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お嬢様、現代設備に触れる

 ロゼリーヌの願いが聞き入れられて間もなく、元春のスマートフォンに電話がかかってきた。


「あ、水城くんからだ。仕事の電話だから失礼するよ」


 元春はそう断って、通話をしながらリビングの隅へ移動する。


「私も、ちょっと電話してくるわね」


 玲奈も女性陣が使っていた個室へ入り、静かに扉を閉めた。

 個室の扉の向こうから、玲奈が誰かと話す声が微かに聞こえてくる。


 優雅は先ほどの宣言どおり、男性陣の個室へ引きこもったままである。


 ロゼリーヌには、元春が口にした『電話』というものが何なのかわからなかった。


 元春が茶色い手帳のようなものを耳に当て、独り言のように話し出した姿に内心驚いてしまう。


 だがしばらく観察していると、ここにはいない誰かと話しているようだと推測できた。


(何かの魔道具かしら……?)


 初めて見る電話の様子をまじまじと観察してしまうが、横から声がかけられる。


「それじゃあ、冷めてしまったお料理を温め直しましょうかねぇ」


 妙子に勧められ、ロゼリーヌはダイニングテーブルの椅子へ腰掛けた。


 背筋を伸ばし、膝の上で両手を重ねて、妙にかしこまっている。


 なぜか、その向かいには優奈も座っていた。


「……あなたも、まだ食事をなさるの?」


「ううん。私はもう食べたよ」


「では、なぜそこにいらっしゃるの?」


「妙子さん、私、オレンジジュース飲みたい」


 優奈はロゼリーヌの質問には答えず、ミニキッチンにいる妙子へ声をかけた。


「はいはい。でも、こんな時間にジュースを飲むのは今日だけですよ」


 妙子は優奈の魂胆に気づいているらしく、少し呆れたように笑いながらジュースを注いだ。


「はーい」


 そう返事をしながらも、優奈の視線はロゼリーヌへ向けられたままだった。


(この小娘、なぜわたくしを監視していますの……?)


