外伝2【第七騎士団創設記】第1章『灰色の牙が、白銀の枷を噛みちぎる時』
第1節:白銀の枷
その頃のレガリア王国軍には、眩いばかりの「栄光」の裏に、どこまでも深く、暗く淀んだ「影」が這いつくばっていた。
後に王国最強の「四つの矛と盾」と称えられ、民の希望の象徴となる諸騎士団は、未だ真の独立を果たしていない。軍の最高意思決定権、兵の配置、ひいては一兵卒に支給される小麦の量や矢の鉄塊に至るまで、すべての権力は戦場の土を踏んだこともなければ、飢えに震える民の叫びを聞いたこともない、きらびやかな衣装を纏った大貴族たちの最高合議機関――「貴族院」の分厚い壁の奥に、完全に握られていた。
騎士とは、国家の守護者ではなく、貴族たちの領地と財産、列強諸国に対する彼らの権威を護るための「都合の良い猟犬」に過ぎない。それが、当時のレガリアにおける絶対的な、東の国境から西の果てまで誰もが疑おうとしない常識であった。
「……規律こそが、軍人の、そして騎士の正義だ」
王都の中央にそびえ立つ、大理石で築かれた白亜の議事堂。その冷徹な廊下の片隅で、第一騎士団長ヴィルヘルムは、磨き上げられた純白の甲冑に身を包み、彫刻のように微動だにせず佇んでいた。
【白騎士】ヴィルヘルム・フォン・ヴァイスブルク。当年三十五歳。
騎士として、そして武人として、その肉体と剣技は間違いなく全盛期の頂点にあった。数々の国境紛争を生き抜き、無数の死線を潜り抜けてきたその双眸は、いかなる返り血にも染まらない冷徹な光を宿している。だが、その強靭な肉体を包むのは、若き日のような純粋な熱情ではない。三十五という年齢は、戦場の現実を、そしてこのレガリアという国家の歪んだ構造を嫌というほど理解させ、その上で「組織の長」として己の感情を殺し尽くす術を覚えさせるに十分な歳月であった。
彼の両腕に抱えられた「聖剣」は、未だ真に国を救うための光を放ってはいない。当時の彼は、貴族院から下される命令のすべてを完璧に、迅速に、そして一切の私情を挟まずに遂行することこそが、この老いた王国の秩序を維持するための唯一無二の道であると、自らに言い聞かせるようにして信じ込んでいた。生真面目で、頑ななまでに堅物な、文字通りの「冷徹な組織の歯車」。彼にとって、上層部の決定に疑問を抱くこと自体が、騎士の誓いに対する不忠であり、国家の法を揺るがす悪であった。そうして己の魂に冷たい蓋をすることで、彼は三十五の今日まで、第一騎士団という巨大な組織を維持し続けてきたのだ。
コン、コン、と、豪奢な絨毯が敷かれた床を、上質な革靴が叩く音が響く。
重厚な黒檀の扉が開き、部屋から出てきたのは、肥大化した身体を最高級の絹の礼服で包んだ、貴族院の重鎮たる大貴族であった。その顔には、前線で民がどれほど飢え、血を流しているかなどという緊張感は微塵もなく、ただ己の利権を守り通したことへの、下俗な満足感だけが浮かんでいる。その指先には、いくつもの宝石を散りばめた指輪が鈍く光っていた。
「おお、ヴィルヘルム団長。待たせたな」
大貴族は、脂ぎった手でヴィルヘルムの純白の肩当てを傲慢に叩いた。高価な香水の匂いが、廊下の冷たい空気に混ざって鼻を突く。
「北西の街道沿い、我が一族が管轄する精錬所と金鉱山の周辺で、また食い詰めた下層民どもが山賊団を組織して群れておるそうだ。浅ましい略奪者め、我らの美しい資産を脅かそうなどと不遜極まる。……そこでだ、第一騎士団への勅命である」
ヴィルヘルムは表情一つ変えず、静かに頭を下げた。甲冑の擦れる鋭い音が、静まり返った廊下に冷たく響く。三十五歳の彼は、この手の傲慢な貴族たちの扱いに、良くも悪くも慣れすぎていた。
「はっ。貴族院の御決定とあらば、我が第一騎士団、ただちに刃となりて敵を討ち果たしましょう」
「うむ。だがな、ヴィルヘルム。勘違いするなよ」
大貴族は、冷酷な笑みをその薄い唇に浮かべ、手元に広げた羊皮紙の地図を指さした。
「最優先で護るべきは、北西部に点在する我が一族の精錬所、および税収を蓄えた砦だ。その周辺にある貧民街や、小作人どもの農村など構う必要はない。あのような泥にまみれた連中など、いくらでも代わりがきく。彼らはただの労働力に過ぎん。兵力を分散させず、我らの財産が保管されている防衛線だけを、鉄塞の如く固守せよ。分かったな?」
「……。」
ヴィルヘルムの脳裏に、一瞬だけ、凍てつくような冷たい風が吹き抜けた。
財産の防衛を優先し、そこに生きる数百、数千の民の命を「代わりがきく」と切り捨てる。それが、この国の最高権力者たちが下した、絶対の決定であった。
三十五歳という年齢は、その命令の裏にある非道を見抜けないほど愚かではない。むしろ、あまりにも鮮明に、その結果引き起こされる悲劇が予測できてしまう。精錬所を守るために兵を固めれば、麓の農村は間違いなく山賊の蹂躙を受け、地獄絵図と化すだろう。
内心の奥底で、何かが小さく軋むような、言葉にならない違和感が疼く。十五年前、まだ何も知らなかった若き頃、聖堂で誓った「弱きを助ける」という騎士の誓約が、頭の中で微かに警鐘を鳴らした。
だが、成熟した軍人であるヴィルヘルムはその違和感を、強靭な精神力と冷徹な理性で、即座に圧し潰した。
(私は軍人だ。第一騎士団を率いる長だ。私的な感情や、安っぽい同情で、国の最高決定を疑うことは許されない。規律が崩れれば、軍は機能しなくなり、国家そのものが瓦解する。民を救うための戦いであっても、それを決定するのは私ではなく、貴族院なのだから。私の正義は、規律の遵守にこそある。私は、組織の歯車でなければならない――)
「――御意。第一騎士団、これより北西の防衛線へと出陣いたします。貴族院の資産、一銭たりとも山賊どもの手に渡させはしません」
