕はずいぶん苦労した。きっとスグルは向いてるよ。いろいろ、バランスが良い人間だもの」
「そうか」スグルは答える。「なんだか照れるな。バランスか。それならなんとなく入りやすい気もするな。よし、聞こうじゃないか」
二人は缶コーヒーをぐいと傾ける。が、中身は既に空でズズッと音がする。
「まず布団の中でうつ伏せになる」ジンケは言う。「最初は横向きでも良い。だけどなるべく背中は丸めてね。目は半開きで、掛け布団は肩までかけないで、ただ音に集中するんだ。外の音、家の中の音。自分の音、自分の中の音。時計の音、冷蔵庫の音、心臓の鼓動の音。リラックスして、眠りそうなら眠っても構わない。眠れないなら朝までこのまま音を聞いていればいい。そんな気持ちでゆらゆらする。そうしたら、ふとした時にぐらっと揺れるんだ。そんな感覚に陥る。自分が、体の中からぐらっと滑り落ちるような感覚。どきっとして、すっきりするのと怖いのが混ざったような気分。これを覚えておいて、また来るのを待つんだ。これが、いわゆる、どちらでもない状態への入り口なんだよ。戸惑うよ、最初は。禁断の感覚だもの。だけど、無理に追おうとはしないで。追えば追うほど遠くなるから。気にしないで、また同じようにやればいいんだ。何も期待しないで、ただ、音を聞く。そしてゆらゆらする。そして何度かぐらっとする状態が訪れたら、そこを見極める。少し維持してみようとする。だんだんと維持する時間が伸びて来たら、首の後ろを意識するんだ。ぐらっとなる感覚を首の後ろに持って行く。まずはここまで」
「仮にだよ」スグルが言う。「絶対ないと思うけど、今夜そこまで進んでしまったとしたら、その後どうしたらいい?」
「なるようになれ、だよ」
「戻れなくなったらどうする?」
「それは大衆の理論。出られた者ならば、同様に戻れるんだ。いわば離脱のことわりだね」
「わかった。とりあえず今晩チャレンジしてみるわ。だけど弟がいるんだよな」
「むしろ都合がいいよ。弟たちの音を聞けばいいんだから。最初は生きてる音の方が入りやすいんだ」
「そういうものなのか」
「うん。言葉で言うのは難しいけどね」
ジンケは立ち上がり、天井の物見櫓を開ける。
「落ち合う場所を決めておこう」ジンケは言う。
二人は大机の上に立ち、屋根から顔を出す。
「最終目標はあそこだ」
精悍な顔だな、とスグルは思う。同級生の中では背も低く、顔も幼い。声もまだ子どものままで、女子とさほど変わらない。だけど、なぜか、精悍な顔だなと思う。
ジンケの視線の先は海だ。内湾。その中央。ぽつんと浮いた小島。おもちゃみたいな社。赤い鳥居。海に浮かんだ神社。その名も弁天島。
「決まりだな」スグルが言う。
海神を祀る弁天島はもちろん立入禁止だ。そもそも立ち入る術はないのだが、海を見下ろしたことのある子どもたちならば、誰しもが「行ってみたい」と強く願う。干潮時に顔を出す周囲の浅瀬が、更にその欲望を助長するが、到底伝って行けるわけもなく、憧れだけが無為にふくらむ。
兼ねてからジンケとスグルは、あの小さな社に腰かけて、膝から下を海でちゃぷちゃぷしたいね、と話していた。
にゃー。突然の猫。こんな山に猫? 野良猫なら町にいる。だけど山に猫とは初耳だ。
「えっ」スグルが言う。「猫か? どこに?」櫓の上から周囲を探す。
にゃー。鳴き声はする。妙だ。声は小さいけど近い。なんだろう。中か? 声は中からしているのか? ジンケは小屋の中に注意を払う。
「あれえ」スグルが降りる。「まさか、どっかから紛れ込んだか」と言って、辺りを物色する。
ジンケは考える。猫……子猫……ガイか?