 優奈の行動が不可解で、ロゼリーヌはその真意を探るように警戒の目を向けた。


 だがその時、ミニキッチンのほうから低い作動音が聞こえ、箱の中で皿がゆっくりと回り始めた。


 ロゼリーヌはそれを目にした途端、椅子からわずかに腰を浮かせた。


「……あの箱は、何をしていますの?」


「これですか? 電子レンジでお料理を温めているんですよ」


 妙子が丁寧に答えた。


「火も使わずに!?」


 ロゼリーヌの反応に、向かい側の優奈がオレンジジュースを飲みながらニヨニヨしている。


 優奈は完全にロゼリーヌの異世界文化ギャップを楽しむ観客、もしくは観察隊になっていた。


 ——ピピピッ。


「っ!?」


 ロゼリーヌが身構える。


「温めが終わった合図ですよ」


「……そう。驚いてなどおりませんわ」


「うんうん」


 そんな反応を待ち構えていた優奈は、生暖かい目でうなずいている。


 妙子は容器を入れ替えつつレンジで温め、料理を何度かに分けてテーブルへ運んだ。


「さぁ、どうぞ。お口に合うといいんですがねぇ」


 ロゼリーヌは妙子が出してくれた食事を前に、目を瞬かせた。


 いくつかの料理には見覚えがあった。


 肉を香草とともに焼いたものや、澄んだスープは、盛りつけこそ違えどロゼリーヌのいた国にも存在する。

 しかし、その中にひとつだけ、どう扱えばよいのか見当もつかない料理があった。


「……これは、何という料理ですの?」


 ロゼリーヌは皿に載せられた、扇状のピザを不思議そうに見つめた。


「ピザですよ。切り分けたものを、手で持って食べてもいいんです」


「手で……?」


 ロゼリーヌは、平たい生地の上にさまざまな具材が載せられた料理を見つめ、露骨に顔をしかめた。


「こんなもの、食べられませんわ」


「あらあら。食べてもいないのに、そんなふうに決めつけるものではありませんよ」


 妙子は一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。


「こちらは、ロゼリーヌさんにも召し上がっていただけるよう、皆さんにお出しする前に、別に取り分けておいたものなんですよ」


「……わたくしのために?」


「ええ。目を覚ましたら、お腹が空いているでしょうからねぇ」


「…………」


「どうしてもお口に合わなければ、無理に食べなくても構いません。ですが、まずは一口だけ召し上がってみませんか?」


「……わかりましたわ」


 妙子に教えられたとおり、ロゼリーヌはピザを一口大に切り分けた。


 慎重に口へ運び、ゆっくりと咀嚼する。


「…………」


「どう?」


 向かい側から、優奈が待ちきれない様子で問いかけた。


「……思っていたよりは、悪くありませんわ」


 そう答えながら、ロゼリーヌは早くも次の一口を切り分けている。


「気に入ったんじゃん」


「空腹だっただけですわ!」


「はいはい」


 優奈はやはりニヨニヨしていた。


「ま、妙子さん。チーズを切ったはずなのに、まだ繋がっていますわ!」


 チーズは知っている。だが、これほど伸びるものは初めてだった。


「溶けたチーズですよ。こうして巻き取れば大丈夫です」


「……ずいぶん執念深いチーズですのね」


「ぶっ……!」


 優奈は吹き出すのを堪えようとしたが、できていない。


「……優奈ちゃん? ジュースを飲み終わったのなら、歯磨きをして寝てくださいね?」


「あはは……! 静かにしてるからいさせてくださいっ」


 妙子からの静かな圧に、優奈は笑ってごまかし、なおも居座ろうとした。


「あらあら……。

 ロゼリーヌさん、今日のところはこのピザがパンの代わりになりますからね。他のお料理もどうぞ召し上がってくださいね」


 妙子は優奈のことは一旦置いておき、ロゼリーヌに話しかけた。


「ええ」


 ロゼリーヌも優奈をやや鬱陶しく感じながらもそれを無視し、料理を食べ進めた。


 見覚えのある料理も、使われている調味料や香辛料が違うのか、知っているものとは味わいがまるで異なっていた。

 ロゼリーヌは舌鼓をうちながら、料理を堪能した。


 決して「おいしい」とは口にしないものの、一口食べるごとに、その表情は隠しきれないほどほころんでいく。


 妙子と優奈も、それを微笑ましく見守っている。


 だが優奈だけは、その時にちょっとした異変に気づいた。

 ロゼリーヌの周囲に青い花びらが数枚、ひらりと舞ったかと思ったらすぐにスッと消えてしまった。


(……!? また出てきた! やっぱり、会場で見たのは幻覚じゃなかったんだ。

 でも妙子さんは見えてないみたいだし、やっぱり私だけ?

 ロゼリーヌが嬉しい時とか怒ってる時に出るとか……?)


 いろいろと考えてみるものの、目撃者は自分だけで、答えにつながる手がかりもない。

 優奈の疑問は残ったままだった。


 元春と玲奈がリビングへ戻ってきて、何やら話し合っていた。

 そして玲奈がダイニングテーブルのほうへ来て、三人に話しかける。


「今日は色々とあったから迷ってたんだけど、時間ができたから私と元春さんで上のラウンジへ行ってくるわ」


 上のラウンジとは、このホテルの最上階にあるスカイラウンジである。

 時刻は午後10時前だが、ラウンジはまだ営業中だ。


 予定になかったロゼリーヌ関連の騒ぎがあったため、玲奈はラウンジへ行くことは半ば諦めていたが、時間ができたので行くことにしたらしい。


「ええ、構いませんよ。いってらっしゃい」


 妙子は快く承諾した。


「妙子さん、ごめんなさいね。本当はあなたも誘いたかったのだけど」


「いいんですよぉ。お二人でゆっくりしてきてくださいな」


 そんなやり取りを優奈とロゼリーヌは黙って聞いていた。


「ロゼリーヌさん。あなたの装飾品は、こちらの金庫に移動させてもらったわ。

 ご飯が終わったらお部屋を移動してね。今夜は妙子さんと同室にしてあるから。

 あと、明日の朝食はまたここでね」


 玲奈の話を聞いたロゼリーヌは一瞬、顔をしかめた。


(使用人と同室ですって……!?)


