表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/6

特別接待の常連客

雨の音で目を覚す。

ぼくが寝起きしているのは、喫茶店レミーナの3階にある部屋だ。狭くて、物置みたいな部屋だけど、ぼくには私物が無いのでこれで十分な広さだ。小さな寝台。少しの服。

雨はやっかいだ。

ニル区の雨は有毒だから、こんな日は、誰もわざわざ移動したがらない。きっと客も来ないだろう。

身支度を整えて、階下に降りていく。


朝のレミーナには4人の女給たち全員が出勤していた。そのことにぼくは驚かされた。掃除して、店を開ける準備をしている。

「みんな、おはよう。雨なのに、どうした?」とぼくは誰とも無しに聞く。

女給たちは、ぼくのことをちらりと見ただけ。作業に戻っていった。


「今日は特別接待がある。全員集まる決まりだ」マスターがぼくの背後から言った。「雨だろうとな」

「そうでしたか」ぼくはテレグラフの確認を怠っていたことを恥じた。女給たちもそうやって連絡を取り合って、スケジュールを調整しているのだ。まだまだテレグラフの慣習にも慣れない。


雨は降り止まない。こんな日は客足が遠のく。まったく来ないわけではない。レインコートを着込んだ常連客が、ほんのわずかに来店するだけだ。


マスターも女給たちも、外に出たがらない。客に対して、店員が多すぎる。

ぼくはこの機会に、コーヒーを淹れる練習をすることにした。マスターに見てもらいながら。

暇な女給たちは、手分けしてスープを仕込んだり、服をつくろったりした。

モミジは、彼女が育てていた<とっておきの発酵種>を使ってパンを焼いた。

食欲をそそる香りが立ち込める。

パンとスープは客にも提供された。

何もしていない時間、女給たちは、バックヤードにあるダイニングテーブルでぼーっとしている。ドリップの練習に飽きたぼくも同じように過ごした。


夜になり、店を閉めてから、特別接待の準備がはじまる。

喫茶店は明かりが消えて眠りにつく。

女給たちは丹念に身を清めた。貴重な浄水を惜しみなく使って。生活でたまった垢やホコリを洗い流していく。石鹸の香りを漂わせて、いつもと違う上等な制服に身を包む。

ぼくとマスターは、地下にある応接室を準備していく。

準備ができたら、女給たちと一緒に、地下のホールで客が来るのを待つ。


「時間だ」マスターが言う。

専用のエレベーターが静かに稼働する。

レミーナの地下の、さらに地下深くから、客がやってくる。

エレベーターが開いて、ひとりの人物が現れた。

真っ黒な防疫装備に身を包んだ、顔のない、誰か。

壁の内側––シティからの来訪者。

肌が見えない。人かどうかもわからない。異質な存在。

「お待ちしておりました。こちらです」マスターが言う。

ぼくたちは黙って出迎える。

客は何も言わない。マスターに向かって無言のコミュニケーションをとる。おそらく電波による通信。それが何なのか、ぼくには見えない。

客は迷わずまっすぐにモミジの目の前に歩いてきて、彼女の肩に手を置いた。

今日の客は身長が高いので、もともと小さいモミジがいつもよりも小さく見える。客を見上げる。選ばれたことを認識した。

「ご案内します」モミジは言って、客を案内する。

応接室につながる扉を開けて、客を通す。

扉を閉めるその直前、ぼくたちのほうに視線を投げかける。

そこからは意図が読み取れなかった。


「やっぱりモミジかぁ」ビャクダンが言う。「あのお客、常連だよね。いっつもモミジを指名してる」

「あたしには見分けなんてつかないよ」クヌギが言う。

「お前たち」マスターがぼくらを見渡して言う。「今日はあのお客だけだから、帰っていいぞ。誰かひとり残って」

ぼくは手伝いたくて残る者として挙手しようとした。でも、それを制してウルシが言った。「私が残る」マスターも「それが良いだろう」と同意した。

「明日はいつも通りに店を開けてくれ。天気が良ければ買い出しも。頼んだぞ」とマスターがぼくに言った。


ぼくとビャクダンとクヌギは、階段を登った。日常の空間に戻ってきた。地下から地上へと。

まだ深夜で、外は雨が降り続いている。これでは女給たちは家に帰れないのではないかと心配したが、2階のどこかで眠る、ということだった。

2階に眠れる場所なんてあるのか。あまり行かないので、わからない。

ぼくは3階の自分の部屋で眠ることにする。

階段で別れる。

「じゃあ、おやすみなさい」ぼくが言った。

「おやすみなさい」ふたりの女給もそう言った。



特別接待のことはよく知らない。夜にはじまり、早朝に終わる、定期的な業務ということしかわかっていない。だけど、いつかもっと任せてもらえるようになりたいと思っている。マスターもそう期待しているはず。今は自分ができることをやるだけだ。


翌朝。

雨はあがっていた。

ぼくは泊まり込みのふたりの女給と共に、喫茶店レミーナをいつものように開店させた。

いつもと違い、そこにモミジの姿はない。

遅くまで接客した彼女は、今は再生治療クリニックに預けられている。それだけのこと。何も心配はない。

モミジはよく働くが、彼女がいなくても店は回る。何も変わらない。


さらに翌日、マスターがモミジを連れ帰ってきた。

「おかえり」ぼくはモミジに向けてそう言った。

そう言ったのはぼくだけだった。

モミジからは何も返ってこなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