ヨリコ
ジンケとスグルは廊下に出た。バケツに水を汲むためにである。
すると、隣のクラスの女子が窓拭きをしていた。ヨリコだった。
「ねえ、高い所やってくれない?」ヨリコが声をかけた。「あいつらいくら言ってもさぼって帰るんだから、もういやんなっちゃう」
「いや、クラスも違うし、俺らもまだ途中だし」スグルが答えた。
「ケチ!」ヨリコが言い放った。「ちょっとぐらいいじゃない。そこの高い所だけなんだから!」
見ると、他に男子はいなかった。ヨリコと、ヒカルちゃんという女子だけが廊下の窓拭きをしていた。二人とも背が小さかった。
「悪いけど……」スグルが言いかけると、ジンケが持っていた雑巾で窓を拭き始めた。高い所を、必死に背伸びするが、背丈は女の子二人とさほど変わらない。
「この雑巾じゃなきゃだめよ。それ床用でしょ」ヨリコが言った。
「ごめん」ジンケは言って、窓拭き用雑巾を受け取る。
「ありがとうとか言えないのかよ」そうスグルは言って、窓拭きに加わる。三人に比べて頭一つ背が高く、悠々と手が届く。
「……ありがと」呟くようにヨリコは言う。
「他の面子は?」ジンケが聞く。
「こいつ以外はみんな帰った」とヨリコはヒカルちゃんを指す。「まったくいやんなっちゃう。あいつら無駄に背ばっか伸びて、頭ん中空っぽなんだから」
「あいつらって、ナオユキたちか?」スグルが聞く。
「そうよ」ヨリコは答え、急に声を荒げる。「あんた何やってんのよ! そこさっき拭いたでしょ! しかもそれ、から拭き用!」
ヒカルちゃんがびくっと肩を震わせる。だが、顔は柔和に崩れている。声は出さずに笑っている。
「まったくもう、使えないんだから。ほら、から拭き用は濡らしちゃいけないって言ったじゃん! このブス!」
「おい!」スグルが怒鳴る。
「何よ」ヨリコが言い返す。
「言い過ぎだろ」スグルが更に言い返す。
その合間に、ジンケはヒカルちゃんの雑巾を取り替えてあげる。拭く場所も、何となく適当に指示してあげる。ヒカルちゃんは笑顔を絶やさず「うあ」とだけ言う。
ヒカルちゃんは違うのだ。他の生徒とは違うのだ。考える力の発育が、世の中の平均値より下回るのだ。だが、その笑顔は抜きん出る。世の平均など糞食らえだ。それほどにジンケの心にしみるのだ。
「いいのよ。こいつ私しか友達いないんだから」ヨリコが呟くように言った。
ヒカルちゃんが窓を拭く。きゅっきゅと、その音だけが廊下に響く。
「ところでジンケさ」ヨリコが言う。「最近金縛りあってる?」
「ないよ」ジンケが答える。
「うそ。ジンケって絶対そっち側の人間だと思うんだけど」
「そっち側もこっち側もないよ。まぁ、あっても僕なら言わないし」
「なによ、あたしが嘘ついてるって言いたいんでしょ」
ジンケは雑巾を絞る。聞かないふり。ここだけ、窓の高い所だけ仕上げて(結局は手が届かないのだが)さっさと教室に戻ろう。だが、この沈黙、ヨリコの視線が突き刺さる。ヨリコは引かない。蛇のようにしつこい。
「どうして僕を同類だと思うのさ?」聞いてしまった、ジンケ。
「知ってるのよ」ヨリコが答えた。
「何を……」言いかけてジンケは思い出した。あの手形。テレビの画面にくっきりとついた小さなもみじ。まさか、そんな、ヨリコの手……!?
「ほら、今あんたが思ったことよ」ヨリコは猿のようにきゃっきゃと笑い、あっかんべーをする。下のまぶたの赤い肉があらわになる。ベロは出さない。両目で、ベー。
「うあ……」ヒカルちゃんが割って入る。
「なによ!」ヨリコが怒鳴る。だがヒカルちゃんはやっぱり笑いながらヨリコの腕をつかむ。あっかんべーをやめさせようとしている。
「終わったぞ」スグルが頭一つ上から言う。「行こうぜジンケ」
ヨリコとヒカルちゃんは取っ組み合う。ヨリコは怒りをあらわにするがヒカルちゃんは「うーあー」と笑うばかりなので、じゃれ合っている程度にしか見えない。このまま放っておいても問題はなさそうだ。だがーー、
「やめなよ」とジンケは言ってしまう。
「ほっといてよ! あたしがやめたら誰がこいつの面倒見るのさ!」
ヒカルちゃんは笑う。まるで犬が飼い主にじゃれるようにヨリコに抱きつく。
「行こう」スグルが言う。
しかし、そこに何か見落としてはいけないものがあるような気がして、立ち去ることができない。スグルに肘でせっつかれてようやくジンケは踵をあげる。気にするな。だが、何かが引っかかる。あの子どもの手形。小さなもみじ。虚言癖のヨリコ。点と線が絡み合う。




