喜びの連鎖(アルベール)
本編完結後日談
日の出前、辺りはまだ薄暗い中で目を覚ました。顔を上げてぐるりと部屋を見渡すと、その私の動きが伝わったのだろう、腕の中で眠っていたトモエが少し身じろいで小さな声を漏らす。冬から春へと変わりゆこうとするこの時期はまだ少し寒く、暖を取る様に擦り寄ってくる彼女の様子がとても可愛くて、口元が緩んだ。長い黒絹の様な、柔らかく艶やかな髪を指で梳きながら名前を呼ぶ。
「トモエ」
「ん…」
このまま眠らせてあげたいと思うのだが、起こして欲しいとは彼女の望みだ。
私はトモエよりも早くに起床するので、共に眠るようになってから初めの頃は、眠る彼女を残して朝の鍛錬へと向かっていた。彼女もそれに対して特に何も言わなかったのだが、ある日、私が朝の鍛錬を取りやめて、彼女の目覚めを待ち共に朝を迎えると、これからは一緒に起こして欲しいと彼女が言った。不思議に首を傾げると、こうして一緒に朝を迎えることがすごく幸せだと、恥ずかしそうに言った彼女に幸せを感じた…と共に、朝から色々と葛藤することになったが。
もう一度名前を呼んで少し体を揺すると、トモエは薄らと目を開いて私を認識する。彼女の、この辺りでは非常に珍しい黒い目は、こうして間近で見ればダークブラウンであることを知っているのは自分だけなのかもしれない。まだぼんやりとした様子でこちらをじっと見ている彼女の額に口付けると、ぱちぱちと瞬いた彼女は少ししてはにかんだ。
「おはようございます、トモエ。」
「…おはようです、アルベール。」
もう一度額に口付けると、小さく笑ったトモエはお返しといったように頬に口付けてくれた。それに幸せを感じながら抱きしめる腕を離すと、ベッドから出たトモエは、また後でと言って部屋を出ていく。名残惜しく思いながらも、顔を洗って支度をし朝の鍛錬へと向かった。
朝の澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込んで、吐き出す。軽く体を動かして額に滲んだ汗を拭い、天を仰ぐと白み始めている空が目に映った。
何にも脅かされることなく、腕に愛しい恋人を抱いて清々しい朝を迎える。これほどまでに心も体も満たされる日々を過ごせるようになるなんて、一年近く前、この黒の森に逃げてきてばかりの頃には想像もつかなかった事だ。
「随分と脂下がった顔だな、アルト。」
「…失礼ですね、兄上。私はただ、幸せをかみしめているだけです。」
「そうか。幸せなら何よりだ。」
横手から声をかけられてそちらを見やれば、人影がひとつ見えた。ディープブルーの目と私と同じプラチナブロンドの髪、その髪色と同じ毛色をした猫の耳を頭に生やした男。アフロート王国の王太子であり、私の兄であるアデルバートだ。
ここは黒の森、アフロート王国とエールラン王国の国境近くに位置するこの場所に何故、アフロートの王都にいるはずの王太子がここにいるのか。王太子である兄の私室の扉にも、エールランの店と同じ様に転移魔法の道具を配置しており、トモエが魔力を注ぎさえすれば繋がるようになっている。なので、兄がこちらに来たい場合は、一定の手順で扉をノックするとこちらに伝わるようになっており、その音を聞いてトモエが扉を繋げることで実現させていた。
兄がここにいるということは、トモエがそれに応えたからだろう、この来客を知っているならば、彼女もそのうちここにやってくるはずだ。
「最近、何か困ったことは起きていないか?」
「いいえ、特にはございません。」
兄が王太子なのだから、私も王族と呼ばれる血筋、第三王子ではあるのだが、母方の血筋と色々な事情があって、私自身に王族としての価値はない。既に四年前に死去したことになっているので、尚更だ。
それでも、私にはアフロート王家の血が流れているのだから、用心に越したことはない。こうして定期的にこちらの様子を確認しにやってくるのは、兄の善意だけでは無いことを理解している。王太子直々に確認するのも、これ以上に第三王子の生存を知られる訳にはいかないからだ。
