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外伝1【レガリア王国の落日】第3章(最終章)『総力結集、薄暮の死闘』

第3章(最終章):総力結集、薄暮の死闘



1:王都西、絶望の消耗戦


地平線を埋め尽くした鉄の嵐が、音を立てて王国を噛み砕こうとしていた。

王都レガリアの遙か西、緩やかな起伏が続く平原のただ中に築かれた「薄暮の砦」。その名の通り、夕暮れの淡い残光に照らされた小規模な石造りの拠点は、いまや押し寄せる六万五千の軍勢という名の巨大な黒雲に完全に呑み込まれようとしていた。


「防壁の第二ラインが破られたぞ! 持ちこたえろ! 逃げるな、一歩でも退けば後ろの街が焼かれると思え!!」

誰の陣頭指揮か、もはや判別もつかない怒号が、爆風と土埃の混じる空気の中で激しく弾けた。

ドォォォォン、と大地そのものが悲鳴をあげるような重低音が響く。ガルド族の代名詞たる戦象部隊が、防衛線の土塁へと突撃を敢行した音だった。

歩く要塞。そう形容するほかない巨獣たちは、分厚い皮膚の上に何層もの鉄板装甲をボルトで打ち付け、その巨大な牙には肉を引き裂くための三日月型の湾刀が固定されていた。戦象がただその巨体を前進させるだけで、王国兵が数人がかりで組み上げた木製の防突柵はマッチ箱のように容易く圧砕され、その背後に控えていた槍衾やりぶすまの兵たちは、肉の塊となって空中へ撥ね飛ばされた。


「ひ、開いたぞ! 象の足元を狙え! 槍を突き立てろ!」

「無駄だ、皮が厚すぎる! 刃が立たん、うわああああッ!?」

狂乱する戦場。戦象の巨大な足が踏み下ろされるたび、レガリアの兵士たちの身体が防具ごと文字通り圧搾され、大地に赤黒い染みを作っていく。さらに最悪なのは、その巨獣たちの足元を、泥を跳ね上げながら縦横無尽に駆け抜ける「狼兵」の存在だった。馬を遥かに凌ぐ俊敏性と、飢えた凶暴性を備えた巨狼を駆る蛮族どもは、象兵によって陣形を引き裂かれ、孤立した王国兵の隙間に容赦なく飛び込んでは、その鋭い牙で喉笛を食い破っていった。


数にして五万。それだけでも、現在のレガリア王国が全力を傾けねば抗いきれない暴惑の嵐だ。

だが、王国兵たちの心を真に絶望の底へと叩き落としていたのは、その蛮族の背後に、整然とした「魚鱗の陣」を敷いて冷徹に佇む一団の存在だった。

黄金騎士グリフィス率いる、第4騎士団、一万五千。

かつては王国の西方を守護する、最も規律正しく、最も清廉な「レガリアの盾」と謳われた精鋭たちである。数日前までは共に円卓の会議で未来を語り、同じ釜の飯を食べたはずの同胞。その彼らが、今は一枚の仮面を被ったかのように冷酷な目で、かつての仲間たちを包囲し、効率的に間引きしようとしていた。


「中央、これ以上の深追いはするな。ガルド族を先に行かせろ。我らは左右の翼を広げ、敵の退路を完全に遮断する」

前線へ響き渡るグリフィスの冷徹な指揮。彼の声には、かつての温和な響きは微塵も残っていなかった。第4騎士団の弓兵部隊が、彼の合図とともに一斉に強弓を引き絞る。

シュパパパパパンッ! と、鼓膜を不快に震わせる風切り音が幾重にも重なり、遮るもののない平原の王国兵へと、空を黒く染めるほどの矢の雨が降り注いだ。


「盾を構えろ! 上を向け!」という悲鳴のような怒号が上がるが、遅い。連日の不眠不休の戦闘で、兵たちの身体は鉛のように重く、盾を持ち上げるわずか数インチの動作すら間に合わない。無数の黒い棘が兵士たちの肩、太もも、そして首筋へと次々に突き刺さり、悲痛な絶望の合唱が平原に木霊した。

ヴィルヘルム率いる第1騎士団の二万、そしてアイザック率いる第2騎士団の一万。計三万いたはずの軍勢は、この数時間の容赦のない消耗戦によって、すでに半数近くが物言わぬ屍となって大地に転がっていた。


