残響都市1
冷たい雨が頬を打って、意識が引きずり上げられた。
最初に見えたのは黒い空だった。雲は低く、都市の残骸に覆いかぶさるように垂れ込めている。折れたビルの骨格。裂けた高架。露出した太い配線が、濡れた路面の上で蛇のようにうねっていた。
ネオンの看板は半分だけ光り、文字にならない色を吐き出している。雨粒がそれを引き伸ばし、街全体が壊れたディスプレイみたいに滲んでいた。
(……ここは、どこ)
起き上がろうとして、身体がふらついた。
重さが薄い。確かに触れられるのに、実感がない。皮膚が自分のものじゃないみたいだ。呼吸をすると胸が上下する。それだけが「生きている証拠」な気がした。
(私は誰……)
喉が鳴る。
答えは出ない。
恐怖が遅れて胸を締めつけた。自分という輪郭が欠けている。思い出そうとすると、そこには“穴”があるだけだった。空洞が、風の通り道になっている。
その空洞が――微かに震えた。
鈴が鳴るみたいに、でも耳ではなく胸の奥で。
(……なに)
私は思わず息を止める。怖いのに、同時に懐かしい。痛みではない。むしろ、細い糸が伸びていく感覚だった。
糸は、方向を指している。
私はゆっくり顔を上げた。
遠く、崩れたビル群の向こうで、ひときわ高い塔が光っていた。黒い塔の頂に、逆さの冠みたいな輪。そこから空へ伸びる光が、雨雲を突き抜けて“目”の形を作っている。
その目が、こちらを見た気がした。
胸の糸が、塔へ向かって張りつめる。
(あそこに……ある)
“私の”何かが。
その確信が、次の音に引き裂かれた。
【ジジッ――】
頭上で金属音。羽音。雨の線を切って、黒い影が滑空する。小型の飛行体。
赤い点が私をなぞり、瞬きするように青へ変わった。
次の瞬間
――未登録個体
――異常反応:高
――回収対象:優先度A
(……回収?)
飛行体が短い電子音を鳴らす。
【回収プロトコル起動】
空間が歪んだ気がした。いや実際歪んでいる。その歪んだ空間が路地を塞いだ。雨粒が歪みに弾かれ、破裂する。
逃げ道が消えていく。
私は反射的に腕を振る。何かが使える気がする。
胸の奥のが疼いた気がした。だけど何も起きない。
空間の歪みがゆっくり収縮してくる。
(捕まる)
胸の糸が強く引いた。塔へ、塔へ、と。
私は走り出した。
歪みが閉じ切る前に身体を滑り込ませ、廃墟の通りへ飛び出す。足が軽い。軽すぎて、地面に触れるたび自分が浮いているみたいだ。
崩れた高架下を抜ける。錆びた車の列を飛び越える。割れた広告板の影を縫って走る。
背後で羽音が増える。ひとつじゃない。二つ、三つ――数が増えていく。
路面の水たまりに、ネオンが歪んで映る。その上を踏み割った瞬間、私の身体が一瞬だけ揺らいだ。輪郭が薄くなり、雨が身体の“内側”を通るような感覚がした。
(……なに、これ)
怖い。けど止まれない。
曲がり角を曲がった瞬間、前方に赤い光が走った。レーザー。通路を横切るように、逃げ道を切り分ける。
小型の飛行体が先回りしている。
私は足を止めた。息が切れる。胸の糸はさらに強く張り、塔を指して鳴る。だけど塔は遠い。遠すぎる。
その時――壁が動いた。
違う。壁じゃない。路地の奥から、背の高い人影が滑るように現れた。雨に濡れた外套。金属の脚。片目だけが薄く光っている。
「動くな」
低い声。機械みたいに冷たいのに、呼吸が混じっている。
その人影が片腕を上げた。腕の内側が開き、黒い板状の装置が展開する。そして私を庇うように前に立った。
次の瞬間、空気が裂ける音。
飛行体の射撃。赤い線が腕に吸われ、散って消える。
人影は舌打ちして、飛行体を睨んだ。
「……追い方が雑になってきたな。回収局の犬ども」
人影は私を一瞥し、短く言う。
「掴まれ」
外套の袖から伸びた手首は、人間の腕ではなかった。関節の隙間から金属が見える。それでも、その動きは生き物のそれだった。
私は躊躇した。
知らない相手。敵?味方?
でも背後の羽音が近い。歪みのような“囲い”が、また形成され始めている。
私は手を伸ばし、その手首を掴んだ。
瞬間、身体が空へ引き上げられる。
ワイヤーが弾ける音。どこかに引っかかったのか、視界が一気に上へ跳ねた。路地の壁が落ちていく。雨が斜めに流れる。高架の影を越えて、廃ビルの屋上へ。
着地した時、膝が震えた。私は息を吸い込み、屋上のコンクリートの冷たさを手で確かめる。確かに“ここ”にいる。
隣で、人影だったものが外套の襟を上げた。
近くで見ると分かった。ロボットじゃない。外套の下に、金属と布と――まだ温度のある肌が混ざっている。片目の光は義眼だ。もう片方の目は、濡れた睫毛の奥で生きていた。
彼は雨を払うように首を振り、私を見る。
「……未登録か」
それは質問ではなく、確認だった。
私は答えられない。何も分からない。名前すら。
言葉が詰まる私を見て、彼は小さく息を吐いた。
「わからないならいい。今は逃げることが先だ」
ドローンが屋上の縁を回り込む。羽音が近づく。赤い点が、再び私たちを捉えた。
彼は外套の裾を翻し、私の前に立つ。
「こっちだ、ついて来い」
私は一瞬、遠くの塔を見た。
胸の糸は、まだ塔を指す。雨の中でも、途切れない。
けれど今は――生きていないと、辿り着けない。
私は頷いた。
彼の背中を追って走り出す。
(この人は誰? この世界は何? そして――私は何?)
答えはまだない。
ただ、塔だけが遠くで光っていた。




