第3話 私と彼と不思議な猫 (6)
朝目が覚めて、昨日のことは夢だったのではと疑うところから一日がはじまった。
いつもと変わらない自分の部屋の天井が見えて、いつも通りの朝だ。自分の都合のいい夢だと言われた方が自然な気さえする。
「…アルベール…」
掛け布団を抱きしめる。昨日のやり取りを思い出すだけで、顔から火が出そうだ。想いを通じあって抱きしめあった、それだけだ。それだけだと言われるとその通りなのだが、如何せん経験のない私には十分刺激が強かった。年甲斐もないのは自覚があるが、この歳までにきちんと経験を積んでいなかったのだから、耐性がなくとも仕方がないではないか。脳内でそんな言い訳をしながら、起きて朝食を用意しなければと観念して、ベッドから這い出て身支度する。いつものように支度、なのだが、鏡に向かって変なところはないかと何度も確認をとったことだけは、いつもと違ったかもしれない。
部屋を出て朝食を用意していると、小屋の扉が開いた音が聞こえて振り返った。普通の人間は誰もたどり着けない魔女の小屋の扉を開くのは、私とあと一人しかいない。予想通り、入ってきたのはアルベールだ。私が外で鍛錬している彼を呼びに行くのが常であったので、珍しい。
「トモエ、おはようございます。」
アルベールはこちらの姿を認めると、柔らかく微笑んだ。その笑顔はいつもと同じはずなのに、こんなにもきらきらとして見えるのは、一体。
「…おはよう、です。」
顔が熱くなるのを感じながら、朝の挨拶を交わす。このまま一緒に朝食をと思ったのだが、席に着く前に、アルベールがこちらにゆっくりと近づいてきた。ふと見ると、彼の手には一輪の花が握られていて、それを目を向けたのと同時に差し出される。
「愛しい貴女に。」
「…っ」
変な声を上げそうになったのを飲み込む。朝から心臓が働きすぎて死んでしまうのではないだろうかと思った。真白い花弁の小さな花は、この黒の森でしか咲いていない魔力を含んだ花で、魔法使いが受け取るものとしては最高級だ。
「ありがとうございます…すごく、嬉しいです。」
わざわざ私のために摘んできてくれたのだろうと思うと、胸がきゅっとなって、どうしようもないくらい嬉しい。自然と笑顔になると、アルベールも笑みを浮かべた。
「…そういえば、前も貰ったことありましたね…」
「はい、あの頃…私の気持ちは全く伝わってはいなかった様ですが。」
「うっ」
アルベールを匿うことになってから一週間ほどした頃だっただろうか、今日のように、朝に花を贈られたことがあった。この花は朝、花開いたばかりの時が一番魔力が強い。そんな花をわざわざ朝早くに摘んできてくれてるのだから、魔法使いとしても、ただの男女としても、何かしら察してもよかったのではないか。
「その、慣れてなかったんです…」
「では貴女に花を贈った男は?」
「そんな珍しい人、アルベールだけですよ。あれが初めてでした。」
「それは光栄です。私も、女性に花を贈るのは初めてでしたし、…これから先も、ずっと貴女だけでしょう。」
私だけ、と言われて嬉しくないはずがない。真っ赤になって硬直してしまっていると、左の頬を撫ぜられた。アルベールには言葉にしなければと伝わらないと言われ、イレーネには鈍いと認められ、往生際が悪いと言われた私でも、流石にこの流れは察する。どうしようかと視線を左右に彷徨わせるが、そんなことをしても何も変わらず、アルベールの顔を見れば、目が合ってにっこりと微笑まれた。
目を瞑ると、唇に柔らかいものが触れる。それがアルベールの唇だとわかった時には、直ぐに離れていった。瞼をあげると、すぐ近くに彼の顔があってまじまじと眺めてしまう。美しい顔立ち、特に目を引くのが赤い目だ。
「いかがなさいましたか?」
「アルベールが、…綺麗だなと…」
アルベールの赤い目を、とても美しいと思う。
「…この顔と目を、貴女は好いてくださるのですか。」
何故かはわからないが、ほんの少しだけアルベールの表情が暗くなった。こんな至近距離で眺めていなければ気づかなかったような、僅かな変化だ。
「えっと…はい、顔も目も、アルベールの一部だから…」
その変化に戸惑いながらも答えると、アルベールは嬉しそうに笑った。こんな間近で美しい、しかも自分が好きな相手のこの笑顔は心臓に悪い。
「貴女は本当に、私が欲しい言葉をくださる。」
「え?」