冷徹な、あまりにも冷たい声でそう応えると、ヴィルヘルムは翻り、大理石の廊下を歩き去った。三十五歳の彼の背中で、白銀の枷が、まるで見えない鎖のように重く、悲しく鳴り響いていた。それが、レガリアを破滅へと向かわせる「正しき狂気」であることにも気づかずに。彼は己の正義を信じ、己の魂を殺しながら、鉄の足取りで戦場へと向かうのだった。
第2節:灰狼の牙
第一騎士団が「資産の防衛」のために、重い輜重の隊列を引き連れて遅すぎる進軍を開始していたその頃。王都から遥か北西の街道沿いに広がる農村地帯は、すでに静かな地獄へと変貌しつつあった。
長引く大飢饉。中央貴族たちによる、容赦のない最後の一粒までの徴税。生きるためのすべてを毟り取られ、ただ干からびて死ぬのを待つだけとなった下層民の一部は、生き延びるために法を捨て、刃を握った。それらが膨れ上がり、雪だるま式に巨大化した無法者の群れ――「北西の山賊団」は、すでに単なる数人の追剥の域を超え、地域一帯の治安を根底から崩壊させる巨大な暴力の塊と化していた。
この日も、その山賊団の先遣隊とされるおよそ百人の暴徒が、錆びついた剣や農具を武器に変え、狂ったような怒号を上げて一つの小さな農村へと乱入していた。
「ぎゃははは! 騎士団の奴らは砦の分厚い壁に引き籠もって出てこねぇ! 分捕れるだけ分捕っていけ! 逆らう奴は叩き斬れ!」
乾いた藁葺き屋根に火が放たれ、黒い煙が青空を汚していく。引き裂かれる女の悲鳴、命乞いをする老人の頭を無慈悲に踏みつける粗暴なブーツの音。略奪に手を染めた者たちの顔には、かつて同じ農民であったはずの同胞への憐れみなど微塵もない。自分たちよりさらに弱い存在を蹂躙し、そのわずかな蓄えを奪い取ることに、歪んだ歓喜と生存への狂気を見出していた。王国の法はすでに、この地の民を護る盾としては機能していなかった。
その絶望の泥濘の中に、まるで冷徹な鉄の楔を打ち込むかのように、乾いた、しかし重みのある足音が近づいてきた。
「おいおい。どいつもこいつも、 下品なツラしやがって。俺たちの縄張りで、勝手に美味そうな獲物を漁ってんじゃねぇよ、泥棒猫ども」
地獄と化した村の入り口、立ち込める硝煙と塵土の向こう側から、ゆっくりと進み出てきたのは、レガリア王国の洗練された純白の甲冑とは似ても似つかない、傷だらけの黒鉄の防具を身に纏い、狼の皮を肩から乱暴に羽織った一団であった。
その先頭に立つ男こそが、若き日の【灰狼】リチャード・ガルフレイズ。――当時はまだ騎士団長ではなく、戦場を渡り歩く餓狼どもの首領、「灰狼傭兵団」の頭目であった。
当時のリチャードは、二十代半ば。まだ彫りの深い顔立ちには少年の一歩先にある青さがわずかに残っていたが、その肌は幾度もの陽灼けと硝煙によって浅黒く引き締まり、無数の細かな戦傷が刻まれていた。特に左の頬から顎へと斜めに走る一本の古い切り傷は、彼の獰猛な笑みをいっそう際立たせている。
王宮の騎士たちが纏う細工物の甲冑とは異なり、彼の身に纏うのは、死んだ敵の死体から剥ぎ取った鉄板を繋ぎ合わせ、無骨な鋲で打ち付けただけの歪な黒鉄の胸当てだった。あちこちが剣戟で凹み、錆止めの油と、乾いて変色した他人の血が層を成してこびりついている。その太い両腕は剥き出しのままで、編み上げられた革の籠手からは、浮き出た無数の血管と、獣のような強靭な筋肉が覗いていた。肩から乱暴に羽織った灰狼の毛皮は、かつて彼が独りで仕留めた巨大な野生狼の遺骸であり、風に揺れるその毛並みは、彼自身が持つ「野生の狂暴さ」を雄弁に物語っていた。
そして何より、その前髪の隙間から覗く双眸――濁りのない、しかし底知れない飢えを孕んだその黄金色の瞳は、目の前の暴徒たちを冷徹に見据えていた。彼が腰の左右に下げた、反りの異なる二振りの実戦用片手剣の柄に深く指をかけると、周囲の空気が一瞬にして凍りつくような緊張感に支配される。
「……また始まった」
リチャードのすぐ後ろから、巨大な影が音もなく滑り出してきた。
長槍を器用に回しながら進み出たその男は、若き日のアイザックである。後に第2騎士団団長【鉄壁】のアイザックと呼ばれるその男は、当時はまだ大盾ではなく、その強靭な肉体を活かした前衛の長槍使いとして、傭兵団の「副長」を務めていた。
アイザックの体躯は、リチャードよりも頭一つ分大きく、まるで岩石を削り出して作ったかのような圧倒的な威圧感を放っていた。横幅のある頑強な肩甲骨、丸太のように太い首周り。まだ二十代前半でありながら、その風貌はすでに百戦錬磨の老兵のような落ち着きを払っている。短く刈り込まれた赤茶色の髪は汗で額に張り付き、その太い眉の下にある実直そうな茶色の瞳は、戦場のすべてを冷静に分析していた。
彼の纏う防具もまた実用一点張りで、厚手の牛革のジャケットの上に、分厚い鉄輪を編み込んだチェインメイルを重ね着している。彼が歩くたびに、目の詰まった鎖が擦れ合い、ジャラジャラと重い金属音を立てた。その右手に握られているのは、一般的な騎士のそれよりも二尺は長い、特注の重長槍である。その極太の木製の柄には、彼の強すぎる握力によって指の形に馴染んだ手垢と凹みが刻まれており、先端の巨大な三日月型の刃は、曇り一つなく研ぎ澄まされていた。
アイザックは周囲の燃え盛る村々を素早く見回し、やれやれと首を振った。
「頭。今回の依頼主の大商人は、確かに『中央の街道を護れ』と言ってたはずだぜ? 街道をわざわざ外れて、こんな山賊の先遣隊百人を文字通り『ボコる』のは簡単だが、一銭の報酬にもなりゃしねぇ。本当、あんたの野生の勘ってやつは、俺たちの財布に優しくないな。ただの無駄働きだ。傭兵としちゃ、割に合わねぇよ」
アイザックの言葉は、傭兵としての冷徹な正論であった。彼らは命を売って金を得る存在であり、無償で民を救う聖者ではない。兵の命を危険に晒す以上、そこには明確な対価が必要だった。