 流石に口には出さなかったが、玲奈にはお見通しだったらしい。


「だってあなた、設備の使い方もわからないでしょう? 今夜は妙子さんに教えてもらってね。

 それから、妙子さんはあなたの使用人ではないの。助けてもらう相手として、きちんと接してちょうだい」


「……わかりましたわ」


「……優奈は早く寝るのよ」


 玲奈はロゼリーヌが渋々承諾したのを見届けて、優奈にも声をかけた。


「はぁーい」


 全くその気がなさそうな優奈の返事だが、ラウンジへ付いてくると騒がないことに、玲奈は少し拍子抜けした。


(ロゼリーヌさんといられることが、よっぽど嬉しいのね……)


 玲奈は優奈の気持ちを察しつつ、元春が来るのを待った。


 タイミングよく、個室にいる優雅へ声をかけ、上着を羽織った元春がダイニングテーブルのほうへ来る。


「じゃあ行こうか。妙子さん、すまないね」


「いえいえ。いってらっしゃいませ」


 玲奈はバーカウンターに置いてあるキーカードを1枚取ると、元春と連れ立ってラウンジへ向かった。


「さて……ロゼリーヌさん、お食事は終わりましたか?」


 二人を見送った妙子はロゼリーヌに聞いた。


「……ええ。……我が女神に感謝いたします」


 食事が終わったロゼリーヌは両手を胸の上に重ねて、呟くように言った。

 ロゼリーヌの国——リュサール王国の食後の挨拶なのだろう。


「食器を片付けますから、少し待っててくださいね」


 食器を回収しつつ、妙子が声をかけた。

 ロゼリーヌと優奈はそれに従い、座ったまま待つ。


(やっぱりキリスト教とかじゃないんだなぁ……『Upstart』の設定でも女神様って言葉だけは出てきてたような?)


 『ごちそうさま』と手を合わせるでもなく、指を組んで祈るポーズでもない。

 ロゼリーヌの挨拶に若干の違和感を覚えつつ、優奈はぼんやりとそんなことを考える。


 宗教色のない一般家庭で育った優奈にとって、信仰は学校の授業で習ったり、テレビでたまに目にしたりする程度のものだった。


 優奈は神様の存在などはわからないが、ロゼリーヌがここに現れたのは、そんな『神様のいたずら』なのかと、ふと考えた。


「……また、なんですの? 人の顔をジロジロと見て」


 ぼんやりとこちらを見つめている優奈に、ロゼリーヌは訝しげに眉をひそめて言った。


「あー、えぇっとぉ。……ねぇ、ロゼリーヌ」


 優奈は改めてその名前を呼んだ。


「……なにかしら?」


 ロゼリーヌは、眉を寄せたまま聞き返す。


「これから仲良くしてね!」


 優奈はロゼリーヌに笑いかけた。


「…………!」


 思いもよらない言葉をかけられたロゼリーヌは、一瞬固まる。


「さあ、行けますよ。お部屋を移動しましょう」


 そのタイミングで、妙子から声をかけられた。

 

