特別接待の常連客
雨の音で目を覚す。
ぼくが寝起きしているのは、喫茶店レミーナの3階にある部屋だ。狭くて、物置みたいな部屋だけど、ぼくには私物が無いのでこれで十分な広さだ。小さな寝台。少しの服。
雨はやっかいだ。
ニル区の雨は有毒だから、こんな日は、誰もわざわざ移動したがらない。きっと客も来ないだろう。
身支度を整えて、階下に降りていく。
朝のレミーナには4人の女給たち全員が出勤していた。そのことにぼくは驚かされた。掃除して、店を開ける準備をしている。
「みんな、おはよう。雨なのに、どうした?」とぼくは誰とも無しに聞く。
女給たちは、ぼくのことをちらりと見ただけ。作業に戻っていった。
「今日は特別接待がある。全員集まる決まりだ」マスターがぼくの背後から言った。「雨だろうとな」
「そうでしたか」ぼくはテレグラフの確認を怠っていたことを恥じた。女給たちもそうやって連絡を取り合って、スケジュールを調整しているのだ。まだまだテレグラフの慣習にも慣れない。
雨は降り止まない。こんな日は客足が遠のく。まったく来ないわけではない。レインコートを着込んだ常連客が、ほんのわずかに来店するだけだ。
マスターも女給たちも、外に出たがらない。客に対して、店員が多すぎる。
ぼくはこの機会に、コーヒーを淹れる練習をすることにした。マスターに見てもらいながら。
暇な女給たちは、手分けしてスープを仕込んだり、服をつくろったりした。
モミジは、彼女が育てていた<とっておきの発酵種>を使ってパンを焼いた。
食欲をそそる香りが立ち込める。
パンとスープは客にも提供された。
何もしていない時間、女給たちは、バックヤードにあるダイニングテーブルでぼーっとしている。ドリップの練習に飽きたぼくも同じように過ごした。
夜になり、店を閉めてから、特別接待の準備がはじまる。
喫茶店は明かりが消えて眠りにつく。
女給たちは丹念に身を清めた。貴重な浄水を惜しみなく使って。生活でたまった垢やホコリを洗い流していく。石鹸の香りを漂わせて、いつもと違う上等な制服に身を包む。
ぼくとマスターは、地下にある応接室を準備していく。
準備ができたら、女給たちと一緒に、地下のホールで客が来るのを待つ。
「時間だ」マスターが言う。
専用のエレベーターが静かに稼働する。
レミーナの地下の、さらに地下深くから、客がやってくる。
エレベーターが開いて、ひとりの人物が現れた。
真っ黒な防疫装備に身を包んだ、顔のない、誰か。
壁の内側––シティからの来訪者。
肌が見えない。人かどうかもわからない。異質な存在。
「お待ちしておりました。こちらです」マスターが言う。
ぼくたちは黙って出迎える。
客は何も言わない。マスターに向かって無言のコミュニケーションをとる。おそらく電波による通信。それが何なのか、ぼくには見えない。
客は迷わずまっすぐにモミジの目の前に歩いてきて、彼女の肩に手を置いた。
今日の客は身長が高いので、もともと小さいモミジがいつもよりも小さく見える。客を見上げる。選ばれたことを認識した。
「ご案内します」モミジは言って、客を案内する。
応接室につながる扉を開けて、客を通す。
扉を閉めるその直前、ぼくたちのほうに視線を投げかける。
そこからは意図が読み取れなかった。
「やっぱりモミジかぁ」ビャクダンが言う。「あのお客、常連だよね。いっつもモミジを指名してる」
「あたしには見分けなんてつかないよ」クヌギが言う。
「お前たち」マスターがぼくらを見渡して言う。「今日はあのお客だけだから、帰っていいぞ。誰かひとり残って」
ぼくは手伝いたくて残る者として挙手しようとした。でも、それを制してウルシが言った。「私が残る」マスターも「それが良いだろう」と同意した。
「明日はいつも通りに店を開けてくれ。天気が良ければ買い出しも。頼んだぞ」とマスターがぼくに言った。
ぼくとビャクダンとクヌギは、階段を登った。日常の空間に戻ってきた。地下から地上へと。
まだ深夜で、外は雨が降り続いている。これでは女給たちは家に帰れないのではないかと心配したが、2階のどこかで眠る、ということだった。
2階に眠れる場所なんてあるのか。あまり行かないので、わからない。
ぼくは3階の自分の部屋で眠ることにする。
階段で別れる。
「じゃあ、おやすみなさい」ぼくが言った。
「おやすみなさい」ふたりの女給もそう言った。
特別接待のことはよく知らない。夜にはじまり、早朝に終わる、定期的な業務ということしかわかっていない。だけど、いつかもっと任せてもらえるようになりたいと思っている。マスターもそう期待しているはず。今は自分ができることをやるだけだ。
翌朝。
雨はあがっていた。
ぼくは泊まり込みのふたりの女給と共に、喫茶店レミーナをいつものように開店させた。
いつもと違い、そこにモミジの姿はない。
遅くまで接客した彼女は、今は再生治療クリニックに預けられている。それだけのこと。何も心配はない。
モミジはよく働くが、彼女がいなくても店は回る。何も変わらない。
さらに翌日、マスターがモミジを連れ帰ってきた。
「おかえり」ぼくはモミジに向けてそう言った。
そう言ったのはぼくだけだった。
モミジからは何も返ってこなかった。