だが、リチャードは腰の鞘から二振りの剣を静かに引き抜きながら、不敵な、剥き出しの牙のような笑みをその顔に浮かべた。
「うるせぇよ、アイザック」
リチャードの視線は、恐怖に震えながら地面に這いつくばり、自分たちを見上げる、泥にまみれた子供の姿を捉えていた。その瞬間、彼の眸の奥で、単なる打算を超えた、昏く熱い「野生の矜持」が静かに、しかし激しく燃え上がった。
リチャードという男は、口ではぶっきらぼうなことや打算的なことを言ってみせても、その根底には、不条理に踏みにじられる弱者を見過ごせない、強烈な美学を持っていた。持たざる者が、さらに持たざる者を叩く。その世界の縮図のような浅ましさが、彼の虫酸を激しく走らせていた。
「この村を山賊から横取りすりゃ、ここを俺たちの次の補給拠点にできる。それに、山賊の持ち物(ぶんどり品)は全部俺たちのものだ。……何よりな、あいつらのツラが気に入らねぇ。自分より弱い奴をいたぶって、それで強くなった気でいるクソ野郎どもを見ると、吐き気がすんだよ。おい、餓狼ども! 獲物の質は最悪だが、牙を研ぐには丁度いい広さだ! 一匹残らず噛み殺して、その腐った肉を地面にぶちまけろッ!!」
「「「おおおおおッ!!!」」」
リチャードの咆哮に呼応し、泥と返り血に汚れた二百の傭兵たちが、一斉に獣のような速度で突撃を開始した。
正規騎士団のような美しい陣形も、統制されたラッパの号令もない。あるのは、ただ圧倒的な個の武力と、死線を潜り抜けてきた者だけが持つ、言葉を必要としない「野生の連動」。誰かが動けば、その死角を別の誰かが埋める。獲物を追い詰める狼の群れそのものの動きだった。
その戦闘は、戦いと呼ぶにはあまりにも一方的な、【圧勝】であった。
数において二倍、さらに実戦の質において山賊などとは比べ物にならない傭兵たちの前に、統率のない山賊の先遣隊百人は、まともな抵抗すらできずに瓦解していった。
「が、あぁっ!?」
リチャードが地を蹴り、弾丸のように敵陣へと突っ込む。彼の双剣が閃くたびに、山賊の武器ごと肉が容易く切り裂かれ、鮮血が頭上に舞う。彼の動きには一切の無駄がなく、ただ最も確実に、最も効率的に敵の命を絶つための軌跡を描いていた。敵の刃を紙一重でかわし、その懐に潜り込んでは喉元を正確に掻き切る。
その傍らで、アイザックの長槍が電光石火の如き突きを見せていた。彼の巨躯から放たれる一突きは、山賊の安物の胸当てなど紙細工のように貫通し、背後の家屋の木柱まで敵を縫い付ける。力任せの破壊力でありながら、その槍さばきは緻密そのもので、リチャードの背後を完璧にカバーしていた。
「ひ、引き返せ! こいつら、ただの傭兵じゃねぇ! 本物の化け物だ!」
山賊の一人が恐怖に顔を歪めて叫ぶが、その背中を傭兵たちの斧が容赦なく叩き割る。逃げようとする者の足を払い、包囲し、確実に息の根を止めていく。
わずか半刻にも満たない戦闘で、村を襲った山賊の先遣隊は全滅、あるいは再起不能の深手を負って散り散りになって敗走していった。傭兵団側の被害は、かすり傷や軽傷が数名という、言葉通りの圧倒的な勝利であった。
「ふぅ、片付いたな」
アイザックが槍についた血を払いながら、周囲に転がる死体を見下ろした。「これでこの村の食糧と、山賊どもの身ぐるみが俺たちの報酬ってわけだ。結果だけ見りゃ、悪くない取引だったかもな、頭」
「ハン、だから言ったろ」
リチャードは双剣を鞘に収め、怯えながらも自分たちを命の恩人として見つめる村人たちを振り返った。その表情は、先ほどまで敵を屠っていた狂暴さが嘘のように、どこか淡々としていた。
「おい、百姓ども。当分は俺たちがここに居座ってやる。大人しく飯の用意でもしな」
リチャードはそうぶっきらぼうに言い放つと、懐から取り出した干し肉を、先ほどまで怯えていた子供の前に放り投げ、そのまま村の広場へと歩き出した。その背中は、泥にまみれていながらも、王都のどの騎士よりも傲慢で、そして確かな誇りをまとっていた。金では買えない、彼なりの「正義」が、その足取りには刻まれていた。
第3節:白と灰の邂逅
第一騎士団が貴族院の資産たる金鉱山と精錬所の外周に「完璧な防衛線」を構築し終えたのは、山賊の先遣隊が麓の農村へと進撃を開始してから、優に数刻が経過した後のことだった。
岩肌の剥き出しになった山道に、白銀の甲冑を纏った数千の重装騎士が整然と並び立つ様は、確かに一幅の絵画のような美しさと威圧感を誇っていた。しかし、その強固な「鉄の壁」は、ただの一歩も山を下りようとはしなかった。彼らが守るべきは背後にある冷たい金塊と、大貴族の私有物たる精錬所の炉だけだったからである。
「報告いたします」
斥候の騎兵が、なにやら慌ただしくヴィルヘルムの元へと駆け戻ってきた。
「麓の農村を襲撃した山賊の先遣隊およそ百名……先ほど、完全に沈黙いたしました。戦闘は終了した模様です」
ヴィルヘルムは白馬の手綱を握ったまま、表情一つ変えずにその報告を聞いた。
「そうか。山賊どもは村を焼き払い、次の略奪地へ向かったか。あるいは、我が第一騎士団の威容を恐れて山へ引き返したか」
「いえ、それが……」斥候は困惑と、いまだ信じられないといった怯えの混ざった声を絞り出した。「山賊団は、撤退したのではありません。……『全滅』したのです。それも、騎士団の介入によるものではなく、突如として現れた正体不明の不正規兵の群れ――『灰狼傭兵団』を名乗る野良犬どもによって、文字通り徹底的に叩き潰されました」
「傭兵だと?」
ヴィルヘルムの傍らにいた副官が、鋭い声を上げた。
「馬鹿な。あんな辺境の貧村に、百人の山賊を撃退できるような防衛戦力があるはずがない。大商人が雇った護衛の生き残りか? いや、それにしても数が合わん。団長、いかがいたしますか。山賊が壊滅したとなれば、我らの防衛任務に支障はありませんが……」