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……っ!」

崩壊した「薄暮の砦」の城門の隙間。

第2騎士団長アイザックは、自身の身体ほどもある巨大なタワーシールドの縁を泥の中に深く突き立て、それを支えにすることで、辛うじて己の膝が折れるのを防いでいた。

全身の甲冑は、敵の戦槌によって激しく凹み、あちこちの継ぎ目からどす黒い血が止めどなく流れ出している。

まだ三十歳。団長になってわずか一年。傭兵時代にはそれこそ数え切れないほどの修羅場をくぐり抜けてきた自負があった。どんな逆境でも、自分の腕一本とこの大盾があれば生き残れると信じていた。だが――国家の命運をその背に背負い、剥き出しの平原で倍以上の大軍、それも「かつての英雄」を相手に回すという重圧は、これまで経験してきた戦いとは完全に次元が違っていた。

右腕の感覚は、度重なる打撃の衝撃でとっくに麻痺している。自身の血と脂でドロドロになった長槍の柄を、感覚のない指先で無理やり握り直した。呼吸をするたびに、喉の奥から鉄の味が競り上がり、肺が燃えるように熱い。


「アイザック、まだ息はあるか。視界は確保できているな」

背後から、大気を裂くような圧倒的な覇気を纏った声が掛けられた。振り返るまでもない。第1騎士団長、白騎士ヴィルヘルムだった。

王国最強の守護者。その象徴であるはずの純白の礼装は、いまや敵の返り血と煤煙によって赤黒く汚れ、凄惨な武神のような威容を放っていた。彼は愛用する身の丈ほどもある聖剣(両手剣)を、まるで一本の杖のように地面に突き立て、押し寄せる敵の群れを鋭い眼光でじっと見据えていた。


この絶望的な戦況の中で、総本陣であるこの小さな砦がまだ陥落していないのは、偏にヴィルヘルムという「化け物」が前線に立ち続けているからに他ならなかった。彼は単身で平原を突き進み、防衛線を蹂躙しようとした戦象の巨大な足を、聖剣の一閃によって骨ごと断ち切り、その巨獣を地へと沈めてみせたのだ。

だが、その超人的な武力を以てしても、数の暴力という名の絶対的な現実は覆せない。彼の背後に従う第1騎士団の精鋭たちも、限界は疾うに超えていた。剣を振るう腕は目に見えて鈍り、戦線は確実に、そして致命的に押し込まれていた。


「ヴィルヘルム、閣下……。ええ、まだ、いけます。私の、この盾が……砕けない限り、一歩も通しません」

アイザックは割れた唇から溢れる血を強引に飲み込み、歪な笑みを作ってみせた。部下たちの前で、決して弱音を吐くわけにはいかない。

だが、アイザックが前方の地平線を見据えた瞬間、その瞳に絶望の影が差した。

ガルド族の第二波、そして第三波と思われる新たな軍勢が、地平線を真っ黒に変えながら、まるで巨大な泥流のように再びこちらへ向けて進軍を開始したのだ。

完全に包囲されていた。退路など、どこにもない。

もし、この薄暮の砦の防衛線が完全に決壊すればどうなるか。その答えは明白だった。この平原の背後には、無防備な農村や街道、そして何十万という無辜の民が暮らす王都の喉元が剥き出しになっているのだ。蛮族どもがそこに雪崩れ込めば、そこは一瞬にして略奪と虐殺の地獄へと変わる。


「……リチャード団長。あの人は、私に第2騎士団を任せると言ったんだ」

アイザックは小さく呟き、歯を食いしばった。

『おいアイザック、お前ならこの盾を任せられる』。円卓の会議の後、リチャードが不敵に笑いながら自分の肩を叩いたあの手の温もりが、まだ残っているような気がした。

「ここで不覚を取ったら……あの世で、アイザックは口だけの弱虫だったと、あの人に笑われちまう。そんなの、死んでも御免だ……!」


その時、地平線を埋め尽くす敵陣の中から、一騎の美しい白馬がゆっくりと進み出てきた。

夕闇の光を浴びて、鈍く、しかし圧倒的な存在感で輝く黄金の甲冑。背中に背負った大剣の装飾。かつての高潔な同僚、黄金騎士グリフィスだった。

グリフィスは王国軍の残党が見える位置で馬を止めると、その透き通るような美しい声を、戦場全体に響かせるようにして放った。

「ヴィルヘルム閣下、そしてアイザック。私の声が聞こえるか」

その声には、裏切り者としての後ろめたさも、狂気による昂ぶりもなかった。ただひたすらに清澄で、自らの大義を一片の疑いもなく信じ切っている者の声だった。

「私は王国を憎んで反乱を起こしたのではない。旧きレガリアは、腐敗している。特権を貪る貴族どもが利権にしがみつき、前線で血を流す民や兵の痛みを省みようとしない。この歪んだ国は、一度完全に壊され、再建されねばならんのだ。民を真に救い、飢えのない強い王国を作るためには、いまここで流れる血は『必要な痛み』なのだ。自らこそが、その血を浴びて王国を新時代へと導くべき存在だと、私は確信している」