アフロートの王子として生きた十八年間、殆ど人前に出ることは無く、姿絵や特徴すらも残されていない故に、私の姿を知るものは片手で数えられる程だ。王と二人の兄王子、私が住んでいた離宮にいた年老いた使用人が一人。私の知る限りは以上で、他は既に死んでいる。第三王子が生きている、という事実を知っているものはもう少し増えるかもしれないが、姿形を知らねばたどり着くことも出来ぬだろう。
数度は公の場に出ることがあり、その際姿はほとんど隠されていたが、そこで垣間見られた私の容貌が大袈裟に伝わり、噂にはなっていたようだ。だが、所詮は噂、他国にいる私とアフロートの死去した第三王子が結びつくことはまず無い。
それでも念には念を、といったところだろうか。そんな私の考えなど簡単に察せるようで、兄が困ったような笑みを浮かべて肩を竦めた。少し悲しそうにも見えるそんな表情をさせてしまうことが少し後ろめたくて、話題を変えるべく、どうしても目がいってしまうものに話を切り替える。
「…兄上。その耳、そろそろ解かれた方がよろしいかと存じますが…」
どうしても目がいってしまうもの、それは兄の頭の上に鎮座する猫の耳だ。この獣耳は生まれつきのものでも、本人が望んでつけている訳でもなく、兄が以前トモエによって解かれた、生きたまま体が崩れて苦しみもがきながら猫の姿になるという、呪いの後遺症故だ。真夜中に耳と尾が生えてきて、朝方に元に戻るらしい。猫の耳と尾の形をしているが、耳や尾としての機能は全く無く、本当にただついているだけの邪魔なものでしか無い…らしい。
「断る。」
「…何の為にこちらにいらっしゃるのですか…」
それらが発現した際、この世の終わりかと言わんばかりに落胆していた兄の様子からは想像出来ないほど、真剣な表情で断られた。名目上は、この呪いの後遺症の治療の為に定期的にこうしてトモエの元にやってきているはずなのだが、その獣耳が王太子妃と娘に好評で、いい思いができるからという不純な動機で治療を止めている。トモエはそれを困ったように笑いながら、仕方がないですねと許していた。私ならば無理矢理にでも治療しお帰りいただくところだというのに、なんと優しいことか。
「…そんな目で見てくれるな。今日はお前に用があって来たのだ。」
一時期は疎ましく思えたそれも、今では可愛く見えるものだ。ひょこひょこと動く耳を見ながら、兄の用件が何かを考えてみるも、思い当たらない。首を傾げながら兄の言葉を待っていると、先程の私などとは比べ物にならないくらいに、兄は脂下がった表情を浮かべた。
「まだ内密な事だが…実は、妻が懐妊してな。」
「それは…!おめでとうございます。」
無理もないだろう、兄と奥方はそれはそれは仲睦まじいと言われる王太子夫婦だ。愛しい妻が我が子を宿したのだ、嬉しくて仕方がないのだろう。兄が嬉しそうにしている姿を見れば、自然と笑みがこぼれる。
「おめでとうございます。」
小屋から盆をもってやってきたトモエが、微笑みながら盆の上にのせられたカップを手に取って、兄に差し出した。そこには湯気がたつ紅茶が注がれていて、感謝しながら受け取った兄は一口それを飲む。もう一つのカップを私に差し出してくれたトモエに感謝し、受け取って同じように一口飲んだ。
「そういったわけで、加護を貰いたくてな。」
異世界からやってきた彼女には馴染みのないものだろう、兄の言葉にトモエが首を傾げたので、加護について簡単に説明する。
古くから、大事な機会が巡ってきた際は魔力持ちから加護をいただくという慣わしがある。今回は安産祈願にあたる。
兄はアフロート王国の王太子、正式に加護をいただく儀はあるだろうが、より強い魔力持ちから加護をいただくというのは、大事な想いが強ければ強いほど、望むものだ。だからこうして、魔力持ちである私の元へとやってきたのだろう。
「…ならば、私ではなくトモエの方が望ましいのでは?」
私は一般的な魔法使いに比べれば、破格の魔力を持って生まれた。更にこの数ヶ月で格段に魔力量が引き上がってはいるものの、魔女の弟子であるトモエにはまだ敵わない。そう思って言えば、先程と同じような、兄は少し困ったような表情になる。
「…殿下はきっと、弟のあなたから加護をもらいたいんだと思いますよ。」