ヴィルヘルムは、純白の兜の奥にある双眸を、遥か麓の村へと向けた。
たしかに立ち上る黒煙の量は、村が完全に焼き尽くされたにしてはあまりにも少なかった。むしろ、火災は初期の段階で食い止められ、煙はすでに白く燻る程度に収まっている。
(軍令に拠らず、自らの意志で動き、山賊の先遣隊を駆逐した軍勢がいるというのか。……一体、何のために。あの村には、傭兵団に支払う報酬など一銭も残されてはいないはずだ)
三十五歳のヴィルヘルムがこれまで生きてきた世界において、軍隊の移動には常に「命令」か「明確な利益」が存在した。それ以外の動機で命を懸ける兵の存在など、彼の強固な規律の教科書には一行たりとも記載されていない。
「……麓の村へ進軍する」
ヴィルヘルムの低い声が、静寂に包まれた前線に響いた。
「な、何をおっしゃるのですか、団長!」副官が血相を変えて馬を並べる。「貴族院の命令は、この精錬所と砦の死守です! 兵力を移動させ、防衛線に穴をあけるなど、明確な軍令違反となります!」
「山賊の先遣隊は壊滅した。現在、この拠点を直接脅かす脅威は存在しない」
ヴィルヘルムは冷徹な面持ちのまま、馬首を巡らせた。その声には、三十五年の軍歴が培った、部下に反論を許さない絶対的な威厳があった。
「周辺の治安状況を確認し、新たな脅威の有無を偵察することもまた、前線指揮官に委ねられた裁量の範囲内だ。本隊の半分はここに残置する。私が直率する五百騎のみで、麓の状況を検分する。……行くぞ」
白銀の駒が、蹄の音を響かせて山道を下り始める。規律を至上の正義としながらも、ヴィルヘルムの胸の奥底には、どうしても自分の目で確かめねばならないという、理屈を超えた衝動が芽生えていた。
第一騎士団の精鋭五百騎が、整然たる隊列を崩さずに麓の農村へと入った時、彼らを迎えたのは、王都の議事堂では決して嗅ぐことのない、生々しい「戦場の悪臭」だった。
燃え落ちた藁の焦げる匂い、内臓をぶちまけられた馬の死臭、そして、地面の赤土をどす黒く染め上げる、大量の新鮮な人間の血の匂い。
「これは……」
追従する騎士たちの間から、一斉に息を呑む音が漏れた。
村の入り口から中央の広場へと続く一本道には、およそ百体に及ぶ山賊たちの死体が、文字通り累々と横たわっていた。そのどれもが、一撃、あるいは最低限の手数で致命傷を負わされている。喉を正確に貫かれた者、胸当てごと心臓を叩き割られた者。そこにあるのは、騎士団が誇る「華麗な剣技の応酬」などではなく、ただひたすらに効率と生存だけを追い求めた、凄惨極まる【屠殺】の痕跡だった。
そして、その死体の山を片付けている者たちの姿が、ヴィルヘルムの眸に飛び込んできた。
傷だらけの黒鉄の胸当てを纏い、泥と返り血にまみれた男たち――灰狼傭兵団。
彼らは第一騎士団の象徴である純白の甲冑の大軍が押し寄せてきたというのに、怯える素振りすら見せなかった。ある者は山賊の死体からまだ使えそうなブーツを乱暴に剥ぎ取り、ある者は錆びた剣の刃こぼれを砥石でガリガリと削っている。その誰もが、獣のような鋭い眼光を騎士たちへ向け、隠そうともしない敵意と侮蔑を放っていた。
ヴィルヘルムは白馬を歩めさせ、村の中央広場へと進んだ。
そこで、彼の価値観の根底を激しく揺るがす、決定的な光景を目撃することになる。
広場の中心では、灰狼傭兵団の頭目であるリチャードが、折れた木箱に腰掛け、細い煙草に火をつけていた。彼の黒鉄の鎧は敵の血を浴びて赤黒く汚れ、左の籠手からはじわりと自身の血が滲んでいる。だが、その顔には疲弊の色はなく、ただ退屈そうに煙を吐き出していた。
そのリチャードの足元に、一人の老いた村長と、小さな子供が、震えながら平伏していた。
「あ、ありがとうございました……! 傭兵の旦那がたがいらっしゃらなければ、私たちは今頃、全員命を失い、村は灰になっておりました……。これは、村に残された本当にわずかばかりの麦と、干し肉です。どうか、お受け取りください……!」
老人が差し出したのは、泥に汚れた小さな麻袋だった。中身は数日分の食糧にも満たない、お世辞にも「報酬」とは呼べない代物だった。傭兵が命を賭けた対価としては、あまりにも惨めで、あまりにも安すぎる。
リチャードは煙草をくわえたまま、その麻袋を片手でひょいと受け取ると、中身を一瞥してフンと鼻を鳴らした。
「少ねぇな。まあ、無いよりはマシか。おい、アイザック、これを受け取っとけ」
「へいへい」背後に控える巨躯のアイザックが、長槍を肩に担いだまま、呆れたように笑って袋を受け取る。「これでまた、今夜のスープの具が薄くなるな。割に合わねぇ仕事だぜ、全く」
ヴィルヘルムは、そのやり取りを馬の上からじっと見下ろしていた。
彼の胸の内に、言葉にならない巨大な衝撃が、強烈な地殻変動となって押し寄せていた。
(何ということだ……。彼らは、このわずかな、路傍の石切れにも等しい報酬のために、百の山賊と命懸けで戦ったというのか? 騎士団が『代わりがきく労働力』として切り捨て、防衛を放棄したこの小作人たちのために、国にも属さない野良犬どもが血を流して戦ったというのか)
ヴィルヘルムの脳裏に、王都の白亜の廊下で大貴族が放った言葉が、再び不気味に蘇る。
『あのような泥にまみれた連中など、いくらでも代わりがきく。我らの財産が保管されている防衛線だけを、鉄塞の如く固守せよ』
国家の正義を自処する貴族院は、民の命をゴミのように見捨てた。
一方で、法の外に生きる泥臭い傭兵たちは、一銭の得にもならないこの村に留まり、自らの牙を振るって民を護りきった。
どちらが「正しく」、どちらが「醜悪」なのか。
