客の変化
入り口のドアが開かれて、ひどく軋みながらドアベルが鳴る。
砂埃とともに、ロングコートに身を包んだ男が店に入ってきた。
店内を見渡して、少し考えながら、席を決めたようだ。
見たことがある顔。あの席。常連客だったような気がする。
「ご注文は」
モミジが音もなく注文を取りにいった。
「コーヒー」
聞き覚えがある声。やっぱり常連客だと確信が持てた。
滑らかな動作でモミジがカウンターに戻ってきて、ケトルを火にかけた。
モミジは黙って厨房のほうに消える。
ぼくはひとりカウンターに取り残された。
不規則なジェネレータの稼働音だけがリズムを刻む。
ただ無心になって、店の空気と一体化する。
すぐにケトルからボコボコと音が鳴りはじめ、やがて音が高くなっていき、湯気がたつ。
どうしたらいいのかわからない。モミジはまだ戻らない。ぼくがコーヒーを淹れるのを任されたのか?勝手にすると怒るだろうか?
ケトルの湯は沸き続けている。
ジェネレータの音が一瞬だけ止まって、照明がちらついたが、すぐにまた動き出した。
バックヤードから人の気配。
モミジではなかった。
別の女給−−ビャクダンがゆっくりとした足取りで現れた。軽く周囲を見渡してひとこと。
「コーヒー、淹れないの?」
「いや・・・途中までモミジが居たんだけど」
「きっと忘れてるわ。エネルギィもったいない」
「そうだね、ごめん」
ぼくは作業をはじめた。
ヒーターを止めて、豆をストッカーから取り出す。
ここでは、注文があるたびにグラインダで豆を挽いている。もちろん豆というのは比喩だ。この瞬間、がりがりという独特な音と、コーヒーのいい香りが漂う。
となりでビャクダンが小声で言う。まるで独り言のように。
「あのお客さん。変わった」
「ん?なにが?」
「アクセスログの傾向でわかるの」
「アクセスログ?見たの?」
「まるで別人みたい」
「ふうん」
ぼくは彼女が言っている言葉の意味を考えながらも、手元ではコーヒーの抽出に集中していた。
ビャクダンは女給たちの中でいちばんテレグラフに詳しい。データからしかわからない小さな特徴を感じ取っている。ぼくには全くわからない、もうひとつの世界の話をすることが多い。
「今回はうまくドリップできてると思うけど、どうかな?」
「わかんない」
悪びれもせずに、そう言われてしまった。
でも、返事をしてもらえるだけマシというものだ。
「じゃあ、お客様に出してもらえる?」
「はぁい」
ビャクダンはマグカップをトレーに乗せて、客に出した。客との間でなにかアイコンタクトがあったけど、言葉は交わされなかった。言わなくても通じる、ということなんだろう。客の変化のことも、コーヒーのことも。
客はコーヒーに手をつけずに、瞑目して集中している。もぐっているんだ。
ビャクダンはカウンターによりかかって黙ってしまった。目は開いているが、どこか遠くを見ている。こうなると反応してもらえないことがわかっている。
モミジが戻ってきた。
ビャクダンを一瞥しただけで、何も言わない。
「モミジ。どこ行ってたの」
なるべく非難に聞こえないように努めて聞いた。
「スープを調整して、それから厨房の片付け、そんなところ」
モミジは、すっかり沸かしたケトルのことは忘れている様子だった。
「そうか。今日のスープの出来栄えはどう?」
「まあ、いつも通り」
「そうか」
「ねえ」とモミジが身を寄せて耳打ちしてきた。「あのお客さんのこと、気づいた?」
くすぐったくて、飛び退いてしまった。いや、何もわからないんだけど。
それっきり。
モミジは忙しそうに動き回る。棚のマグカップや食器を数え始めた。まるでそれが重要なことのように。
また、沈黙と、ジェネレータの低い音が店を支配しはじめた。
ぼくは平常業務をしながらも、その客のことを観察していた。ほとんどテレグラフにもぐり、たまにコーヒーに口をつける。不審な様子は無いし、違いもわからない。
客は、1時間もしないうちに席を立った。
目線が合う。
それだけ。
言葉は交わさなかった。
女給たちももう関心を失っているようだ。
客は店を出て、夕方のオレンジがかった霧のなかに消えていった。




