教師
その日の授業はどれも素晴らしいものだった。どの教科も机の上が小ざっぱりとしていたのだ。教師たちは皆口を揃えて、「まずは、教科書をしまってください」と言った。
教科書のない授業! なんて素晴らしいのだろう!
中にはまっさらな机に突っ伏して居眠りを決める生徒もいたが、どの教師も注意しなかった。固い机の枕は最高の寝心地。むしろ、その事実を遠い記憶から呼び戻し、微笑ましい気持ちで生徒のつむじを見守った。
授業なんかしないのだ。学期最後の授業はフリートークと決まっている。教師と生徒の垣根を越えて、人間同士の喜びを分かち合うのだ。
教室内は終始リラックスしたムードで、あっという間に5時限目になった。
「みんな、もうわかっている思うけど、自転車は禁止な。今はまだ平気かもしれないけど、雪が降ったら滑るからな。溶けてもすぐに凍ってつるつるに滑るからな。自転車は絶対に乗らないでください。それから、山も海もダメだからな。最近は熊も冬眠しないことがあるからな。お腹減らしてうろついてる時が一番危ないからな。ヒグマは動物の中で一番強いからな。絶対に戦おうだなんて考えないことだな。海も危ないからな。流氷の上に乗って遊ぶのは絶対にだめだからな。流されたら死んでしまうからな。寒くてひもじくて、一番悲しい死に方だからな。皆さん、中学生らしく、危険のないように冬休みを過ごしてください」
生徒たちはやけに素直に聞く。きっと、聞く体勢が整っているということなのだろう。『社会』の科目を潰して、早めのホームルーム、そしてフリートークへの移行を考えていたが、この心地良い演説空間にいると、普段の授業でもこう行かないものかと考えてしまう。この状況の子どもたちはスポンジのようだ。もしくは肌が吸音材でできている。忘れがちだが、子どもというのは元来話をよく聞くものだ。それが現実感を伴わない授業だから集中力を欠く。いたって当然の反応だ。だが、中には常に今のような全身吸音材状態の子どももいる。決して学生服を着崩さない寝癖の目立つ生徒。ジンケと呼ばれる奇妙な少年。どこがどう奇妙なのかは説明できないが、とにかく他の生徒とは違う。何か、生きる目的そのものが違うような気もする。ジンケ少年も居眠りすることはある。むしろ、その頻度は他の生徒に比べて多い。だが、決して退屈しているわけではない。眠る要点を絞り、必要に応じて仮眠を取っているように見える。事実、木村自身、あまり意味のない蛇足説明をしている時に彼は休むのだ。その姿勢も見事で、片手で顎を支え半眼で思惟に耽る弥勒菩薩を彷彿とさせる。決して机に突っ伏さないのだ。そして今まさに少年弥勒は来たる終末に備え、静かな瞑想の中にいる。他の生徒とは真逆なのだ。
「先生がみんなと同じ年の頃にはなーー」木村は話す。
釣りをよくしたな。でもこの季節は寒いし、危ないし、まず魚がいないな。だから先生は家で本を読んだな。冬は本を読むには良い時期なんだな。外で遊べない時には本の中で遊ぶんだな。先生はケストナーとかマーク・トウェインをよく読んだな。学校の図書室にもあるし、町の図書館にもあるから是非読んでみてください。本を読むと、自分が一回りも二回りも大きくなった気がするんだな。変な言い方だけど、外側に大きくなるんじゃなく、内側に大きくなるんだな。そして誰とも喋らなくても、胸の中が言葉でいっぱいになるんだな。だから、みんなにもいっぱい本を読んでほしいなーー。
お調子者の生徒は野次を飛ばした。読書家の生徒は質問をした。女子は一様におしゃべりをした。本の話題交換をしているのならば救いなのだが、木村は女子にはウケが悪い。言葉が通じてないのではないかと思うことも多々ある。きっと、俺の遺伝子は劣っているのだ。だから女子は俺を本能的に遠ざけようとするのだ。そんなことを考えたら、ジンケ少年と目が合った。彼は眠ってはいなかったのだ。顎を片手で支えながら、うつろな目を木村に向けていた。次第に騒がしくなる教室の中で、ジンケ少年だけが遠い宇宙にいるようだった。木村は妙に切ない気持ちになって、この少年に何かしてあげたいと思ったが、すぐに同情されているのは自分の方なのだと感じた。その思惑の意図などわかるはずもなかったが、とにかく奇妙に胸を痛めた。
