生活拠点
歪門を越えて、少し歩いた。
通路は一度広がり、古い案内板の影が見えた。剥がれた路線図。床に残った黄色い誘導線――人が行き交っていた時代の名残が、湿った暗闇の底に沈んでいる。
その先で、駅の中でさらに下へ降りる階段が現れた。ホームへ向かう連絡階段だろう。段の角は丸く削れ、壁のタイルは所々黒ずんでいる。上の層とは違う。ここは今も、人が使っている。
リオは迷いなく、その階段を降りた。
私は一拍遅れて追う。手すりは冷たく湿っている。降りるほど雨の匂いが薄れ、代わりに油と金属と、人の汗が濃くなる。
降り切った先には、低い天井と長い通路。壁際には配線が這い、簡易灯が等間隔に吊り下げられていた。足元には踏み固められた泥の跡が続く。誰かがここを日常的に行き来している。
リオが前を向いたまま言った。
「ここから先が拠点だ」
「……駅、ですよね?」
「そうだ。トンネルを含めて二駅分を使ってる」
歩きながら胸に手を当てる。遠くの塔へ向けて張っていた糸は、まだ弱く鳴っている。けれど、この地下に入ってから、別の“何か”が時折ひっかかる。近いのに遠い。近いのに見えない。
私はつい、さっき見た光景を思い出した。
「先ほどのドローン、空中で壊れましたよね。あれは歪門のせいですか?」
「そうだ」
リオは足を緩めずに続けた。
「歪門が閉じると空間がねじれる。あいつらはそこに突っ込む。ぶつかって砕けるか、切れたみたいに裂ける。……だから追って来たドローンは壊れた」
背筋が少し冷える。あの場面を、彼はただの事実として言っている。
「……その歪みは、どうやって作っているんですか?」
リオはわずかに肩をすくめた。
「残念ながら、俺たちには作れない。再現できないんだ」
「再現できない……?」
「ドローンの中の“空間制御”の部品を、そのまま抜いて使ってる。仕組みは分からない。動く形にして入口に組んで、開け閉めしてるだけだ」
私は頷いた。理解したというより、飲み込んだ。
通路の先で、光と声が増えてきた。曲がり角を曲がった瞬間、視界が開ける。ホームだ。
――線路がない。
あるはずの黒いレールは消え、枕木も抜かれている。線路のあった場所は埋め戻され、通路として踏み固められていた。レールだった鉄は柵になり、補強材になり、どこかの武器の芯になっているのだろう。生活に必要のない鉄は、もう残っていない。
ホームの端には板が渡され、簡易な柵が作られている。天井の梁にはロープが渡され、干された布が揺れていた。鍋の湯気。油の匂い。金属を叩く音。
人がいる。
視界に入るだけで百は超える。さらにトンネルの先へ、光と人影が続いている。街が、そのまま地下へ潜っていた。
「……こんなに」
「千くらいだ。隣の駅まで繋げてる」
リオは当たり前のように言った。
人々は私たちを一瞬見るが、すぐに視線を外す。警戒というより慣れだ。ここでは他人の事情に深入りしないのが普通なのかもしれない。
それでも何人かは、私の顔より先にリオの方を見る。
外で会った時のように、彼の義眼が赤く細く光った。まばたきのように一度だけ。
リオは足を止めない。だが視線だけは私に固定したまま、低く言った。
「目の故障かと思った。周りをスキャンし直した。……でも故障じゃない」
義眼の光が、もう一度だけ瞬く。
「君だけ表示が違う。異常反応も高く、回収優先度も高い」
彼はそれ以上声を大きくしなかった。独り言のように、短く続ける。
「……あれだけ追われたのは、優先度のせいか。なら、なぜだ」
背筋が冷えた。
「……そんなものが、見えるんですか」
「この目は大型が使ってた規格だ。やつらが認識してるものなら出る。名前、異常反応、回収優先度……図鑑みたいにな」
私は手を握りしめた。異常反応。まるで世界が私を拒んでいるみたいだ。
リオは感情を乗せずに言う。
「味方かは現状判断できない。だが、あいつらに追われていた。敵ではないのは確かだろう」
淡々とした言葉なのに、私の中では重く落ちた。
もし敵だと思われたら――その先は考えたくない。
私は心を落ち着かせるために視線を逸らし、周りを見渡した。
義手、義足、機械の顎。背中に金属のフレームを背負う者。耳の後ろに端子を持つ者。何かしらの部品を体に入れている人が多い。中には、肉より金属の方が多い人もいる。
「ここでは……普通なんですか?」
私の声は思ったより落ち着いていた。
リオは一瞬だけ視線を外し、周囲の“当たり前”を確認するように見回した。
「普通だ。ここじゃ、生きるためにそうする」
それから、リオは察したように説明してくれた。
この拠点では機械化の程度に呼び名がある。
一部でも機械を入れていれば「パーツ」。体の半分以上が機械なら「ハーフ」。脳と心臓だけを残して、それ以外をほとんど機械にした者は「フル」。
腕や足を失って置き換えた者もいれば、戦闘能力を上げるために置き換えた者もいる。理由は違っても、たどり着く先は同じだ。
そしてさらに別枠がいる。
心臓や脳の一部まで機械にした者。寿命という言葉の外に出てしまった者たち――五人。
その者たちを「レリック」と呼ぶ。
遺物。そんな意味の言葉だっけ?
ここでは「こんな世界で、なお長く生きている」ことの証みたいな名称で、皮肉も少し混ざっている。けれど蔑みではない。拠点の中枢にいる者たちで、決定権は彼らに集まっている。
少し歩くと、通路の向こうから男が一人歩いてきた。急ぎ足ではないが、目は鋭い。こちらを見ている。最初から状況を知っている目だった。
右腕が機械化している。腰に短銃。胸元にはバッジ。歩き方に迷いがない。
私が何者かを考えるより先に、リオが低い声で言った。
「門番だ」
男は私を一度だけ見て、すぐリオに視線を戻す。
「リオ。映像は見た。追跡されてたな。怪我は?」
「ない」
男は短く頷き、私に視線を移した。
「彼女は?」
リオは肩をすくめた。
「名前も素性も分からない。俺の目でも、ヒットしない」
男の眉がわずかに動いた。驚きというより、判断を切り替える反応。
「……そうか。こっちで決められる話じゃない。レリックに通す」
リオがすぐ返す。
「通すならアーカイブ様がいいだろう。大戦から今まで生き延びている。何か知ってるかもしれない」
「そうだな。ならアーカイブ様に話を通しておく。ついて来い」
「はい」
男は踵を返し、先に歩き出した。
リオは私の方を見ずに言った。
「俺はさっきの歪門で壊れたドローンを回収してくる。……お前は、その男について行け」
私は小さく頷き、男の背中を追った。