トモエの言葉に思わず兄を凝視すると、兄はそこまで驚くことかと苦笑いを浮かべた。驚いたと言うより、全く思い当たらなかったので信じ難かったのだが、兄が私を弟として扱ってくれているということに、じわじわと喜びが広がっていく。
「私で、よろしいのですか?」
「お前が良いから、態々こうしてきたのだ。」
そう言って貰えると、少し嬉しい。トモエも嬉しそうに微笑んでいて、私と目が合うと更に笑顔を浮かべた。
兄は手にした紅茶を飲み干し、トモエが空になったカップを受け取った。トモエは私の近くまでやってきたので、私も同じ様に紅茶を飲み干して空いたカップを彼女に手渡す。受け取った彼女は一歩下がって、私達を見守った。
「…では不肖の身ながら、私から加護を。」
「ああ、頼む。」
兄がすっと伸ばしてきた右手を手に取り、額を寄せる。加護と言っても、ただ魔力を込めた祈りを捧げるだけのもので、確かな効果があるものでは無いが、想いが通じるようにと強く祈りを捧げた。兄と奥方との子が、無事に生まれるように。これから生まれる子に、多くの幸があるように、と。
「…有難う。」
顔をあげれば、穏やかな笑みを浮かべる兄が目に映った。これほど穏やかに笑う兄の姿を見るのは、初めてだ。トモエは兄の後ろにいるのでそれは見えないだろう、だからこそこんな表情を見せてくれたのかもしれない。
三人で小屋の中に戻り、邪魔者は早々に退散すると言った兄を、トモエと二人並んで見送る。
「トモエ殿、愚弟をよろしく頼む。」
そう言って頭を下げた兄に驚いたように目を丸くしたトモエは、数度瞬きをした後、はい、と柔らかく笑んだ。それを見て満足げに頷いた兄は、またなと言って、扉をくぐって本来のあるべき場所へと帰っていく。
「…嬉しそうでいらっしゃる。」
隣でニコニコと笑っているトモエの肩を抱くと、彼女は嬉しそうに目を細めてこちらを見上げた。
「仲が良さそうだなあって。」
「…そう、でしょうか?」
蟠りのあった私達兄弟の関係も、少しずつ改善されているとは思う。それは、トモエがいたからだ。もし彼女がいなければ、私達兄弟は再会することも無く、お互いに全く関わりのない人生を歩んでいただろう。
「そうですよ。殿下はアルベールのことが心配で、こうして様子を見に来ているんでしょうし。」
それはどうだろうかと内心思うのだが、私のその考えを察したのだろう、彼女は少しだけ眉尻を下げる。
「…色々あるかもしれないですけれど、その気持ちはきっとありますよ。お子さんのことだって、嬉しい気持ちをアルベールにも伝えたかったんだと思います。きっと、アルベールが、殿下にとっては大事な弟だから…私はそう思っているから、嬉しいんです。」
兄の行動には色々と理由があるのだろうが、結局は私の受け取り方次第だ。嬉しいという気持ちを、大切な人に伝えたい。兄がその大切な人の一人に私を含めてくれたのならば、それはとても嬉しい事だ。
「…そうですね。私も、そう思うと嬉しく存じます。」
「ふふ、アルベールが嬉しいなら、私も嬉しいです。」
「貴女が嬉しいのなら、私もまた嬉しく存じます。」
そして、それを自分の事のように喜んでくれる愛しい彼女が、そばにいてくれることが何よりも嬉しい。私に身を預けるように寄りかかったトモエを抱き寄せると、嬉しそうに笑った彼女はゆっくりと目を閉じた。
「こうやって、嬉しいって気持ちは連鎖していくんですね。」
トモエの優しい声が、心地好く響く。離宮に一人暮らしていた時には、決して知ることが出来なかった気持ちだ。兄の喜びを純粋に喜べるのも、私のそばに彼女がいてくれることで、私が満たされているからだろう。
私の、異世界からやってきた愛しい人。これからもずっと、共にいることを誓いあった、大切な人だ。
「…これからも共に…多くの喜びを貴女と分かち合うことが出来ればと、存じます。」
「はい。…ずっと、一緒です。」
暫くこうして、抱き合って密着していたのだが、
「!朝食っ…用意出来てますから、先ずは朝食を一緒に食べましょうっ!…ね?」
顔を真っ赤にしたトモエはそう言って慌ててキッチンへ向かい、その様子につい笑みがこぼれながら、私はトモエの後を追った。