グリフィスは静かに折れた大剣の柄に手をかけ、真っ直ぐに砦を見つめた。

「……お願いだ、剣を収め、道をあけてくれ。私は、かつての同胞である君たちと、これ以上の無益な戦いをしたくはない」


その言葉を聞いたヴィルヘルムは、静かに、しかし地鳴りのような重みを持って、聖剣を地面から引き抜いた。彼の銀髪が、戦場の風に激しくなびく。

「グリフィス。お前がどれほど大層な理想を抱こうとも、異民族の爪牙をこの王土に招き入れ、民の血を流させた時点で、それはただの浅ましい反逆だ。我が剣は王国の盾、そして民の嘆きを断つ刃。お前がレガリアを壊すと言うならば、我が聖剣をもって、その歪んだ黄金ごと叩き割ってくれる」

ヴィルヘルムの構えには、迷いなど微塵もなかった。最強の騎士としての、苛烈なまでの覚悟。

それを見たグリフィスは、哀しげに一瞬だけ目を伏せ、そして再び目を開けた時には、一切の感情を排した「将」の顔になっていた。


「そうか。……惜しいな。やはり、言葉では伝わらないか。ならば、力をもって証明するまでだ」

グリフィスが、黄金の籠手に包まれた右手を、冷徹に天へと掲げた。

それが、薄暮の砦を完全に消し去るための、総攻撃の合図だった。

「突撃ィッ!! 灰の街へ変えてやれ!」

ガルド族の狼兵たちが、一斉に天に向かって狂暴な咆哮をあげた。地平線を埋め尽くす黒い波が、牙を剥き出しにしながら、もはや虫の息となった王国軍の陣地へと猛然と押し寄せてくる。

アイザックは大盾の裏で、割れた唇を血が出るほど強く噛み締めた。

「……来いよ、蛮族ども。この盾、そう簡単に抜けると思うなよ……!」

薄暮の戦場に、再び最悪の幕が上がろうとしていた。




2:北方の不屈、鉄血と沈黙


王都の西が「裏切り」という名の内なる炎に焼かれていたその時、遥か北方の国境線は、凍てつくような「数の暴力」によって圧殺されようとしていた。

リチャード率いる第7騎士団が、総大将ヴィルヘルムの正式な伝令を待たずに「野生の勘」だけで全軍を率いて南方へと離脱し、さらにそれに呼応するようにロドリックの第3騎士団がアイアンサイド砦を後にした。この驚天動地の軍事空白は、レガリア王国の防衛網に致命的な亀裂を生み出しているのようにみえた。

そして、その絶好の機を、北方ノルドハイム帝国の冷徹な将星たちが見逃すはずがなかった。

「好機なり! レガリアの騎士どもは身内で喰らい合いを始めたぞ! 愚かなる南の犬どもに、我が帝国の鉄槌を下せ!」

地響きのような号令とともに、それまで国境付近で小競り合いを繰り返していたノルドハイム帝国軍が、真の牙を剥いた。総兵力四万五千。そのうち、二万五千の重装歩兵大隊が「アイアンサイド砦」へ、そして残る二万の精鋭騎兵部隊が、リチャードたちが去って完全な空城となったはずの「東の古城」へと、同時に地滑りの如き総攻撃を開始したのである。


「慌てるな! 敵の突撃に惑わされるな! 弓兵、まだ引き絞れ……引き付けろ! 奴らの髭の、一本一本が見えるまで引き付けよ!」

アイアンサイド砦の、分厚い花崗岩で築かれた防壁の上。第8騎士団長「鉄血のグスタフ」は、嵐のような怒号が飛び交う戦場にあって、驚くほど冷静な、それでいて凍りつくような低い声で果敢に命令を下していた。

彼の手元に残されたのは、自身の第8騎士団のみ。ロドリックの第3騎士団が抜けた穴は、防衛陣形においてあまりにも巨大な空白を生んでいた。正面から迫り来るのは、巨大な鉄板の盾を並べ、亀の甲羅のように強固な陣形を組んだ帝国の重装歩兵二万五千である。

