隠しフラグ
「凛。この子は不律。いずれお前の夫となる子です。これからこの子はこの屋敷で一緒に暮らします。凛はお姉さんになるのだから、仲良くしてあげなさいね」
御坊の屋敷の広間で、はじめて家の者たちと引き合わせられたときのこと。女主人である優義母上が僕を横に座らせて、向かい合うように座るひとりひとりと挨拶を交わさせた。
「凛がお姉さんなのに、この子が夫になるの?」
じぃっと僕の顔を見つめたまま、ぐいっと頭を右に傾けて顔いっぱいに疑問を浮かべる凛姉さま。向かい合わせの鏡のように同じく僕も黙ったまま頭を傾けてしまう。
「そうですよ。あなたがこの子のお姉さんで夫ですよ。夫の方が妻よりも歳下であることはよくあることです」
「うーん、分かりました!」
「いい子ね。不律はまだ幼く、実家ではたいへんな状況にいた子だから、あなたが守ってあげてね」
「はい! よろしくね!」
まだ夫婦の関係というものがよくわかっていなかったであろう凛姉さまは、僕に元気よく声をかけた。
卯城の屋敷のことはほとんど記憶にないが、あの家で過ごしていた最後のほうは、がらんとした部屋でほとんど乳母と二人でいたと後から聞いた。
勇者と有紗の子、アリシアが生まれて家中の騒ぎがおさまらないなか、僕の乳母はどさくさに紛れて解雇された。その後、僕を専属で面倒見るものは誰もいなかったが、手の空いた使用人たちがかわるがわる世話をしていたらしい。
そのことを伝え聞いた元乳母が思い余って、少し前に卯城を円満に離れていた御坊家に飛び込んで直訴したのだとか。
それからおそらく御坊家が宰相を動かし、王宮からの斡旋を受けて、僕は「御坊家の入り婿予定」の子どもとして引き取られていくことになった。
知らない家に連れられ、先の見えない不安のなかでみた、凛姉さまの力いっぱいの笑顔に、どれだけ救われたか分からない。
凛姉さまと僕は、同じ教師について、一緒に文字や簡単な計算、歴史など貴族としての一般教養や、武術の基礎などを学んだ。
いま振り返ると転生者だったことが影響していたのだろうか。前世の記憶が蘇る前も、潜在的に理解力などが向上していたらしく、年齢が上の凛姉さまとともに学ぶことは苦にならなかった。
勉強の時間のあとの遊びもまた、凛姉さまと一緒だった。
御坊の家に来た頃は体力もなく、運動神経も発達していなかった僕は走り去る凛姉さまを追いかけてよく転んだ。擦りむくと痛くて、遠ざかる凛姉さまの後ろ姿にさみしくて泣き出してしまうこともあった。
「もうしょうがないなぁ。ほら、手をつかんで」
そんな僕を凛姉さまは戻ってきて腕をとって立たせてくれた。着物についた土を払いながら、心配そうに「大丈夫?」と声をかけてくれる。
「うん……」
「不律。私はお父さまのような強い人が好きです。不律も元気で強くなってね!」
小さな頃は無邪気に言っていた凛姉さまは、彼女が思春期を迎えるころには、あまりそうしたことを口にしなくなっていた。代わりに僕に繰り返し言うようになったのは「当主の夫として」だ。
「不律は当主の夫になるのだから、いまはよく学びなさい」
「不律は、私とともに人の上に立つ立場になるのだから、誰よりも鍛えておかねばな」
それは、凛姉さま自体にかかる「当主」の跡取りとしての重さからの言葉だったのだろう。それが僕には分っていたから、少しでも凛姉さまのためになれたらといつも思っていた。
凛姉さまは週に何度か剣の稽古をつけてくれた。
「ははは、私の方が歳上だからな。まだまだ勝ちは譲れないな」
擦りむいた膝から赤く血が滲む。それがちらりと凛姉さまの目に入っても、もうわざわざ優しい言葉をかけてくれはしない。自分で立ち上がり、木剣を握り直す。
「どうした、もう終わりじゃないだろう?」
「はい!」
「さぁ、もう一度だ!」という声に構えると、近くの木立に長身の影が見える。凛姉さまはすぐに気がついて、ぱぁっと顔が明るくなる。毎回のことながら、思わず僕は見とれてしまう。
