第3話 私と彼と不思議な猫 (8)
店は既に昼を過ぎていた為、お休みとすることにした。アルベールに念の為と外出は控えるように言われたが、体調はすこぶる良い。暇を持て余して、黒の森に迷い込んだ猫と観察という名目で一緒に遊んでいたのだが、毛色が珍しいと言うだけで、普通の猫と何も変わりなかった。実に愛らしいその猫は、即席で作った猫じゃらしのおもちゃを先程まで追いかけ回していたのだが、今は眠気が勝るらしく、撫でても無反応だ。自由なものだ。
「…トモエは、先程からその猫を構ってばかり。」
アルベールの少し不服そうな声音が聞こえて振り返る。顔を向けると、声音通り少しだけ拗ねたような表情を浮かべていた。いつも穏やかな笑顔を浮かべているイメージの強いアルベールが、こうして表情を見せてくれることを少し嬉しく思っていると、彼は私の隣にしゃがみこんだ。
「羨ましい猫であられる。」
アルベールの指が猫の喉元を撫でると、猫はにゃあと小さく鳴いた。私には無反応であったのに、アルベールには反応するとは。
「貴女の世界にも、猫はいたのでしょうか。」
「いましたよ。でも、こんな綺麗な毛色の猫は初めてみました。」
黒色や白色、茶色といった猫はよく見ていたのだが、白っぽい金色の毛並みはこの猫が初めてだ。本当に、アルベールのプラチナブロンドと同じ色をしている。つい撫でたくなるのはそれも理由の一つかもしれない。
「貴女の世界は、どのような世界なのでしょう?」
猫から視線を外し、アルベールが問いかけてくる。以前、貴女のことを知りたいとアルベールが私に言ってくれたことを思い出し、鈍感といわれた私を今の私も鈍感と言ってやりたい。
考えてみれば、アルベールと出会ったのは三ヶ月前、そろそろ四ヶ月前になるくらいだろうか。まだまだ、お互いに知らないことばかりだ。
「…この世界とは違って、魔法がない世界でした。魔力じゃなくて、電気やガスといったエネルギーで色んなことを実現させていて…」
「…でんき、ガス…」
「電気はええっと、雷に気って書くんですけど…」
ここは異世界、西洋な見た目に反して、皆流暢に日本語を話している。正確には日本語とは言わないが、漢字やひらがな、カタカナが存在していて、名前は全てカタカナ表記だ。私が日本語と認識しているだけで、気付かぬうちに全く別の言葉を話し、聞き、書き、見ているのかもしれないが。
車や電車といった文明の利器の話、好きな食べ物の話、旅行に行った先での楽しかったこと、仕事で辛かったこと、色々なことを話した。アルベールは驚いたり、笑ったり、考え込んだりと様々な反応を返してくれながら、全て聞いてくれる。私が家族の話をしなかったことも、気づいているだろうが何も言わなかった。
「…それで、春になると桜という木の花が咲くんですけど、これがすぐに散ってしまうんです。だから見頃がすごく短いんですけど、この桜が何本も並んで満開に咲く様は絶景なんですよ。」
「それは拝見したいものです。」
「アルベールにも見てもらいたいです。ああ、そうだ…」
閃いて、立ち上がり呪文を詠唱する。使おうとしているのは、幻を生み出す魔法だ。これは魔力の操作技術と、何より想像力を必要とする。魔力の操作は今までよりも随分と楽にできて、倒れた甲斐があったかもしれない。この世界に迷い込む直前にいった、花見の光景をできるだけ鮮明に思い出して魔法を完成させると、眩い光があたりを覆い、それは地を生み、木を形取り、花を咲かせた。
魔女の小屋の中だった場所が、私が住んでいた町の公園に似た場所になった。ブランコや滑り台などといった遊具があり、それらを囲むように桜が咲き誇っている。公園の周りはずっと桜が埋めつくしていて、街並みは見えない。現実のこの公園とは相違しているだろうが、それは私が生み出した幻だからだ。
「…貴女の魔法には驚かされるばかりですね。」
「ふふ。あ、でも細かいところは見ないでください。ちゃんと再現出来てないですから…」
よくよく見れば、花がぼやけていたり一部が黒いシミのようなものが出来ていたりするが、それは私の想像力が足りてないからだ。そこに意識を持っていき想像を補間すれば、埋まる。全てを埋めることは流石に難しいが、見える部分だけなら気づく都度埋めていくようにした。