「今だ、放てッ!」

グスタフの腕が一閃すると同時に、防壁から無数の火矢と巨石が放たれた。ドゴォォォンと、油を塗った巨石が敵の盾の列を粉砕し、肉と鉄の混ざり合った悲鳴が砦の麓から吹き上がる。しかし、帝国軍の歩兵たちは、仲間の死体を文字通り踏みつぶしながら、蟻の群れのように防壁へと迫り、何十本もの巨大な鉄製の梯子を容赦なく引っ掛けていった。


「死ね、レガリアの老いぼれめ!」

梯子を駆け上がってきた帝国の巨漢兵が、防壁に躍り出ると同時に巨大な戦斧を振り下ろす。

だが、その一撃が届く前に、猛烈な風圧とともに一本の「鉄の槍」が風を切り裂いた。

「我が鉄血の壁は、不落なり」

グスタフ自らが突き出した武骨な長槍が、敵兵の頑強な胸当てを容易く貫き、背中へと突き抜けた。グスタフは表情一つ変えず、槍に突き刺さった死体をそのまま力任せに振り回し、梯子を登ろうとしていた後続の敵兵数人もろとも、数十メートルの防壁の下へと叩き落としてみせた。

「第一列エリック!後退し息を整えよ! 第二列バルド!隙間を埋めろ! 盾の隙間から槍を突き出せ! 呼吸を合わせよ、機械になれ!」

「はっ!バルド隊かかれぇ!!」

グスタフの指揮は、まさに冷徹な時計の歯車のようだった。副長であり猛将のエリックとバルド、そして兵士たちは恐怖を忘れたかのように彼の声に従い、肉体の限界を超えて槍を突き出し続ける。どれほど兵を削られようとも、グスタフという巨大な岩盤が中央に鎮座している限り、アイアンサイド砦という「鉄血の防壁」は、微塵も揺らぐことはなかった。


だが――問題は、グスタフの砦から東へ数里離れた「東の古城」であった。

そこは、まさに言葉を失うほどの悽惨な生き地獄と化していた。

リチャードの第7騎士団が「全軍離脱」したため、この広大な古城の防衛線を任されたのは、第5騎士団長「沈黙のゼクス」が率いる己の軍勢のみ。わずか数千の兵で、波のように押し寄せる二万の帝国精鋭騎兵を迎え撃つという、狂気的なまでの絶望戦であった。

古城の半壊した本陣、崩落しかけた石壁の影。第7騎士団の「留守」を預かっていた後方支援の文官貴族や、わずかに残された負傷兵たちは、地平線を埋め尽くす帝国騎兵の軍馬のいななきを聞き、完全にパニックに陥っていた。

「リチャード団長たちがいないなんて…無理だ…」

「終わりだ……もうおしまいだ! 二万の兵なんて、どうやって止めればいいんだよ!」

絶望の泥濘ぬかるみが兵たちの心を蝕み、武器を落とす者が続出しようとしたその時。

鉄の擦れる静かな足音とともに、長剣を携えた一人の男が、戦火の煙を割って悠然と進み出た。


第5騎士団長、ゼクス。

彼は何も言わなかった。

絶望する兵たちを怒鳴りつけることもなければ、士気を高めるための安っぽい鼓舞の雄叫びをあげることもしない。ただ、返り血で黒ずんだ左手の盾を構え、右手の愛用する長剣を、静かに、一点の揺らぎもなく正眼に構えた。

その男の背中から放たれる、圧倒的な「静」の覇気。

それだけで、騒然としていた古城の空気は、一瞬にして水を打ったように静まり返った。

「……。」

ゼクスは何も語らず、ただ右手の剣を、斜め左下へと静かに一閃させた。

言葉はなくとも、彼の率いる第5騎士団の精鋭たちには、その意味が痛いほど伝わっていた。

『私がここにいる。陣を構えよ。一歩も引く必要はない』声ではない。背中と気迫が兵たちにそう告げていた。

「……応ッ!!」

地を這うような短い返事とともに、第5騎士団の重装歩兵たちが、へし折れた古城の城門の前にズラリと盾を並べ、鉄の防波堤を再構築した。彼らはリチャードが全軍を引き連れて空けた広大な空白を、自らの肉体と命を以て、完璧に埋めようとしていたのだ。


「突撃ィッ! 敵は小勢だ、無口な団長ごと踏みつぶせ!」

帝国の騎兵大隊が、大地を割るような蹄の音とともに、槍を構えて突入してくる。数千の鉄蹄が鳴らす振動で、古城の石壁がパラパラと崩れ落ちる。

だが、ゼクスは眉一つ動かさない。

彼の視界の中で、突撃してくる先頭の軍馬の速度、槍の角度、すべての軌跡がスローモーションのように流れていた。

馬の鼻先がゼクスの数インチ前に達した瞬間、彼は(いかづち)を模したような踏み込みを見せた。左手の盾を、突進してくる軍馬の顔面に、凄まじい力で直接叩きつけたのだ。

ドガァァンッ!!