「あ、賽助! 見てたか?」
「はい、少しだけ」
「私の技を見た!?」
「はい。お嬢も腕を上げられました」
「そうか……いや、まだまだ賽助には叶わないのは分っている。いまに並んでみせるから、待っていてくれ……って、どうしたんだ、その右頬の赤みは」
「いや、ちょっと……ドジ踏みまして」
「きっとまた女なんだろう。賽助がそのへんの男に殴られるはずがないからな! お前はモテるからなぁ。あんまりオイタをしているとそのうち刺されるぞ」
賽助に走り寄った凛姉さまは、賽助の顔をすぐそばから見上げながら、呆れた目で決めつける。いつも言葉少ない賽助は反るようにしてやや身体を後ずらせるが、その分凛姉さまが詰め寄って距離をとらせない。
「いえ、そんな。勘弁してください」
「凛姉さまにかかると、さすがの賽助も方なしですね!」
「うん。じゃあな、不律。私は戻るがちょっと賽助に話がある。賽助はついて来てくれ。不律はもう少し基本の型を練習しておくと良いぞ」
「はい!」
賽助は振り返って腰をかがめるようにお辞儀をして去るが、凛姉さまは振り返ったりしない。賽助の腕をとるようにしてはしゃぐ声が聞こえてくる。
「賽助、その頬、私が手当してやろう……」
「お嬢の手を煩わせることじゃ」
「いいから、いいから。かわりに殴られた顛末を詳しく聞かせてくれ」
僕はその遠ざかる声を聞きながら、素振りを繰り返していた。
当主としての仕事を少しずつ引き受けるようになってから、凛姉さまは賽助を頼りにして相談することが増えていた。
僕は、かつてのように一日中凛姉さまといられることはなくなってしまったけれど、生活のなかの短い会話で、凛姉さまとの温かいつながりを持つことができていたように思う。
御坊家当主になることを受け入れて努力をする凛姉さまを誇りに思い、それを自分が間近で支えることのできる立場であることを僕もまた誇りに思っていた。
ずっと側にいたのだから……。
※
――って、隠し拠点へ向かう馬車のなか、意識のない凛の側でうとうととしつつ、脳裏に蘇ってきた思い出に猛烈な違和感を感じる。
おいこれ本当に大丈夫なのか? 明らかに凛の態度は賽助に好意を向けているよね?
実のところ、凛の本当の好みが、頼りになる、逞しい男であることも「僕」は承知していた。その上での「僕」の持っていた自信の基礎は、「不律は凛と婚約している」という貴族間の契約に基づくものだ。
凛は王国貴族のれっきとした男爵家の嫡女であり、また不律もれっきとした伯爵家の家譜に名を載せる「庶子」だ。そしてこの結び付きは、非公式ではあるものの王宮からの斡旋だった。
いずれ凛と俺は結婚して、御坊男爵家の当主夫妻として、賽助たち使用人の上に立つ立場となるはずだった。
凛は、一般的な貴族としての社会的常識を踏み外すような女ではない。だからこれまで不律の思い込みにはまず心配はなかった。
けれど、今は貴族の身分を捨てて、凛も俺も一平民になったのだ。名乗るべき家名も、守るべき貴族のルールも無くなった。
凛と俺の「子供の頃に大人によって結ばれた約束」を外から縛り付けているものは失われてしまった。
賽助もまた自分から矩を越えるようなことはしないだろうが、だからといって、彼は聖人君子ではない。「据え膳あらばとりあえず喰う」ような男である。
弱っている凛が、親の決めた約束ごとを放り捨て、太くて真っ直ぐな柱に巻き付いていることを望むならば、賽助に否やはないだろう。
この状況に至っても、「僕」はまったく油断したままでいたが、俺の意識は盛んに警鐘を鳴らしていた。
まさに、「僕の許嫁が◯◯するはずがない」状況に心底震えがくる。よくもまぁ、「僕」はこれまで能天気に振る舞ってきたものだ。いや、これもまた創造主によって今そこにある危機に対して見えないようにされてきたのだろうか。
こんな時限爆弾のような寝取られルートが埋めこまれていたなんて、いままで思ってもいなかった。
お読みいただき有難うございました。