「おまえ!」スグルが怒鳴る。「なんで、おまえ! どうやって入った!」スグルは大机の下に向かって中腰で言う。怒っているけど、狼狽している。「で、出てこいよ!」
びくっとしてジンケは降りる。この下にいたのか、猫。しかし、猫ごときにスグル、すごい剣幕だな。
おかっぱの女子だった。大机の下から出てきたのは猫などではなく、比較的近い時間に言い合いのような状態になった、隣のクラスのヨリコだった。
「つけてきたのか?」スグルが聞いた。
「ねえ、なんでいつも二人なの?」ヨリコが言う。質問には答えない。
「どうやって入ったんだ!」スグルが聞く。
「普通に入ったわよ。あんたたちがホモってる間にね」コリコは答えた。「ねえ、あたしも仲間に入れてくんない」
スグルは言葉を失った。情報が錯綜し、頭を占めるのは「ホモ」と「仲間」という言葉だった。なぜだかわからないが、完全に負けたような気がした。
「仲間とは、いったい何をもってして言うのか」ジンケが言った。「考えようによっては、僕らは既に仲間じゃないか。同じ学校の仲間で、同じ町の仲間。同じ年に生まれた仲間で、同じ星に生きる仲間。君はこれ以上いったい何を望むと言うのか」
「君って言うのやめて」ヨリコは言う。「そういう言い方嫌い。あたしはあんたたちと秘密を持ちたいの。ホモみたいに親密になりたいの」
「ホモに失礼じゃないか!」スグルが怒鳴る。「それに、俺たちはホモじゃないし、秘密なんて何一つないんだからな!」
「言葉のあやでしょ。あたしはただ、あんたたちと友達になりたいだけ」
「悪いけど」ジンケが言う。「これは僕とスグルだけの秘密なんだ」
「ほら、やっぱり」ヨリコが言う。「だけどね、もう秘密じゃないんだからね。聞いちゃったし。まあ、ずっと前から知ってたわけだし」
「想像さ」ジンケが言う。「想像上の話。空想だよ。子どもっぽい。ただそれだけのこと。何もそんなに食いつく話でもないさ」
「違う。知ってるの、あたし……」ヨリコの口調が変わる。声は小さくなり、全体の印象も弱々しい。痩せこけたキツネのようだ。だが、その伏し目がちな表情にはある種の覚悟と切実な訴えが垣間見える。
「なんだよ」スグルが横入れする。「またでっち上げかよ」
「違うもん。あたし見たもん。ジンケ、幽体離脱してるでしょ」
血の気が引く。
「してないよ。そんなことできるわけないじゃん」とジンケ。
「夜な夜な出歩いてる」ヨリコ。
「僕、夢遊病なんだ」
「浮いてた。それにほとんど透けてた」
「君こそ寝ぼけてたんじゃないのか? 僕は浮かないし、それに透けない」
「君って言うのやめて」ヨリコは言う。「もういいでしょ。あたし、嘘なんてついたことないんだから」
ヨリコの目に涙が溜まる。それは魔法のように二人の少年の警戒を解く。こんこんと湧き出る泉は人の心を惹きつける。泉は人の目の中にもある。
「座りなよ」ジンケは言う。「スグル、コーヒーまだあったでしょ」
「あるよ」スグルが言う。てきぱきと缶コーヒーを取り出す。
「ありがと」ヨリコは座る。缶コーヒーを受け取り、それが温かいホット缶であるかのように両手でさする。「本当よ。いつも本当のことを言ってきたの。変わったのは私じゃない。みんなの心が、変わったの……」
「わかった」ジンケが言う。「ヨリコは僕を見た。僕は浮いていた。しかも体が透けていた。でも、見間違いの可能性は? 夜だし、暗いし、まず自分の目を疑うってことはないの?」
「しつこいようだけど、私見えるの。ジンケだけじゃなくて他のモノもよ。ほとんどが死んだ人だけど、あれはジンケ。紛れもないジンケだったわ。生きているわけでも、死んでいるわけでもない、ジンケ」
スグルが「マジか……」とつぶやく。両者の間で審判のように立ち、だけど居場所に困った様子。
急に時が重くなる。知らぬ間に日が落ち、小屋の中に影が伸びる。朱色の濃い陽射しがはちみつのようで、どんよりと濃密な気配が満ちる。
「どうだろう」ジンケが言う。「仲間うんぬんはひとまず置いておいて、とにかく話し合いが必要だと思う。お互いフェアに物事を進めるべきだよ」
「あのさ」スグルが口を開く。「もう5時過ぎた」
「おなかが空いたわ」ヨリコが言う。
温かい食事。こればかりには勝てない。手を洗って、うがいをして、肌に馴染んだ部屋着に着替えて、甘いジュースを一口飲んだら、炊きたてのごはんの香りを胸いっぱいに嗅ぐ。そうしたら、もう誰にも止められない。この時ばかりは全てを忘れて、ひたすら食べることに集中。脳は本来の本能に従い、肉体も自動運転。ただ人間的な部分が感知できるとすれば、それは幸福感だけだろう。無心だ。無心に幸福。夕ご飯ほど幸せな時はないのだ。ただ、ジンケはその支度を一人でしなければいけなかったが、それでも幸せには変わりなかった。無条件に満たされる。一日の終わりは、そうあるべきなのだ。
「続きはまた明日ってことで……」ジンケが言うと、
「いえ、今夜よ」間髪入れずにヨリコが答えた。
「待ってるから」そう言い残してヨリコは去った。なんの未練もためらいもなく、イタチのように素早く消えた。
「女子一人はやっぱり危ないよな」とスグルが言って、ジンケの顔をじっと見た。暗くて鉛筆で塗りつぶしたみたいな顔だったが、何か同意を求めていた。
ジンケはとりあえず「うん」と同意した。
スグルは「悪い」と言って外に出た。
遅れてジンケは気づいた。スグルは女子を案じていたのだ。ジェントルマンの鏡だった。女性をエスコートしに行ったのだ。
やはりスグルはすごい。僕とはまるで違う。物事を俯瞰で捉えている。良き人の心がスグルにはある。それに引き換え僕は極端だ。おかしなことで頭がいっぱい。女性のことも知らなすぎる。僕の天秤は狂っている。スグルこそ、天秤座であるべきだ。バランスを司どるべきはスグルだ。
暗がりの中、ジンケは小屋の中を片付けた。コーヒーの空き缶を二本、ジージャンのポケットに詰めた。ヨリコに渡した缶は開いてなかった。それを両手で握り、彼女がそうしていたように温もりを探し求め、一呼吸置いて貯蔵庫に戻した。外に出て枯れ草の束をかけると、もう太陽は沈んでいた。溶けて滲んで、だらしなく広がり、理性のかけらも伺えなかった。ああ、なんて早いサイクル。立ち止まって考えるのは罪なのだろうか。しかし、罪を繰り返すことでしか人は生きていけない。夜が降りてくる。背中が冷たい。悪寒で押される。こんな山に一人、とても心細い。駆け足で帰ろう。僕はまだ子どもだ。