 ロゼリーヌはパッと振り向き、反射的に椅子から立ち上がる。


「……ええ」


 優奈への返事に困ったロゼリーヌは、妙子の移動の合図に乗ることにし、優奈には何も言わずに妙子のあとについて行った。


 向坂一家が使う客室を出て、妙子がツインの部屋番号を確認しつつ案内をする。


 その少し後ろから、二人を追う優奈の姿があった。

 その顔は、好奇心に満ち溢れている。


「……優奈ちゃん、ついてきたの?」


 妙子は笑いつつ困ったように言う。


「まだ春休みだもーん。それに私もロゼリーヌに教えてあげる!」


 優奈は返事になっているのかわからない返事をした。


「教えるのは私一人で大丈夫ですよ」


「見守るの!」


 優奈が付いてくることはもう決定事項らしい。


 妙子はちょっと呆れたようにため息をつきながら、部屋のキーカードを取り出し、扉のロックを解除した。


「……これも魔道具!?」


 ロゼリーヌが小さく驚きの声を上げる。


 数時間前にこのあたりの廊下を歩き回った時は、扉は開かなかった。


 ここに並んでいる全ての扉が、単なる施錠ではなくこのような魔道具仕掛けになっていることに気づき、この国の技術の高さに空恐ろしいものを感じた。


 多少認識は間違っているが。


 妙子とロゼリーヌが部屋へ入る。

 その後ろから、ロゼリーヌ観察隊と化した優奈も、ニマニマしたい気持ちを抑えながら続いた。


 ツインの部屋はもう準備がされているのか、部屋の照明は点いていた。暖房も効いているようだ。


 妙子は自分の荷物を置いて、ロゼリーヌを洗面所へ案内する。


「じゃあ、水回りのことからお教えしましょうかねぇ? あ、洗面所のスイッチはここですよ」


 そう言いながら壁に設置してあるスイッチをカチッと押すと、洗面所の照明が点いた。


 洗面所の大きな鏡にはロゼリーヌと妙子、そして背後からそれを見ている優奈が写っている。


「……ええ」


 ロゼリーヌは内心驚きながらも、できるだけ冷静になろうと心掛けた。


「洗面所は手を洗ったり、歯を磨いたり……まぁそのへんはあとでやりながら覚えていきましょう。

 ロゼリーヌさん、おうちではお風呂はどうされていたんですか?」


「どうって……メイドがお湯を運んで湯船を満たして……。乳母のばあやが洗うのよ」


「あらあら。……じゃあ、お手洗いはどうされていたの?」


「部屋に専用のものがあるわ。用意も片付けも、ばあやかメイドがしていたけれど」


「使うところまでは、ご自分で?」


「当然でしょう! 何をおっしゃっているの!?」


「あらあら。それなら安心しました。

 ロゼリーヌさん。こちらでは、できるだけ自分のことは自分でするっていう習慣があるんですよ」


「自分のことは、自分で……?」


「そうですよ。もちろん、小さい子どもや介助の必要なご老人、あとケガや病気の人などには、手助けする側の人がつきますけどねぇ。

 それ以外の人達はできるだけ、自分の身の回りのことは自分でするんですよ」


「そう……。市井の暮らしなのね」


 ロゼリーヌは母国の様子に当てはめて納得した。


「自分ですることで、誰かに見られずに済むという利点もあるんですよ。

 ロゼリーヌさんも、恥ずかしいところを人に見られたくはないでしょう?」


「それも、そうね……わかったわ」


「慣れるまでは私がお教えしますからね。

 では、洗面所の蛇口ですけど……このレバーを上げると水が出ます。右へ動かすと水、左へ動かすとお湯になりますよ。

 左へ動かしすぎると熱くなるので、気をつけてくださいね」


「まあ……! 水だけではなくお湯になりましたわ!?」


 ロゼリーヌも手を出し、妙子といっしょに湯の温度を確かめる。


 ロゼリーヌは、今は素直な生徒であった。


「それでは水を止めるときはこうやってレバーを下げて……。手を拭くときはこのタオルを使ってくださいね」


