予防接種の日
「そろそろ、クヌギを迎えに行ってくれるか」
夕方になり、間も無く店じまいというころ。マスターからそう頼まれた。
「これ、クヌギの服。持っていって」モミジから袋を手渡された。
「ぼくが、ひとりでですか?」
「ああ。今回はクヌギひとりだけだから、じゅうぶんだろう」
ひとりで行くのは不安だけど、大丈夫だろう。マスターや女給たちと一緒に何度も行ったことがある。場所はしっかり記憶している。
「では、行ってきます」
「ああ、頼む」
「今日は、コートを着ていったほうがいいわ」
モミジの忠告。
ちらりと外を見ると、たしかに空が黄色い砂埃に覆われていた。
2階にあがり、事務所で自分のロングコートと防塵マスクをとって準備を整え、また1階に降りた。一応、また声をかけた。
「では、行ってきます」
「ああ、頼む」
「行ってらっしゃい」
いつもと同じ再生治療クリニック。
今日は何か様子が違う。
子供が、多い。
じっと見つめていたら、子供は身を隠してしまった。
いや、それどころじゃない。クヌギを回収しないと。
「ああ、13号室です。そちら」
受付の女性はぼくの顔を見るなりそう言った。それだけ。案内してくれる気は無いようだ。勝手に入れということだろう。
言われるまま、クリニックの奥に進んでいく。
それにしても、こんなに子供が多い日は珍しい。
薄暗い病室。
独特の薬剤の香り。
クヌギは治療代に座って、青い病院着の姿で、退屈そうに待っていた。
顔色が悪いようだが、元からだったかもしれない。
彼女特有のするどい眼光で僕を睨みつけて、ひとこと。
「おそい」
「ごめん。これ、服」
「ん。着替えるから」
「うん」
「早く出て」
「あ、はいはい」
病室を出て、廊下でただ何もせずに待つ。
クヌギが元気そうでよかった。
クリニックの奥から、子供が泣いている声が聞こえる。よほど治療が嫌なのだろうか。
病室のドアが開き、いつもの制服ー黒いワンピースを着たクヌギが現れた。
ぼくたちは歩き出す。
「今日は子供が多いね」
クリニックの廊下を歩きながら、ぼくは思っていたことを言う。答えは期待していなかったけど。
「予防接種の日よ」やけにゆっくり歩きながら、クヌギが答えた。
「予防接種の日?」
「霧島はよそ者だから知らない?外では無いの?」
「いや、どうかな、よく覚えていない」
予防接種。ぼくも子供のころに経験したのだろうか。何も覚えていなくて、あいまいに答えるしかなかった。
「あたしは痛いの平気だし、だんだん大人になっている感じがして、悪くなかったな」
「ふうん」
「子供の泣き声で、目が覚めちゃったの。もっと寝ていたかったのに。さいあくの気分。治療は成功してるみたいだから、いいんだけど」
「迷惑?」
「そうは思わない。今日の子たちはまだまだ子供だから、がんばれって思う」
「ふうん」
クヌギには怖い印象しかなかったが、目の前の彼女は慈愛に満ちている。表情も緩んでいるような。子供が好きなのだろうか。
「ねえ、霧島。あたしのコートは?」
「ごめん。店に忘れてきたようだ」
「あたしのマスクは?」
「ない」
「はあ・・・」クヌギは眉間に皺を寄せて険しい表情をつくった。「せっかく身体が綺麗になったのに。あたしがどれだけ再生治療が嫌いか知ってるよね?」
「ぼくのを貸すよ」
「当然よ。まったく、モミジも抜けてるんだから」
そうか。そう言われてみれば、クヌギはほかの女給よりも身体を大事にしているように思えた。なるべく再生治療を避けるために。それなのに、この仕事といったら。
「なによ、じろじろ見て、気味悪い。はやくちょうだい」
ぼくは防塵装備をクヌギにさしだす。
「あの、クヌギ、いつもありがとう」
「そういうの、やめてよね」
「ねえ」コートを着込んだクヌギがぼくに言う。「実はまだうまく歩けないの。手、つないで」
砂埃を吸い込まないように片手で口を覆い、
もう片方の手はクヌギとつなぎ、
ゆっくりと店に戻った。
誰かにコートを届けさせればよかった。




