金縛り
「困ったもんだな、ヨリコのやつもさ」学校を出てスグルが言った。「あんなやつじゃなかったのに。最近さ、親が子どもを虐待するの多いだろう? それに近いことなのかな。あいつ、ヒカルちゃんの保護者気取りだから」
「善行を重ねた者は、時にダークサイドに堕ちるんだよ」ジンケは答えた。「これ神話とかファンタジーの鉄則ね。善き王が治める善き時代は長くは続かないんだ。なぜなら悪しき存在がいないから。対極となる存在がいないと、善の価値もわからなくなる。だから善き王は堕ちるんだ。自らが悪しき存在に取って代わる。ヨリコも今、ちょうどこの状態なんじゃないかな」
「さすがはジンケ、言うこと違うわ」スグルがうなずく。「じゃあ俺、先に帰って準備して待ってるから。また後でね」
ちょうどジンケの家の前で、スグルは走り去る。
ヒカルちゃんにはハンディキャップがある。小学校三年生くらいまでは、特に問題は見当たらなかった。他の子と何ら変わりはなかったのだ。だが、周りが成長するにつれて、ヒカルちゃんだけ三年生のままだった。次第に言葉も失い。微笑む以外に感情を出さなくなった。学力もストップ。かろうじて名前は書けるが、読むことも計算することもできない。はじめはからかわれることもあった。「知恵おくれ」「障害者」と子ども達の無垢な悪意の標的となった。ヨリコだけがただ一人、ヒカルちゃんをかばい続けた。トイレに連れて行ってあげ、ノートをとってやり、ぼさぼさの髪の毛を櫛で梳かしてあげた。
そのヨリコの博愛が、中学に上がってから堕ちた。誰もがヒカルちゃんを認め、ハンディキャップを個性だと理解し始めた頃、ヨリコは悪しき存在へと変貌した。いじめる者がいなければ、守る必要もない。皆が捨てたナイフをヨリコは拾ったのだ。
だが、ヨリコはヒカルちゃんの世話を続けた。善き王と悪しき存在を己の中で使い分けたのだ。だから誰にも文句は言えなかった。教師ですら黙認していた。愛情が強すぎるだけなのだろうと、たかを括っていた。生徒も教師も、皆それなりに忙しく、見て見ぬ振りを決めた。
「最近金縛りあってる?」
ジンケは外着に着替えながら、ヨリコの言葉を反芻した。知ったような聞き方だ。「最近ーー」とはどういうことだ。鎌をかけただけなのだろうか。
「ある」とも言えるし、「ない」とも言える。ジンケが初めてそれらしき体験をしたのは保育園から小学校に上がった時期、給食をどうしても完食できない自分に腹を立てていた頃だった。
最初は夢だと思った。大根、人参、カボチャやピーマン、豚肉、鶏肉、ジンギスカン。それぞれの食材が教育テレビに出てくる着ぐるみのように擬人化し、手をつないで輪になった。ジンケもその輪の中にいて、どこからともなく響いてくる太鼓の音に合わせてフォークダンスを踊った。僕はみんなのことが大好きだよ。嫌いな人なんて一人もいない。野菜や肉たちは大事な友達だった。そう信じ切っていた。
だが、事態は一変した。嵐ーー。黒い渦。雷鳴を轟かせながら暗黒に染まる空。絶対的な悪の意志がジンケたちの頭上を支配した。
野菜たちは逃げ惑った。無慈悲にも、黒い空は彼らを吸い込む。空中でじたばたもがき、声にならない悲鳴をあげながら暗黒に取り入られるのだ。「お願い! みんなを殺さないで!」ジンケは叫ぶ。だが、それをあざ笑うかのように嵐は不気味に膨れ上がる。やがて黒い渦は地上まで迫る。最後まで手を握ってくれた力自慢の大根までもが目の前で八つ裂きにされた。ジンケは最後の一人になった。涙と嗚咽で世界が歪んだ。悔しい。気持ちだけでは負けたくなかった。
「みんなを返せ!」
あらん限りの力で叫んだ。しかし、無情にも声は暗黒へと消えた。もう何も残っていなかった。怒りも悲しみも、楽しかった何もかもがジンケの心から抜き取られた。少年は空っぽだった。もはや、ジンケですらなかった。
目の前の渦は今にも自分を吸い込もうとしている。動くこともできず、叫ぶこともできない。だから見るしかない。何も考えずに、ただ黒い渦の内部を見た。
それは絶対的な悪だった。どんな感情も持たない。ただ食べて吸い込んで、どこか永遠の彼方に向かって吐き出し続ける。そんな絶望的な力だった。
始まった。取り込まれ始めた。鼻先の皮がかすった。痛みを感じない程度に、恐ろしいほどゆっくりと肉体が切り取られた。気がつくとまぶたも取られていた。もうまばたきもできない。目をそらすこともできない。自分の肉体がどれだけ残っているのかも、もうわからない。それでも見た。見るしかなかった。黒い渦の中に潜んでいるのは何者か。諸悪の根源、その正体は何なのか。
もうすぐ……もうすぐ見える……そこだ……そう! 見えた!