 妙子の行動に倣って、ロゼリーヌも手を拭いた。


「次はお手洗いかしらねぇ。こっちは説明だけしますね」


 妙子はトイレの個室の扉を開けて電気を点け、トイレットペーパーの使い方などを伝授した。


 デモンストレーションで便器内の水が流れる様子を見て、またロゼリーヌが驚く。


「これは! 椅子のようなものの中で、水が渦を巻いて……! どうなっているの!?」


「終わったら水と一緒に流すんですよ。

 詰まる時もありますから、ペーパーを使う量には気を付けてくださいね。あと、手もちゃんと洗ってくださいね」


 妙子は説明と共に、注意事項にも軽く触れる。


 ロゼリーヌは説明を受けて実際に使ったあと、個室から出てきた。


「……椅子が温かいなんて……」


 驚きとも感動とも取れるようなことを呟いた。


「あらあら。ふふっ、ごめんなさいね。説明不足でしたね。

 便座を温める機能がついているんですよ。ほかにも、お湯で洗う機能があるんですけど、それはまた今度にしましょうね」


 妙子は笑って補足の説明をした。


「それでは、最後はお風呂ですね。こちらですよ」


「ま、まだありますの……?」


 ロゼリーヌは精神的にだいぶ削られているようだ。


「これで最後ですから。覚えてしまえば簡単ですよ」


 妙子はそうフォローし、まずは湯船に湯を張る方法を教える。

 そうはいっても、スイッチひとつでそのあとは自動で完了するので手間がない。


「お湯が勝手に出てきますわ……! 人を使わなくても良いのね」


 ロゼリーヌは、浴槽に湯がたまっていく様子に目を見張る。


「そうですねぇ……まぁ、お掃除は必要になりますけどね」


 妙子はロゼリーヌに同意しつつ、次はシャワーの使い方を説明した。


「お湯が雨のように、上から……!?」


「ふふっ、そうですねぇ」


 毎度の如く驚くロゼリーヌの反応に、妙子もロゼリーヌが可愛く思えてきた。


「このままお風呂に入ってもらいましょうかねぇ。ロゼリーヌさん、入浴の準備をしましょう。

 慣れるまではしばらく、私が髪を洗いますね」


「ええ、わかったわ」


 身体にタオルを巻いたロゼリーヌは、促されるまま洗い場の椅子に腰かけた。


 妙子はまず、メイク落としと洗顔料の使い方を説明しながら、ロゼリーヌの洗顔を手助けする。


「まあ! 細かい泡がこんなに出るなんて……! それで、これをどうすればよろしいの?」


「この泡で洗顔をするんですよ。顔につけて、軽く滑らせるんです」


 ロゼリーヌはモコモコと膨れる白い泡に戸惑いながらも、なんとか一人で洗顔ができた。


 その後、妙子はシャンプー剤を使ってロゼリーヌの頭を洗う。


「少し上を向いてくださいね……そうそう。シャワーで泡を洗い流しますね」


 妙子はロゼリーヌが驚かないように説明をしながら髪の泡を洗い流し、コンディショナーを髪になじませ、再び丁寧に洗い流した。


 ロゼリーヌは素直に従い、洗髪をされる気持ちよさにうっとりとしているようだ。


「ふぅ、これでよしっ。

 ではロゼリーヌさん、体のほうはご自分で洗ってくださいね」


 長い髪に含まれた水滴を絞り、髪留めでまとめ上げたあと、妙子はロゼリーヌに声をかけた。


「えっ……? 体を、自分で……?」


 自分で身体を洗ったことのないロゼリーヌは、だいぶ戸惑っている。


「洗髪よりは簡単ですよ。まずはこうやって、ボディタオルを濡らして、次にボディソープを出して……」


 妙子はボトルの上部をプッシュして見せ、ボディタオルを軽く泡立ててからロゼリーヌに手渡した。


「これで体を擦るんですよ。練習だと思ってやってみてくださいね。

 私はすぐ外で待機してますから、わからないことがあれば声をかけてください」


 妙子からにっこりと泡つきのボディタオルを手渡されて、ロゼリーヌも観念したようだ。


「……わかったわ」


 妙子は手についた泡を流し、風呂場の外へ出た。