「トモエはサクラが好きなのですね。」
「はい、すごく。」
「とても、美しい花ですね。」
アルベールは感嘆した様子でそう言うと、手を伸ばした。その開いた掌にひらひらと桜の花びらが舞い降りて、収まる。
「桜の花びらを地面に落ちるまえに掴み取ると、願いが叶うなんて言い伝えもあるんですよ。これは幻ですけど、もしかしたらアルベールの願いも叶うかも知れません。」
しげしげと手のひらに収まった花びらを、アルベールは眺めた。彼はどんな願いをかけるのだろう。それが叶うように力になることが出来たらいいのだが。
「…アルベール?」
花弁を眺めたまま、黙ってしまったアルベールが心配になって声をかけると、はっとしたように彼は顔を上げた。
「ああ、…貴女は本当に、遠い方だったのだと、改めて感じまして…」
「遠い?」
「私達各々の身に何も起こらなかったとしたら、私達は出会うことも無かったのでしょう。」
そうかもしれない。何事も無かったとしたら、アルベールは今も軟禁状態であっただろうし、私もいつものようにただ働いていただけかもしれない。不幸な出来事だったとしても、その上にこの出会いが成り立っている。
「…今、そばにいますよ。」
今こうして、隣に立てるのはその出会いがあったからだ。そっと隣に立つアルベールの左手を握ると、握り返してくれる。温かな体温が繋いだ手から伝わって、幻ではなく確かにここにいるのだと認識出来た。
「にゃあ」
足元から鳴き声が聞こえて見下ろすと、先程までごろんと寝転がっていた猫が起き上がって、じっとこちらを見上げていた。…構えと言っているような気がする。
「…自由気ままな猫であられる。」
アルベールはあきれたような声でそう言うと、まるで返事を返したように猫がもう一度鳴いた。
それからいつもと変わらぬ時間が過ぎて寝静まった頃、真夜中に異常な魔力の流れを感じて目を覚ます。寝間着の上からガウンを羽織って部屋を出ると、同じように異常事態に気づいたのであろうアルベールと鉢合わせた。
「…猫ちゃん?」
その異常な魔力の流れは、昼間に拾った猫から発せられていた。昼間は惰眠を貪り、元気で自由気ままに振舞っていた猫が、低く唸りながら体を丸めている。どこか苦しげな様子に近付こうとして、アルベールに手で静止された。
「…何が起こるかわかりません。」
猫はとても苦しそうだ。昼間の姿を思い出すと、胸が痛む。だが、自分たちの安全が最優先なのも確かだ。せめて何が起こっているのかさえわかれば手を出しやすいのだが、今の少ない情報だけでは判断出来ない。じっと目を凝らしてその魔力の流れを見ると、猫から発せられた魔力が再び猫に向かっているのがわかった。循環するその魔力は酷く澱んでいて、それは悪意を持った意志で動かされているものだ。
「…呪い?」
そう口にした次の瞬間、猫が悲鳴を上げた。ビクリと体を硬直させて猫を凝視すると、仰け反った猫の体がありえない方向に曲がる。骨が折れるような鈍い音が耳に届き、顔を歪めたところで突然アルベールに引き寄せられ、顔を胸元に押し付けるような形になった。視界が覆い隠され、耳を腕で塞がれる。だが、完全に音が遮断できた訳ではなく、ぐちゃりという鼓膜を震わす嫌な音に身体が震える。それは短い間の事だったのだろうが、あまりのことに長い長い時間が経ったかのように錯覚した。
音が止んで、アルベールの腕の力が緩んだ。逃げ出したい衝動に駆られながらも、ここで起きたことは正しく把握しなければならないと覚悟を決めて、なんとか後ろを振り返る。
目に映ったのは凄惨な光景、ではなかった。なかったから、アルベールの腕の力が緩んだのかもしれない。
猫の姿はどこにもなかったが、あの色はそこにあった。但し、人間の形になって。
目を疑ったが、何度瞬きをしても、確かに全裸の男が、転がっている。
「…あ…、…え…」
乾いた声が、静かな部屋に妙に響いた。それは私のものでは無い、呆然とその全裸の男を眺めていたアルベールのものだ。
間近でそれを聞いた私の耳には、その発せられた言葉を正確に聞き取る。だがそれがこの場にそぐわないものであったので、思わず彼の顔を見上げた。