三十五年間、ヴィルヘルムが疑うことすら知らなかった「規律=正義」という絶対の方程式が、この泥にまみれた小さな広場で、音を立ててメリメリと崩壊していく。目の前で繰り広げられているのは、彼の洗練された戦術教科書には存在しない、しかし間違いなく本物の「守護」の光景だった。
魂を激しく揺さぶられるような衝撃の中、ヴィルヘルムは無意識のうちに、白馬を一歩前へと進めていた。
その蹄の音を敏感に察知し、リチャードがゆっくりと顔を上げた。
前髪の隙間から覗く黄金色の瞳が、磨き上げられたヴィルヘルムの純白の甲冑を、そしてその腕に抱かれた聖剣を、まっすぐに射抜く。
リチャードはくわえ煙草のまま、唇の端を吊り上げ、極めて挑発的な、嘲るような笑みを浮かべた。
「おいおい、見ろよアイザック。お上品な王都の『白サギ』がお出ましだぜ。泥棒猫どもが綺麗に片付いた後で、一体何の御用だ? もしかして、俺たちの獲物を横取りしに、わざわざ山を降りてこられたのかよ?」
その言葉は、三十五歳の騎士団長のプライドを容赦なく逆なでする、鋭い刃のようであった。
ヴィルヘルムとリチャード。白銀の枷に縛られた騎士と、灰色の牙を持つ傭兵。二人の男の視線が、戦火の燻る広場の中央で、激しく火花を散らして衝突した。
第4節:何のために剣を振るう
日の名残りである薄明が北西の山影へと没すると、辺境の農村は急速に、夜の冷気と漆黒の闇に包まれていった。
昼間の戦闘で半壊した広場の一角。山賊たちの死体はすでに村の外へと片付けられ、赤土に染み込んだ血が、夜露に濡れて鈍く光っている。その広場の中央で、爆ぜる音を立てて赤々と燃え盛る一つの焚き火があった。
第一騎士団の精鋭五百騎は、村の外れの丘の上に整然と宿営地を張り、一糸乱れぬ規律のもとで警戒任務に就いている。彼らが発する鉄の気配は、暗闇の中でも圧倒的な威圧感を放っていた。
しかし、その騎士たちの長であるヴィルヘルムは、兜を外し、ただ一人で焚き火の傍らに佇んでいた。
三十五歳の彼の横顔は、炎の揺らめきに照らされ、深い陰影を刻んでいる。
昼間、この場所で目撃した「持たざる者が、一銭の得にもならぬ民のために血を流した」という事実。それが、彼の胸の奥で燻り続け、魂をじりじりと焼き焦がしていた。己が信じてきた、命を懸けてきた王国の規律とは、一体誰のためのものだったのか。答えの出ない問いが、彼の理性を責め苛んでいる。
「――おいおい。お高くとまった騎士団長様が、そんな無防備に火の前に突っ立ってていいのかよ。後ろの身内(お仲間)に護ってもらわなきゃ、夜の追剥に首を撥ねられちまうぜ?」
闇の向こうから、砂利を踏みしめる不遜な足音とともに、低い声が響いた。
現れたのはリチャードだった。
彼は黒鉄の胸当てを外した薄汚れたリネンのシャツ姿で、むき出しの両腕には昼間の戦闘で負った傷の手当として、雑な包帯が巻かれている。その手には、安物の強い酒が入った土焼きの瓶が握られていた。
ヴィルヘルムは視線だけをリチャードへと向けた。その眸は、昼間のような冷徹な拒絶ではなく、どこか計り知れない重みを孕んでいる。
「……貴殿らの宿営地は、村の西側のはずだな、傭兵」
「宿営地ぃ? 冗談言うなよ。俺たち野良犬には、お前らみたいな等間隔に並んだ綺麗な天幕なんて上等なもんはねぇよ。そこらの崩れた民家の軒下が、今夜の俺たちのねぐらだ」
リチャードは鼻で笑うと、焚き火を挟んでヴィルヘルムのちょうど対面の切り株に、大股を開いてドカリと腰掛けた。そして、酒瓶の栓を歯で引き抜き、汚れた喉へと一気に流し込む。
「ぷはぁ……。にしても、騎士団長様直々のお出ましとは恐れ入る。昼間、俺の言葉にビビって山へ逃げ帰るかと思ったが、わざわざこんな泥臭い場所に居残るたぁ、物好きにも程があるな。それとも何か? 軍法会議だか何だか知らねぇが、俺たちに『無断で山賊を横取りした罪』とやらでも着せにきたか?」
リチャードの言葉は、終始挑発的だった。三十五歳のヴィルヘルムの立場や権威など、一銭の価値もないと言わんばかりの態度である。
並の騎士であれば、この無礼極まる態度に激昂し、即座に剣を抜いていただろう。しかし、ヴィルヘルムは動かなかった。彼は静かに視線を炎へと戻し、低く、重い声を絞り出した。
「……私は、貴殿を咎めに来たのではない。ただ、問いに答えを求めに来た」
「問いだぁ?」リチャードは眉をひそめ、黄金色の瞳を細めた。
「昼間、貴殿らはわずか数日分の食糧という、お世辞にも報酬とは呼べぬ代物のために、百の山賊と命懸けで戦った。傭兵とは金で動く不正規兵のはず。割に合わぬ戦いを避け、即座に撤退することこそが、貴殿らの合理であるはずだ。……なぜ、あの村を、民を護った」
ヴィルヘルムの問いは、あまりにも真摯で、そして痛切だった。
リチャードは一瞬、呆れたように天を仰ぎ、それからクククと低く笑い声を漏らした。その笑いは、次第に大きくなり、やがて夜の静寂を切り裂くような、嘲りの混ざった乾いた笑いへと変わる。
「ハハハハ! おいおい、本気で聞いてんのかよ、三十過ぎた大人がよぉ! 聞いてりゃ呆れる、さすがは王都の温室で育った『綺麗な騎士様』だ。理由がなきゃ、人が人を助けちゃいけねぇのか?」
「理由がなければ、兵は動かん!」
ヴィルヘルムの声が、初めて激昂を孕んで鋭く響いた。彼は一歩前へ踏み出し、焚き火の炎越しにリチャードを睨みつけた。
「軍隊とは、騎士とは、大義と規律、そして正当な命令によってのみ動くものだ! 感情や気まぐれで刃を振るえば、それはただの暴力であり、略奪者と何も変わらん! 貴殿らの行動には、拠って立つ『正義』の根拠がない!」
「正義の根拠、だと……?」
その瞬間、リチャードの顔から笑みが完全に消え失せた。