 手足を拭いていると、妙子が使う予定のベッドの端に寝転ぶ優奈の存在に気がつく。


「優奈ちゃん、あなたは風邪を引いてるんですから、そろそろ休みなさいな」


「もう熱ないってば!」


「さっき測ったとき、まだ少しありましたよ」


「ロゼリーヌがお風呂から上がるところまで見届けたら寝るから!」


「見届けなくていいんですよ」


 妙子は、楽しげにしている優奈に仕方ないわねと思いつつ、鏡台の前に置かれていたスツールを洗面所の近くに移動させ、そこに座った。


 優奈はふと、妙子に問いかける。


「妙子さんはさぁ……ロゼリーヌがゲームから出てきたっていう話、不思議に思わないの?」


「そりゃあ、不思議ですよぉ」


「じゃあ、信じてるの?」 


「そうですねぇ……。本当にゲームから出てきたのかどうかは、私には確かめようがありませんからねぇ」


「ふぅん……」


「でも、目の前に困っているロゼリーヌさんがいるのは確かでしょう? だったら今は、ご飯を食べてもらって、お風呂に入って、安心して休めるようにしてあげる。

 それが私にできることだと思っていますよ」


「信じるかどうかは、あとでいいってこと?」


「ええ。わからないことは、無理に答えを出さなくてもいいんですよ。

 難しいことを考えるのは、元春さんや玲奈さんにお任せします」


「ふぅん……。そういうもんなんだ?」


「そういうもんなんですよ」


 妙子はいつもの朗らかな笑みを浮かべ、そう答えた。


「妙子さん、これはどうすればよろしいのかしら?」


 風呂場の扉越しから、ロゼリーヌの呼ぶ声が聞こえてきた。


「はいはい」


 妙子は立ち上がり、風呂場の扉を少し開いてロゼリーヌの質問に対応した。


 ——ロゼリーヌが湯船に浸かり、体を温めたあとに風呂から上がってきた。


 頭にタオルを巻き、ガウン姿のロゼリーヌは、鏡台の前に座るよう促された。


「これは化粧水といって、洗顔のあとにつけると乾燥を防いで、お肌を整えてくれるんですよ」


 コットンに化粧水を含ませ、ロゼリーヌの顔全体にパッティングをしながら、妙子は説明をする。


「……化粧水なら、使っているわ」


 ロゼリーヌは軽く目を閉じて、その心地よさを感じながら返事をした。


「まぁ、化粧水はご存じでしたか。玲奈さんと私、こういうものが好きでしてねぇ。

 ……今はちょっとお肌が乾燥してるみたいですけど、だんだんと良くなってくると思いますよ」


 妙子は少し嬉しそうにそう言いながら、ロゼリーヌの肌に化粧水をなじませていく。


「ええ……香りがいいわね」


 ロゼリーヌは、素直な感想を口にしていた。


 化粧水の塗布が終わり、次に妙子はロゼリーヌにドライヤーを見せつつ先に説明を始めた。


「今からこれで髪を乾かしていきますからね。少し大きい音がして温かい風が出ますから。

 ロゼリーヌさんは座っているだけで大丈夫ですよ」


「……わかったわ」


 ロゼリーヌは了承したものの、実際どうなるのか想像がつかずに難しい顔をしている。


 そんなロゼリーヌの様子を微笑ましく思いながら、妙子はドライヤーのスイッチを入れて、髪を乾かし始めた。


「…………!」


 身構えてはいたが、ドライヤーの音と後頭部に温風が当たる感覚にビクッと体が揺れる。


 そんなロゼリーヌを優奈はこっそり観察して楽しんでいた。


 そして少し時間がかかったが、長い髪を乾かし終わる。


「はい、終わりましたよ」


 ロゼリーヌは鏡に映る自分を見て、目を見開いた。


 金色の髪は艶やかに輝き、指を通すと、驚くほど滑らかに流れていく。

 湯上がりの肌にも瑞々しい艶があり、頬はほんのりと色づいていた。


「まぁ……! すごいわ……!」


 ロゼリーヌは髪を一房すくい、何度も指先で感触を確かめた。


「お気に召したようで、よかったです」


 妙子は嬉しそうに笑った。


(あ! またキター!)