強烈な衝撃音が響き、首の骨を折られた軍馬が前脚から転倒する。その巨体が地面を滑るわずかな刹那、ゼクスの長剣が、陽光を反射して冷たく閃いた。流れるような、あまりにも美しい円の軌道。馬から放り出された帝国の騎兵の喉笛が、鎧の隙間から正確に切り裂かれ、鮮血がゼクスの頬を赤く染めた。

言葉は一切ない。

だが、的確極まる手信号と、ゼクス自身の超人的な武力によって、第5騎士団は完璧な機械のように連動していた。ゼクスが剣を振るえば右翼が締まり、ゼクスが盾を引けば左翼の槍が突き出される。

リチャードの第7騎士団が「動」の嵐なら、ゼクスの第5騎士団はすべてを拒絶する「静」の岩盤だった。

「化け物め、なぜこれほどの小勢で、我が帝国の騎兵が止められるのだ……!?」

帝国の将官が恐怖に声を戦慄させる。

ゼクスは無言のまま、迫り来る次の敵へと視線を向けた。その瞳の奥には、レガリアを裏切ったグリフィスへの怒りでもなく、当然戦線を離脱したリチャードへの恨みでもない、ただ一つの純粋な信頼だけが宿っていた。

『あの男が、すべてを投げ打ってでも向かった戦場だ。ならば、私はここを死守する。ただそれだけだ』

ゼクスの不言の背中が、そう雄弁に語っていた。

二万の帝国軍の猛攻を、ゼクスはたった一つの騎士団で完全に吸い込み、東の古城を文字通り、帝国の血で染まる絶対の防波堤へと変えてみせた。


北方で、鉄血のグスタフ、沈黙のゼクス、二人の団長が己の誇りと絆をかけて、四万五千の猛攻を完璧に食い止め、踏みとどまっている。

彼らがその背中で時間を稼いでいるからこそ、王国のすべての命運は、今まさに西の平原で絶望に瀕している、四人の騎士団長へと託されたのである。




3:大いなる咆哮、奇跡の戦線


舞台は再び、王都西方、薄暮の砦へと戻る。

ガルド族の容赦のない足音が、いよいよ最終防衛線へと肉薄していた。

押し込まれた戦線の最奥、城門は完全にへし折られ、なだれ込む敵の前にアイザックの大盾も限界を迎えつつあった。

「がはっ……! ここまで……なのか……」

膝をつき、口から溢れる鮮血を大地にぶちまけるアイザック。彼の誇るタワーシールドには、ガルド族の戦象の牙によって穿たれた巨大な亀裂が走り、いまや強固な「鉄の壁」ではなく、いつ砕け散ってもおかしくない悲痛な残骸と化していた。彼の周囲にいた第2騎士団の兵たちも、もはや立ち上がる力すら残されておらず、ただ迫り来る死の影に怯えながら地を這っていた。

「アイザック、下がれ。これ以上はお前の命がもたん」

満身創痍の白騎士ヴィルヘルムが、血を吐くような呼吸を繰り返しながら、アイザックの前にその大きな背中を滑り込ませた。

王国最強の守護者である彼もまた、その限界を疾うに超えている。聖剣を構える彼の両腕は、筋肉が悲鳴をあげて微かに震えていた。だが、その瞳の奥にある猛将としての灯火だけは、まだ消えてはいない。

ヴィルヘルムが最後の力を振り絞り、なだれ込むガルド族の群れに向けて聖剣を大上段に構えた、まさにその瞬間だった。


地平線の遥か彼方、王国軍を包囲していた敵の巨大な陣形の真後ろから、突如として大気を引き裂くような「激しい混沌の渦」が巻き起こった。

「……ん? 何事だ、後方が騒がしいぞ! 伝令、何が起きている報告せよ!」

黄金騎士グリフィスの本陣に控えていた将官たちが、狼狽した声を荒げた。グリフィス自身もまた、完璧だったはずの包囲網の後方が、目に見えて歪み、内側へと圧搾されていく異様な光景に眉をひそめた。