黄金色の眸に、昼間の戦闘時よりもなお昏く、圧倒的な質量を持った「殺気」が宿る。リチャードはゆっくりと立ち上がると、焚き火の熱をものともせず、ヴィルヘルムの至近距離まで顔を近づけた。二人の男の視線が、火花を散らして正面から衝突する。
「お前らの言う『正義』ってのは、あの山の上で、百姓どもが殺されるのを指をくわえて見てることかよ」
リチャードの声は、地を這うように低く、そして残酷なまでに鋭かった。
「お前ら騎士団は、貴族院のクソ野郎どもの命令一つで、あの砦に引き籠もってた。守るべきは金塊と精錬所、泥にまみれた百姓は代わりがきくから見捨てろ、とでも言われたんだろ。……それが、お前のお立派な『規律』が導き出した『正義』の正体だろ、ヴィルヘルム」
ヴィルヘルムの身体が、一瞬だけ目に見えて硬直した。一番触れられたくない、己の胸の中で血を流している矛盾の核心を、この若き傭兵は容赦なく抉り出してきたのだ。
「それは……王国の秩序を維持するための、大局的な判断だ。一局の犠牲を厭わねば、国家そのものが――」
「国がどうなろうと知ったことかよッ!!」
リチャードの怒号が、焚き火の爆ぜる音をかき消した。
「目の前で子供が泣き叫んで、親が首を撥ねられそうになってる。それを『命令がないから』『規律だから』って理由で見殺しにできるお前のその神経が、俺には到底理解できねぇし、反吐が出るんだよ! 秩序だの大局だの、綺麗な言葉で自分の弱さと不手際を言い訳すんじゃねぇ!」
リチャードは一歩前へ踏み込み、ヴィルヘルムの胸当てを指先で激しく小突いた。コン、コン、と硬質な音が響く。
「お前が纏ってるその白銀の甲冑はな、民を護るための盾じゃねぇ。貴族の飼い犬であることから目を背けるための、ただの『目隠し』だ。お前は三十過ぎにもなって、自分の頭で考えることを放棄し、規律っていう都合の良い檻の中で丸くなって寝てるだけの、ただの綺麗な操り人形なんだよ!」
「黙れ……ッ!」
ヴィルヘルムの右手が、無意識のうちに腰の聖剣の柄へと伸び、凄まじい金属音が響いた。周囲を警戒していた第一騎士団の部下たちが、異変を察知して一斉に剣の柄に手をかける。緊迫感が最高潮に達し、一触即発の空気が広場を支配した。
だが、リチャードは身構えることすらしなかった。むしろ、自分の喉元にヴィルヘルムの剣が突きつけられるのを歓迎するかのように、不敵に首を傾げてみせた。
「斬りたきゃ斬れよ、団長様。だがな、お前が俺を斬ったところで、お前らがこの村を見捨てたっていう事実は一ミリも消えねぇ。お前らが切り捨てた泥の中に、俺たち野良犬が牙を突き立てて、死に物狂いで掴み取ったのが、今日の勝利だ。金じゃねぇ、大義でもねぇ。俺たちが動いたのは、俺たちの『美学』だ。持たざる者が、さらに持たざる者を踏みにじる。そのクソみたいな世界の理不尽が、俺の野生のプライドに触った。だから噛み殺した。それ以上の根拠が、一体どこに必要だよ」
リチャードはそう言い放つと、ヴィルヘルムの手を乱暴に撥ね退け、何事もなかったかのように酒瓶を煽りながら村の方へと帰って行った。
ヴィルヘルムは、剣の柄にかけた右手を、小刻みに震わせていた。
斬ることなど、到底できなかった。なぜなら、リチャードの放った言葉の一言一言が、あまりにも残酷な、そしてあまりにも純粋な「真実」として、彼の三十五年の人生の根幹を完全に粉砕していたからである。
(私は……ただの操り人形だったのか。規律という名の都合の良い檻に逃げ込み、真に守るべきものから目を背けていたのは、この私だったのか――)
白銀の枷が、彼の魂を締め付ける。その鎖が、今や痛々しいほどの重圧となって、ヴィルヘルムの心臓を圧迫していた。彼は、自分が信じてきた世界のすべてが、この一人の傭兵の牙によって、完膚なきまでに噛みちぎられたことを理解した。
沈黙が、重く、重く降り積もる。
赤々と燃える焚き火だけが、狂ったように夜の闇を照らし続けていた。ヴィルヘルムは自らの限界と、そしてこれから歩むべき終わりのない迷路の入り口に、立ち尽くしていた。
第5節:
夜明け前の農村は、乳白色の深い霧に包まれていた。
焚き火の跡はすっかり冷え込み、ただ灰色の煙がわずかに揺れている。切り株に腰掛けたまま、一歩も動かずに夜を明かしたヴィルヘルムの純白の甲冑には、冷たい夜露が無数に滴り落ちていた。三十五年の人生で、これほど長く、これほど自らの魂と対峙した夜はなかった。リチャードに言われた「操り人形」という言葉が、今も彼の胸の奥を鋭く抉り続けている。
その静寂を、大地を狂ったように揺るがす「地鳴り」が切り裂いた。
「――っ! 来やがったか!」
崩れた民家の軒先で横になっていたリチャードが、弾かれたように跳び起きた。その黄金色の眸は、霧の向こうから迫る圧倒的な殺気をすでに捉えている。
村の外周に配備されていた灰狼傭兵団の斥候が、息を切らせて広場へと駆け込んできた。
「頭! 山賊の本隊だ! 昨日の先遣隊の全滅を聞きつけて、周辺の同盟組織を全部掻き集めやがった! その数、ざっと見積もって一千……! 武器を持てる野郎どもが、蟻の群れみたいにこの村へ向かって進軍してきてる!」
「千だと……!?」
背後から現れたアイザックが、特注の重長槍を握り締め、太い眉を限界まで跳ね上げた。「おいおい、冗談だろ。先遣隊の十倍の軍勢じゃねぇか。いくら俺たちが百戦錬磨でも、たったの二百で五倍の敵を正面から迎え撃つのは、さすがに傭兵の仕事の範疇を超えてるぜ」
「ハ、上等じゃねぇか」
リチャードは恐怖するどころか、唇の端を獰猛に吊り上げた。腰の二振りの片手剣を引き抜き、その鋭利な刃を互いに擦り合わせて金属音を響かせる。
「二百が千を食い千切る。飢えた狼の戦いとしちゃ、これ以上ないほどクソったれで最高な舞台だ。おい、アイザック! 村人どもを地下の塞に隠せ! 牙を研ぎ澄ませ、餓狼ども! 数がなんだ、頭(脳みそ)の足りねぇ豚どもに戦い方を教えてやる!」