木村はその後、学級通信や保健室便りなどを配り、余った時間で世間話をした。生徒たちはよく聞いてくれた。中には木村の話に茶々を入れる者もいた。だが、それは的確な茶々であり、待ってましたの合いの手だった。こういう場合、教師の話を折ってしゃしゃり出る生徒はお調子者だと思われがちだが、事実そうではないと木村は考えていた。協調性が高いのだ。そして自己犠牲的であり、洞察力が鋭い。社会に出れば一番に成功するタイプ。名司会者。ムードメーカー。担任教師と無言の契約を交わす、お抱え弁護士。とまでは言い過ぎだが、とても助かっている。
ジンケ少年は、この一分一秒をかみしめた。冬休みなどなくても構わないとさえ思った。授業が好きなわけではない。学校が好きなわけでもない。ただ、木村という教師が好きだった。くぐもった声も、独特な話し方も、男前とは程遠いじゃがいものような顔も、不思議と心をくすぐった。先生とは特に親しいわけではないが、そう遠くない友情の気配のようなものを感じ取った。
チャイムが鳴った。
「では、今日は帰りのショートホームルームはありません。もう全部話したからな。このまま解散になります。みんな、気をつけて帰ってください」
起立、気をつけ、礼。週刊日直のカホリの号令。心なしか声が明るい。季節は冬だが、春のように弾んでいる。
どっと喧騒に包まれる。椅子が積まれ、机が音を立てて引かれる。同時にぎゃあぎゃあと喚き声。二倍速で大音量。どこにこんなにいたのだろう。見たこともない子どもたちが、次から次へと湧いて出る。
「先生」
木村は呼び止められた。黒板を消していたのだ。振り向くとジンケがいた。
「お、ジンケくん」
他の生徒がそう呼ぶので、木村も「ジンケ」と呼んだ。ただ、そう意識したわけではなく、導かれたかのようにそう呼んだ。実際、呼んだ後にハッと気づいた。じんわりと恥ずかしくなった。
「本持ってますか?」ジンケは聞いた。
「本?」木村は一瞬考えた。「ああ、本な。先生のお勧めの本だな? もちろんあるぞ。先生、呼んだ本は全部大事にとってあるんだ。それが何十年も前でもな」
胸が熱くなった。この風変わりな少年が自分に興味を示してくれている。だから嘘をついた。少年時代に読んだ本は手元になかったが、いっそ、今日の足で買いに行こうかと思った。
「今度借りに行ってもいいですか?」
「いいぞ」木村は声のトーンを上げた。「先生たいてい家にいるからな。部活も持ってないし、学校にもほとんど来ないからな。友達もいないし。家にいるな。先生、家が好きなんだな」
「家で何してるんですか」ジンケは笑って言った。
「何もしないな。まあ、息はするな。本も読むな。テレビ見て、お腹が空いたら食べて、寝て、また起きて、本読んで、の繰り返しだな。先生寒いの苦手だから、なるべく家から出ないな」
「いいですね」ジンケは女の子のような声で、小石が転がるように笑う。
この少年の笑った顔は珍しい。それは子どものことだから、一日の大半は笑って過ごしているだろうが、笑顔の印象が薄いのだ。あの遠い弥勒の表情。それが今、ここにはない。
「いつ行けばいいですか?」
「いつでもいいぞ。本当にずっと家にいるからな。掃除も洗濯もしないからな
ああ、ついでにお嫁さんも連れてきてくれたら先生嬉しいな。誰かいい人いないかな」
「どういう人がいいですか?」
「どんな人でもいい。先生、本当にどんな人でもいいんだ。炊事洗濯も上手じゃなくていい。顔も特別綺麗でなくていい。太っててもいい。ああ、むしろ太ってる方がいいな。先生、太ってる女の人の方が好きだな」
何を言っているのだろう。木村は自分がわからなくなった。こんな子どもに何を話している? ばかばかしいにもほどがある。だが、少年はまっすぐな目で与太話を飲み込む。何だろう。不思議と気分は悪くない。
「わかりました。当たってみます」
「頼んだぞ。ジンケくん」
木村は少年の背中を叩いた。何て細いのだ。まるで鳥か猫だ。皮膚の下にすぐ骨がある。これが、13歳の身体。
少年が踵を返し、埃が舞い散らかる教室に飛び込む。二刀流で箒を扱っていたスグルから一本受け取り、筆を払うように床を掃く。その姿が一瞬、絵描きに見える。それがどんなジャンルの絵描きなのか、想像することもできないが、きっと、誰にも見えないものを描いているのではないかと思う。