「貴女が好いてくださるなら、私も好きになれそうです。」
どういう意味だろうかと疑問が浮かんだが、それを問う前にもう一度唇が重ねられた。先程とは違ってすぐ離れることはなく、瞼を落とすと、それは深いものになっていった。初めは羞恥の気持ちがあったはずなのだが、熱にうかされたように徐々に溶けてなくなっていく。暫くそうしていて、熱がこもった息を吐き出して唇が離れると、忘れかけていたその羞恥が一気にこみ上げてきた。
「あ、アルベール…」
片手で口元を覆う。初めてのことに頭がついていけなかった。アルベールは目を細めて笑う。
「私としては、ずっとこうしていたいですけれど」
「っ朝食を!食べましょう!」
思わず大きな声でそう言うと、アルベールはくすりと笑った。彼が笑う度に、胸が高鳴る。寿命が一気に縮んでいる気がする。
朝食をとるために席につこうとするが、突然ぐにゃりと視界が歪んだ。堪らずしゃがみこんで、どうやら倒れることは避けられたようだ。だが、体に力が入らず、酔っ払ったような感じでふわふわとしている。
「トモエ?」
アルベールが心配そうな声で、傍らに跪いた。大丈夫だと答えたかったのだが、これでは嘘になってしまいそうだ。
「なんだか…酔っ払ったような、感じが、」
「…少し横になりましょう。」
ふわふわとした意識の中で何とかそう伝えると、すぐに抱き上げられた。ぐったりとそのまま身を預けると、失礼しますとアルベールは断って、私の部屋に入ってベッドに寝かせてくれた。アルベールを部屋に入れたのは初めてだ。こんなことになるのであれば、綺麗に片付けておけばよかった。情けない気持ちで見上げると、心配そうな表情を浮かべたアルベールがみえて、そんな顔よりも笑っている方がいいのにとぼんやり考えながら、私の身に何が起こったのかを考える。
「…トモエは異世界人でしたね。」
「はい…この世界に来たのは二年前くらいです。」
「では、黒の魔女から何かを与えられ、同じ様になったことはおありになりますか?」
黒の魔女から、とは限定的な問いだ。記憶をたどれば、確かに同じ様な状態になったことがあった。エイダに助けられて、弟子になると決めた日の事だ。
「確か…赤い飲み物をもらって、同じ様なことが…」
同じ様なとは言ったが、あの時の方が酷かった。酔っ払ったような感覚が数日続いたのだ。しかしその後、自分のもつ魔力が増えた上に扱いも急に上達したものだから、寝込んだ甲斐はあったのだが。
「…それは恐らく、魔女の血でしょう。」
「…言われてみれば…鉄分の味が…」
エイダから飲むように言われて差し出されたので、何か特別な薬なのだと疑うことなく飲み干したが、あれは血だったのか。血だとわかっていれば飲むことに抵抗があっただろうから、エイダはわざと黙っていたのかもしれない。
この会話だけでアルベールは既に何が起こったのかを理解したのだろう。何故か片手で己の顔を覆っている。
「…アルベール?」
「ああ、いえ、…私のせい、なのでしょう。」
何故そうなるのだろうか。違うといいたかったが、まだ自分では何が起こったのかを理解出来ていなくて言えない。説明を求めるように視線をやれば、アルベールは少しだけ悲しそうな表情を浮べて口をひらく。
「推測ではありますが、異世界から来た貴女は赤子と同じ状態なのでしょう。その膨大な魔力がまだ体に馴染んでいない。」
アルベール自身にも覚えがあるのだろうか。私は赤子と違って体は十分に成熟しているから、体調を崩すといったことは無かったのだろう。私が未だに魔力をうまく扱えていないのは、馴染んでいなかったからのようだ。
「私も幼い頃は、色々な魔力を吸収することで刺激を与え、馴染むのを促進させていたそうです。黒の魔女も、自分の魔力を貴女に吸収させたのでしょうが…魔女と呼ばれるほどの魔力を持った方の魔力ですから、刺激が強すぎたのでしょう。」
成程と納得したところで、アルベールが何故自分のせいだと言ったのかを理解して、同時に顔が熱くなった。アルベールも魔女程ではないが、とても魔力を擁している。その魔力を私が取り込んで、刺激が強すぎたのでこうなったというわけだ。
「貴女の魔力が馴染みきってしまえば、このような事は起きないでしょうが…」
「っそれは…」
「今は何も考えず、おやすみください。」
そう言われて、視界を手で覆われる。何を言えばいいのかわからないまま、ただ唇を噛んだ。