感じた瞬間、ジンケは消えた。何もかもが切り刻まれ、跡形もなく吸い込まれた。まるでガラスの板に閉じ込められてしまったかのようだった。何もかもが無駄。僕は、もう、いない。
やがてジンケは目が覚めた。そして理解した。夢ではなかったのだ。眠ってもいなければ、目をつむってもいなかった。全て現実に起きたことだ。そこに根拠を求める方がジンケにとってはナンセンスだった。超然とした理解ほど、真実味に迫るものはないのだ。この間、声は出せなかった。体を動かすこともできなかった。だが、ジンケは別の世界で生きていた。そしておそらく、あの瞬間、別の世界で死んだのだ。
その後、同じような体験は中学に上がるまで続いた。どこか別の世界で全く別の人生を終える。自分であり、同時に自分ではない存在を何度も追体験した。なれて来ると、この現実世界にも表と裏、少なくとも二つ以上の世界があることを知った。それがいわゆる霊の世界というものだった。生命が反転した世界。白は黒で、天は地へと、善は悪に取って代わる。
世界が反転するのは決まって眠りに落ちる前だった。体は石のように動かない。呼吸もままならず、酸素は粘土のように固まる。だが、感覚は怖いくらいに研ぎ澄まされる。神経が肉の外に飛び出し、空気は凛と張り詰める。
これがおそらく金縛りなのだろう。雑誌やテレビで騒いでいる心霊現象としての金縛りだ。だが、ジンケは別物だと考えていた。誰の、どんな体験談ともぴたりとは一致しないのだ。当たり前だ。別世界の出来事なのだから。誰かに話すとその時点で嘘になる。現実では通用しない概念。ある種の秘密だ。秘密は胸にそっと、決して口に出してはいけない。
ジンケはこの体験を応用して、自己流の瞑想法及び身体離脱法をあみ出した。その甲斐もあって、中学に上がる頃には金縛り現象に悩まされることはなくなった。もともとあまり気持ちの良いものではなかったので、惜しくもなんともなかった。ただ、ジンケはそれを「金縛り」だと定義したくなかった。他の誰とも共有したくなかった。忌々しくもかけがえのない自分だけの秘密だった。もし自分の外に出るのならば、こう言おうと決めていた。狂っているんだよ。狂人の戯言なんだよ、と。
ジンケは外着に着替えた。だが、もう一つ羽織るものが欲しかった。自室にオレンジ色のタンスには父のお下がりも入っていた。取り出したのはジージャンだった。丈が短めで、所々すり切れている。まるでロックだ。ロックンローラー。着ると強くなった気がする。
これを父が着ていたとは信じがたい。袖を通すと若かりし頃の父の記憶が蘇る。父は自慢のバイクで母を迎えに行く。ある晴れた、気持ちの良い春の日に、二人は旅立つ。目の前に広がるは、まっすぐな道。母は父の背中に顔を埋める。男臭いジージャンの匂いが、母の体を突き抜けて遠い空に消える。そんな風景がデニムの生地を通して伝わる。母、母、まだ見ぬ母。僕の誕生と同時にバトンタッチして消えた母。背中に母の温もりを探す。