 再びロゼリーヌの周囲に青い花びらが舞い、その現象が見える優奈だけが楽しんでいた。


「さてと……。あとはもう寝るだけですからね? 優奈ちゃんもお部屋に戻った方がいいですよ?」


 妙子はブラシでロゼリーヌの髪を梳かしながら、そう言って優奈を促した。


「えぇー……。もうちょっとだけ……」


 ロゼリーヌの歯磨き姿も見守るつもりで優奈は粘ろうとしたが、


「玲奈さんと元春さん、そろそろお部屋に戻る頃なんじゃないですかねぇ?」


「あ、ヤバ! お休みー!」


 妙子の言葉を聞いた優奈はガバッと起き上がり、挨拶もそこそこにバタバタと部屋から出ていく。


「はい、お休みなさい」


 優奈なら一人でも部屋へ戻れるだろうと、妙子はその場から離れずに返事だけをして、優奈の後ろ姿を見送った。


 呆気に取られたロゼリーヌは、走り去る優奈を目で追うばかりだった。


(やっばー! 忘れてたけどママたち帰ってきちゃうじゃん! スマホもキーカードも置いてきてるし!!)


 優奈は大急ぎで廊下を走った。


 優雅に文句を言われるかもしれないが、何も持ってないので、呼び鈴を押して部屋の中から扉を開けてもらうしかない。


 そう作戦を立てた優奈だったが、客室の扉まであと少しというところで、正面の角を曲がってきた両親と鉢合わせした。


「優奈ぁぁー?」


 優奈を見つけた玲奈が、般若の笑顔で迫ってくる。


 隣で元春は苦笑いの顔だ。


「ご、ごめんなさいいぃぃぃぃ」


「静かにしなさいっ!」


 夜更かしをしたこと。

 廊下を走ったこと。

 その廊下で大声を出したこと。


 優奈は玲奈から三重に叱られることになった。


 ——優奈がベッドに押し込まれるようにして就寝したあと。


 ロゼリーヌは逆に、眠れずにベッドの上で過ごしていた。


 人と接している時は気も紛れるが、静かになった途端、本来の喪失感が押し寄せてくる。


 今日一日で、自分の身に起きた怒涛の出来事を反芻する。


 今朝はタウンハウスの自室で、これからの人生が決まる日だと意気込んでいた。


 だが、今はどうだろう。


 全く別の世界で、ある家族の保護を受け、こちらで暮らさなければいけなくなってしまった。


 その落差に、気持ちがなかなかついて行かない。


 見知らぬ家族は、自分に手を差し伸べてくれた。

 しかし、彼らが親切であればあるほど、家族も、慣れ親しんだ者たちもここにはいないのだと思い知らされる。


 まるで、勝負に敗れた自分へ下された罰のようだった。


 そう、自分は負けたのだ。


 ルードリヒの隣に立つはずだった未来も、これまで積み重ねてきた努力も、すべて失った。


 悔しい。

 辛い。

 悲しい。


 そして何より、心細かった。


 元の世界へ帰れるかもしれない。

 そのわずかな可能性に縋るほかない自分が、ひどく惨めに思える。


 隣のベッドからは、妙子の穏やかな寝息が聞こえている。


 それでも今のロゼリーヌには、自分が独りではないと気づく余裕などなかった。


 答えの出ない思考を巡らせるうち、やがて意識はゆっくりと眠りへ沈んでいった。

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