包囲網の真後ろ――敵にとって最も死角となり、最も警戒の薄かった方角から、猛烈な速度で肉薄してくる一団があった。

彼らは北方国境から、馬の限界を超えた文字通りの強行軍を続けてきたはずだった。本来であれば、兵も馬も疲弊しきって戦いなどできるはずのない狂気の行軍。にもかかわらず、その進軍の勢いは衰えるどころか、獲物を前にした飢えた肉食獣のような、狂暴極まる熱量を孕んで戦場へと突っ込んできたのだ。


夕闇の風に激しく翻るのは、誇り高き――【灰色の狼旗】。

「――てめぇらァ! 俺のかわいい元副長を、随分と血塗れにしてくれたじゃねぇかッ!!」

戦場全体の怒号すらも掻き消す、鼓膜を破らんばかりの狂暴な咆哮。

先頭を駆ける男が、漆黒の夜の始まりを告げる空に向けて、二振りの愛剣を同時に抜き放った。灰狼リチャードである。

公式の伝令が届く前に「野生の勘」だけで動き出し、文字通りレガリア大陸を横断してきた第7騎士団。彼らはただ闇雲に駆けつけたのではなかった。敵のガルド族が「勝った」と確信し、完全に油断していた後背の陣へ、これ以上ない完璧な角度とタイミングで、その牙を突き刺したのだ。


「リ、リチャード……団長……!?」

泥の中に顔を伏せていたアイザックが、信じられないものを見るかのように目を剥いた。その眸に、一瞬で熱い光が灯る。

「ガハハハ! おいアイザック、よく耐えたなぁ! あとはこの俺が、あの黄金のスカした野郎の顔面を、形が変わるまでぶん殴ってやる!」

リチャードは全力疾走する軍馬の背の上から、限界を超えた跳躍を敢行した。

空中に踊り出た彼の身体が、夕日を背に巨大な影を作る。飛びついた先は、前線を蹂躙していたガルド族の戦象の横っ腹だった。

「なっ、蛮族の戦象に飛び移っただと!?」と驚愕する敵の兵士の目の前で、リチャードは獰猛な蜘蛛のように頭の方へ移動する。そして腰に帯びた左手の剣を象の首筋に突き立てる。閃光が一閃。戦象の分厚い首筋から、噴水のように激しい血飛沫が上がる。巨獣が悲鳴をあげて崩れ落ちるなか、リチャードは着地の勢いのまま次の敵へと斬りかかり、瞬く間に周囲を血の海へと変えていった。


だが、奇跡はこれだけでは終わらなかった。

灰狼リチャード率いる第7騎士団の狼旗が敵の陣形を切り裂き、包囲網が内側へと大混乱を起こしたその瞬間、地平線のもう一角から、大地そのものを激しく揺らす凄まじい地鳴りが響き渡った。

遮るものすべてを焼き尽くす、怒りの――【真紅の旗】。

「我が第3騎士団の快速、侮ったか裏切り者め!!」

赤鎧の猛将、ロドリックの怒号が平原に響き渡る。

アイアンサイド砦でグスタフと「不落の約束」を交わし、リチャードの狼たちの背を追うようにして戦場を駆け抜けた、赤鎧騎士団の本隊。

彼らは、リチャードが敵の後方をかき乱し、ガルド族の側面が剥き出しになったその刹那を、絶対に見逃さなかった。

長槍の列を寸分の狂いもなく綺麗に水平に揃えた重装騎兵部隊。それらが、時速数十キロという凄まじい速度を維持したまま、一つの巨大な「質量兵器」となって、ガルド族の狼兵の側面へと容赦なく突き刺さったのだ。

ドゴォォォォンッ!!!

肉と骨が破砕され、鉄板が圧搾される凄まじい衝撃音が平原に響き渡る。

「突撃ィッ! 一騎当千の赤鎧の武を見せよ! 踏みつぶせ、一歩も止まるな!」

ロドリックの振るう巨大な長槍が一閃するたび、敵の防陣が紙切れのように引き裂かれ、血肉の雨が宙を舞う。北方で極限まで鍛え上げられた重装騎兵の突撃は、大混乱に陥っていた敵軍を文字通り「文字通り蹂躙」していった。