霧が朝日によって徐々に薄れていく中、村の入り口を埋め尽くしたのは、地平線を覆い尽くさんばかりの山賊の本隊――千人の暴徒たちだった。彼らは錆びついた槍や大斧を掲げ、津波のように押し寄せてくる。
「殺せぇぇぇッ!! 狼どもの皮を剥いで肉を喰らえ!!」
狂ったような怒号とともに、山賊の第一波が村へと乱入する。だが、その瞬間から、【灰狼】リチャードの天性ともいうべき「戦場指揮」が牙を剥いた。
「今だ、アイザック! 中央をわざと開けろ! 敵を縦長に引き込め!」
リチャードの鋭い怒号が響く。
「応!」前衛のアイザックが長槍を掲げて左右に兵を割ると、勢いに乗った山賊たちは遮二無二村の細い中央通りへと流れ込んできた。
「バカどもが、袋の鼠だ! 左右の屋根裏、射手ども、交互にブチ抜けッ!」
リチャードの指示の元、あらかじめ崩れた民家の壁裏や藁屋根に潜んでいた傭兵の弓兵が一斉に矢を放つ。一本の狭い路地に密集した山賊たちは、回避する場所すらなく、前頭部から次々と串刺しになって倒れ伏した。
「足を止めるな! 第三分隊は裏路地から回り込んで敵の『横腹』を突け! 第四分隊はあえて退路を一つ残して揺さぶりをかけろ! 全員殺すんじゃねぇ、逃げ惑う奴らを盾にして後続の進軍を妨害しろ!」
リチャードの指揮は冷徹かつ極めて実践的だった。正規軍のような華麗な太鼓やラッパの合令はない。彼の口から放たれる短い罵声と指示が、二百の傭兵たちの手足となって完璧に機能していた。敵の圧倒的な「数の暴力」を、地形の狭さと敵自身の死体という障害物を使って完全に分断し、局所的な「数の優位」を常に傭兵側が作り出し続ける。
中央広場では、リチャード自身が文字通り「狂犬」となって立ち回っていた。
敵の放つ粗暴な大斧の振り下ろしを、紙一重のバックステップでかわすと同時に、右の片手剣で敵の腱を切り裂き、返す左の剣で喉元を正確に掻き切る。
「ほらほら、どうした! 数だけは立派だが、腰が引けてんぞ!」
挑発を交えながら、リチャードは敵の攻撃の「死角」へ、影のように滑り込んでは命を奪っていく。彼の双剣が描く軌跡は、効率と生存だけを突き詰めた、美しくも凄惨な戦術の極みだった。
しかし――【五倍】という圧倒的な兵数差は、徐々に傭兵たちの肉体を限界へと追い込んでいく。どれほど指揮で翻弄し、どれほど首を撥ねようとも、霧の向こうから新しい山賊が、文字通り無限に湧き出してくるのだ。
「頭、さすがに左翼の防衛線が持たねぇ……!」アイザックが血を吐きながら叫ぶ。包囲網がリチャードたちの頭上へと、確実に狭まろうとしていた。
その凄惨な死闘を、村の外れの丘の上にある野営地から、第一騎士団の将兵たちは静かに見下ろしていた。
「……団長、大変です」副官が青ざめた顔で、ヴィルヘルムに進言する。「麓の村が、山賊の本隊千人に包囲されています。傭兵どもは善戦していますが、このままでは一刻と持たずに全滅するでしょう。……しかし、我らの任務はあくまでこの精錬所の死守。軍令に従い、静観すべきです。彼らが潰し合えば、我らにとって好都合……」
副官の言葉は、これまでのヴィルヘルムであれば「当然の正論」として受け入れていたはずのものだった。
だが、今のヴィルヘルムの耳には、その言葉が、己の魂を永遠に腐らせる悪魔の囁きにしか聞こえなかった。
彼の視線の先では、泥にまみれ、血を流しながらも、決して牙を折ることなく戦い続けるリチャードの姿があった。
そして、その背後の地下塞で、恐怖に震えながら神に祈る、あの無辜の子供たちの姿が、彼の脳裏に鮮烈にフラッシュバックする。
(私は、また見捨てるのか。規律という名の檻に隠れ、目の前で流される血から目を背けるのか。それが、私の三十五年の人生がたどり着いた『騎士の誇り』だというのか――!)
「――否だ」
ヴィルヘルムの口から、低く、しかし地響きのような声が漏れた。
「団長……?」副官が怪訝そうな顔をする。
ヴィルヘルムは、ゆっくりと腰の聖剣へと手をかけた。三十五年間、組織のために、貴族のために振るってきたその刃が、今、初めて「彼自身の意志」によって、強烈な鳴動を始めた。
「第一騎士団に告ぐ」
ヴィルヘルムは兜を深く被り、愛馬の手綱を強く握り締めた。彼の純白の甲冑が、朝日に照らされて爆発的な輝きを放つ。
「これより、我が第一騎士団は山を下り、麓の山賊団を全滅させる。……これは貴族院の命令ではない。私個人の、そして『騎士』としての決断だ!」
「な、何をおっしゃるのですか! 軍令違反です! 貴族院を敵に回せば、あなたの地位も、命も――!」副官が狂ったように叫ぶ。
「地位など、泥の中に捨てていくッ!!」
【白騎士】ヴィルヘルムの咆哮が、全騎士の魂を激しく震わせた。三十五歳のエリート騎士団長が、人生のすべてを賭けて、ついにその【白銀の枷】を内側から完全に噛みちぎった瞬間だった。
「民を見捨てる規律など、ただの欺瞞だ! 弱きを助けずして、何が騎士か! 我が第一騎士団の真の主は、貴族院ではない、このレガリアの民だ! 全軍、聖剣の光の元に続け! 突撃ィィィッ!!!」
「「「おおおおおおうッ!!!!」」」
軍令を黙殺し、ただ「正義」のために動かされた五百の重装騎士たちが、白銀の濁流となって山道を駆け下り始めた。その蹄の音は、大地の底から響く怒りの雷鳴そのものだった。
村の広場では、リチャードが血反吐を吐きながら、迫り来る十数人の山賊に囲まれていた。
「チッ……ここまでかよ」
剣を握る右手の感覚はすでに麻痺し、視界は自身の血で赤く染まっている。アイザックもまた、数本の矢を身体に受けながら、満身創痍でリチャードの背中を護っていた。
山賊の刃が一斉に、リチャードの首元へと振り下ろされた、その瞬間――。
ズガガガガガアンッ!!!