「リチャード……ロドリックまで……!」

ヴィルヘルムの顔に、この日初めて、守護者としてではなく「猛将」としての獰猛な笑みが浮かんだ。

絶望に震えていた兵たちの身体に、彼らの背中を見た瞬間に、言葉にならないほどの熱い電流が駆け巡る。

「全軍、聞いたか! 見たか!」

ヴィルヘルムは折れかけた足で力強く大地を踏み締め、聖剣を天へと高く掲げた。全軍の魂を激しく揺さぶる、雷鳴のような声が響き渡る。

「北から英雄たちが帰還したぞ! 我らがレガリアの不落の絆、今こそ裏切り者に示す時だ! 全軍、武器を取れ! 命の続く限り叫べ! 反撃の時だ、出撃ィッ!!!」

「おおおおおおおおおおおッ!!!」

絶望に瀕していた第1、第2騎士団の残存兵たちが、地鳴りのような勝ち鬨をあげた。

ボロボロになった身体、動かないはずの腕が、奇跡の光に導かれるようにして再び剣を握り直す。王国の誇る四つの最強の武力が、この薄暮の砦の前に今、完璧なる総力を結集させた。

潮目は完全に変わった。いまや狩る者と狩られる者は、完全に逆転していた。



4:黄金の落日


戦況は、文字通り天と地がひっくり返るほどの激変を遂げていた。

王都軍を完全に包囲し、なぶり殺しにしようとしていた六万五千の敵軍。

それが今や、北から強行軍で殴り込んできたリチャードとロドリックの猛攻によって後背を引き裂かれ、内側からはヴィルヘルムとアイザックの反撃を受けるという、逃げ場のない挟撃の檻へと変わっていた。

「馬鹿な……!」

第4騎士団の将官が顔を青ざめさせる。

「北方軍がここまで早く戻れるはずがない! あり得ん!」

「あり得ねぇことをやるのが俺たちだろうがッ!」

灰狼リチャードが獰猛に笑った。

双剣を振るうたびに敵兵が吹き飛び、灰色の狼旗が戦場を切り裂いていく。

その後方ではロドリック率いる第3騎士団が怒涛の突撃を繰り返していた。

「押し潰せぇぇぇッ!!」

真紅の騎兵隊が敵側面へ突き刺さる。

ガルド族の狼兵たちは次々と踏み砕かれ、包囲網は完全に崩壊した。

もはや勝敗は決していた。


だが――

戦場の中心だけは違った。

黄金騎士グリフィス。

そして白騎士ヴィルヘルム。

王国最強を争った二人が、夕闇の平原で静かに向き合っていた。

「ここまでだ、グリフィス」

ヴィルヘルムが聖剣を構える。

グリフィスもまた黄金の両手剣を握り直した。

周囲の兵たちは自然と距離を取る。

誰も割って入れない。

これは軍同士の戦いではない。

王国の未来を巡る、二人の騎士の決着だった。

「ヴィルヘルム」

グリフィスが静かに口を開く。

「お前ほどの男なら分かるはずだ。この国は腐っている」

「分かっている」

ヴィルヘルムは即答した。

「だが、それでも守るべき民がいる」

「だから壊すのだ!」

グリフィスが叫ぶ。

「腐敗を断ち切るには、一度すべてを壊さねばならん!」

「違う」

ヴィルヘルムの声は低かった。

だが、戦場全体に響くほど重かった。

「グリフィス。お前の全てを否定するわけではない。だがお前は道を違えたのだ」

グリフィスの瞳が揺れる。

一瞬だけ。

ほんの一瞬だけ。

かつて共に語り合った日々を思い出したかのように。

だが次の瞬間には消えた。

「ならば――力で証明しよう」

「望むところだ」

二人が同時に踏み込んだ。

激突。

黄金剣と聖剣が正面からぶつかり合い、凄まじい衝撃波が平原を駆け抜ける。

一合。

二合。

三合。

火花が散り、鋼が悲鳴を上げる。

その剣戟は、もはや人の域を超えていた。

黄金騎士グリフィス。

白騎士ヴィルヘルム。

王国最強を争った二人の騎士が、己のすべてを懸けて刃を交える。

だが、その最中。

ヴィルヘルムの右膝がわずかに沈んだ。

限界だった。

数時間にも及ぶ防衛戦。

戦象との死闘。

数え切れぬ敵兵との斬り合い。

そのすべての代償が、いま確実に彼の肉体を蝕んでいた。

呼吸は荒い。

握る手は痺れている。

視界の端は霞み始めていた。

もはや体力だけを比べれば、勝敗はとっくに決していてもおかしくない。

対するグリフィスの剣はなお鋭かった。

その瞳には迷いがない。

自らの理想を疑わぬ者の強さがあった。

黄金剣が唸りを上げる。

「認めろ、ヴィルヘルム!」

グリフィスが叫ぶ。

「この国は変わらねばならん! 腐敗した王国を壊し、新たな時代を築く! それこそが正しい道だ!」

黄金の一撃が聖剣を押し込む。

ヴィルヘルムの足元の大地が砕けた。

だが。

白騎士は退かなかった。

「変わるべきだろう」

低い声が響く。

「……何?」

「王国には腐敗もある。貴族どもの醜さもある。お前の言うことは間違いではない」

グリフィスの瞳が揺れる。

ヴィルヘルムは聖剣を握り直した。

「だが、お前のやり方ではない」

「何が違う!」

「私は王国に忠誠を誓ったのではない」

その言葉は静かだった。

だが、雷鳴のような重みを持っていた。

「私は民を守ると誓ったのだ」

戦場の空気が凍る。

ヴィルヘルムの脳裏に浮かぶ。

逃げ惑う村人たち。

焼かれた家々。

ガルド族に蹂躙された西方の街。

泣き叫ぶ子供たち。

そのすべてを見た。

だからこそ断言できた。

「民を守るために剣を取ったはずのお前が、民を踏みにじった」

グリフィスの表情が初めて揺らいだ。

「私は……」

「どれほど高潔な理想を掲げようと、どれほど美しい未来を語ろうと、その足元に民の骸を積み上げるなら、それは騎士の道ではない」

ヴィルヘルムは一歩踏み出した。

震える足で。

砕けそうな肉体で。

それでも前へ。

「お前は道を違えたのだ、グリフィス」

初めてだった。

グリフィスの瞳から確信の光が揺らいだのは。

王国を壊し。

新たな王国を築く。

その理想ばかりを見つめていた彼は。

その過程で失われる無数の命から、いつしか目を背けていた。

ほんの一瞬。

その迷いが生まれた。

そして――。

ヴィルヘルムの肉体は限界だった。

腕は痺れている。

足は震えている。

もはや一歩踏み込む力すら残されていない。

それでも。

彼の騎士としての信念だけは。

守護者としての誓いだけは。

一ミリたりとも揺らいでいなかった。

守る者と。

壊す者。

最後の一撃で勝ったのは。

より強い肉体ではない。

より優れた技量でもない。

最後まで揺るがなかった魂だった。

「さらばだ、グリフィス」

聖剣が振り下ろされる。

グリフィスもまた全力で黄金剣を振り上げた。

白銀と黄金が激突する。

そして――

パキィィィィンッ!!

悲鳴のような音が響き渡った。

黄金の両手剣が、根元から真っ二つに砕け散る。

グリフィスの瞳が見開かれた。

その胸元へ。

白銀の刃が静かに到達した。

勝敗は決した。


時間が止まったようだった。

グリフィスはゆっくりと膝をつく。

折れた剣の柄だけが手に残っていた。

夕日はすでに沈みかけている。

薄暮の空。

戦場を吹き抜ける風。

彼は静かに笑った。

「……負けたか」

その顔には狂気も執念もなかった。

かつての高潔な騎士の顔だった。

「ヴィルヘルム」

「何だ」

「……美しい国を、頼む」

ヴィルヘルムは答えない。

ただ静かに目を閉じた。

それだけで十分だった。

グリフィスは小さく頷く。

そして――

静かに大地へ倒れた。

黄金騎士グリフィス。

戦死。

「グリフィス団長が……」

「討たれた……!」

第4騎士団は完全に戦意を失った。

ガルド族もまた敗走を始める。

勝敗は決した。

薄暮の砦は守られたのだ。

やがて。

生き残った兵たちの歓声が夜空を揺らした。

「勝ったァァァ!!」

「レガリア万歳!!」

涙を流す者。

仲間を抱き締める者。

その場に崩れ落ちる者。

誰もが限界だった。

だが誰もが、生きていた。

リチャードは双剣を鞘へ収める。

ロドリックは長槍を突き上げ豪快に笑う。

アイザックは砕けた盾にもたれながら空を見上げた。

そしてヴィルヘルムは、倒れた友の亡骸を静かに見つめていた。

長い沈黙の後。

白騎士は聖剣を天へ掲げる。

「王国軍の勝利だ」

その言葉に再び歓声が上がる。

薄暮の砦を吹き抜ける夜風は冷たかった。

だがその風は確かに、レガリア王国の勝利を告げていた。









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