猛烈な衝撃波とともに、純白の閃光が戦場を横から一文字に薙ぎ払った。
リチャードを襲おうとしていた山賊たちが、その強烈な剣圧によって、肉体ごと一瞬で数間先へと吹き飛ばされ、石壁に激突して絶命する。
「……は?」リチャードが驚愕に目を瞠る。
【白騎士】ヴィルヘルムの猛攻は止まらない。馬を降り、純白の甲冑を鳴らしながら歩を進める彼の姿は、戦場に降臨した戦神そのものだった。
襲いかかる三人もの山賊の槍を、細剣のような精密さで一瞬にして弾き飛ばすと、間髪入れずに聖剣の鋒が彼らの胸当てを豆腐のように容易く貫通していく。力任せの暴力ではなく、完全に計算され尽くした無駄のない「天下一の剣技」。重装甲でありながら、その踏み込みはリチャードの野生のステップよりも速く、そして重い。
「我こそは第一騎士団長、白騎士ヴィルヘルム・フォン・ヴァイスブルク!我が聖剣の前に平伏せ!」
彼の放つ一喝だけで、山賊たちの戦意は完全に粉砕された。ヴィルヘルムが道を切り開き、その背後から完璧な陣形を維持した五百の騎士団が山賊の側面を完全にすり潰していく。
「ハ……ハハハ! 面白いじゃねぇか、お上品な白サギ様よぉ!」
リチャードは笑った。ヴィルヘルムの圧倒的な武力が敵の主力を破砕し、リチャードの的確な指揮が逃げ道を塞ぐ。二人の男の「才」が完璧に噛み合い、千人の山賊本隊は、わずか半刻の間に完膚なきまでに壊滅した。
戦闘が終わり、死臭と硝煙の立ち込める広場に、再び静寂が戻ってきた。
ヴィルヘルムは血に濡れた聖剣を鞘へと収めると、リチャードの元へと歩み寄った。
「リチャード。貴殿らの『牙』と『美学』、実に見事であった」
ヴィルヘルムはまっすぐに右手を差し出し、自らの魂からの提案を口にした。
「どうだ、私の独断で、貴殿ら灰狼傭兵団を【第一騎士団直属の遊撃隊】として、そして貴殿を【第一騎士団軍師】迎え入れたい。貴族院の檻に縛られぬ、私の直属の『牙』として、共にこの国の不条理を噛みちぎらんか?」
その言葉を聞いた瞬間。
リチャードは、これ以上ないほど「めちゃくちゃ嫌そうな顔」をした。まるで、口の中に飛び込んできた大きなハエを噛み潰したかのような、凄まじい歪め方だった。
「――は? 冗談だろ」
リチャードは差し出されたヴィルヘルムの右手を一瞥すると、即座に、吐き捨てるように言った。
「クソ喰らえだ、お断りだね。誰がそんなお上品で規律まみれの『騎士団』なんて退屈な組織に入るかよ。俺たちは傭兵団だ。誰の命令も聞かねぇし、縛られるのも大嫌いだ。昨日あれだけ言ってやったのに、まだお前の頭は固いのか? 団長様よぉ」
一秒の躊躇もない、完全な即断での拒絶だった。
これには、後ろに控えていた騎士たちからも「無礼者が!」と怒号が飛び交う。しかし、ヴィルヘルムは差し出した右手を下げようとはしなかった。その双眸は、リチャードをまっすぐに見据え、揺るがない熱を帯びている。
「私は貴殿らを縛るつもりはないと言ったはずだ。軍令に縛られ、民を見捨てるような真似は二度としない。そのためには、外側から不条理を壊す貴殿らの『野生』が必要なのだ。……私は本気だ、リチャード」
三十五歳の生真面目な男が、すべてを捨てて見せる狂気のような執念。リチャードは、なおも顔をしかめ、「チッ」と大きな舌打ちを響かせた。
そこへ、背後から満身創痍のアイザックが、槍を杖代わりにしながら歩み寄ってきた。
「おいおい、頭。そう即断で突っぱねるなよ。ちょっと冷静に財布(現状)を見てみろって」
アイザックはリチャードの耳元で、しかしヴィルヘルムにも聞こえるような声で現実を囁いた。
「俺たちの装備はボロボロ、今回の報酬は百姓の干し肉だけだ。おまけに千人の山賊を敵に回しちまった。このまま野良犬やってたら、明日の飯にも困るし、山賊の残党に寝込みを襲われて全滅だぜ? だけどよ……『第一騎士団直属』になりゃ、正規の予算で最上等の鉄と武器が手に入る。飯も食い放題、寝床も保証される。しかも、この堅物団長様が『好きに暴れていい』って言ってるんだ。これ以上割に合う取引、早々ねぇぞ?」
「アイザック、お前……」
リチャードはさらに嫌そうな顔をして副長を睨みつけた。
だが、アイザックの言うことは100%正論だった。そして何より、リチャードの胸の奥にある「美学」が、目の前のヴィルヘルムという男の「覚悟」を、これ以上無視することを許さなかった。軍令を破り、すべてを捨てて山を下りてきたこの男の目は、本物だった。
沈黙が流れる。リチャードは、何度も何度も顔を歪め、髪をクシャクシャと乱暴に掻きむしった。
「あー、クソっ! どいつもこいつも、 厄介な提案しやがって……!」
リチャードは天を仰ぎ、これ以上ないほど不承不承、といった様子で、差し出されたヴィルヘルムの右手をバシィィン!と乱暴に引っ掴んだ。
「――分かったよ、乗りゃあいいんだろ、その泥舟によぉ! ただし! 何度も言うが、俺たちに少しでも『規律』だの『命令』だのを押し付けてみろ。その瞬間にお前らの喉元、後ろから噛み切ってやるからな!」
リチャードは握り交わした手をギチギチと強い握力で締め上げながら、最後までめちゃくちゃに嫌そうな、しかしどこか不敵な笑みを浮かべた。
「フ……望むところだ。歓迎しよう、我が第一騎士団の『牙』たちよ」
ヴィルヘルムの顔に、三十五年の人生で最も晴れやかな、確かな誇りに満ちた笑みが浮かんだ。
白銀の枷を捨て、自らの意志で歩み始めた騎士と、最悪な顔をしながらも新たな戦場を受け入れた傭兵。
後にレガリア王国の歴史を、そして世界の常識を根底から覆すことになる「最強の双璧」が、この日、この泥まみれの辺境の地で、最高に歪で、最高に強固な絆を結んだのである。
『外伝第2弾:第1章』――完。




