第3話 私と彼と不思議な猫 (3)
イレーネと一緒に入ったのは向かいの店だ。アルベールとも何回か来たことがあって、その時のことを思い出すとまた胸が締め付けられる。店内は明るく賑やかで、胃を刺激する美味しそうな匂いがしてきゅうっと腹が鳴った。私が情けないような、少し陰鬱な気分であっても体は生きるために活動しているのだなと苦笑いする。
「すみません、動揺していて先程は見苦しいところを…」
「気にしないわ!それより友達なんだから、さっきみたいに話してくれると嬉しいわね。」
「…うん、そうだね。」
先程は動揺していたからか、イレーネの問いにうん、と返していた気がする。素直に話し方を崩す事にすると、にっこりと嬉しそうにイレーネは笑んだ。こちらの世界に来てから、話し方を崩していた相手はエイダだけであったので、新鮮だ。エイダともそのように話せるようになったのは、時間がかかったが。
「それで、何かあったの?アルトと。」
そのまま席に案内されて座ると、開口一番にイレーネが問いかけてきた。しかもアルベールを名指しだ。先程の店内には二人きり、しかも片方は泣きそうな顔をしていたとなると、二人の間に何かあったと考えるのが自然だろう。どう答えるべきかと悩んだが、イレーネは私の大切な友人であり、彼女は今私の心配をしてくれている。正直に私が思っていることを相談してもよいのではないだろうか。きっとイレーネはしっかり答えてくれるだろうし、何より誰かに話したいという気持ちが強い。
「あのね…」
恐る恐る口を開くと、イレーネは真剣な表情で言葉を待ってくれる。本当に私のことを心配してくれているのが伝わって、少し嬉しい。恥ずかしいような、情けないような気持ちでなかなか言葉を発せなかったのだが、じっと待ってくれているイレーネに感謝してなんとか言葉をひねり出す。
「…アルトが昨日、店によく来る女性のお客さんに昼食を誘われて、二人で出かけたんだけど…」
「まあ!」
そこで何故かイレーネの目尻がきゅっと上がる。ここは怒るところなのだろうか。
「えっと、私が余計な口出ししたからそうせざるを得なくなってしまった感じというか…だからアルトは何も悪くないんだけど…」
「それでもトモエがいるのに!」
イレーネは両手をぐっと握りしめて怒りをあらわにする。私がいるからといって何故と疑問に思ったが、イレーネもそれ以上何かを言うつもりは無いらしく、唇を尖らせながら黙っていた。
「…でも食べずにすぐ帰ってきてね、そこでアルトがその…自分には心に決めた人がいるからって断ったらしいんだけど…」
「まあ!」
一転して、イレーネは驚いた声を上げ、口には笑みを浮かべていた。恋の話に気分が盛り上がっているのだろう。私ももしこの胸を締め付けるような想いが無ければ、イレーネと話が盛り上がっていたかもしれない。
「それで、その…それを聞いて、私…」
「うんうん」
「アルトにそんな、好きな人がいるんだって知って、ショックを受けてしまって…」
「………………え?」
「だからその…私、アルトの事が、すっ…す…好きなんだって、自覚しちゃって…」
イレーネが驚いた表情でぽかんと口を開いた。何でもはっきりものを言う彼女らしからぬ様子だ。顔がすごく熱くなって、きっと真っ赤になっているのだろう、とても恥ずかしくて両手で顔を覆う。年甲斐も無くというなかれ、元の世界でいいなと思っていた男性はいたが、こんな気持ちになるのは初めてなのだ。
「うう、私、…こんな気持ち初めてで…」
「まあ…!トモエったら可愛い…」
「っからかわないで…でもだから、その、アルトに好きな人がいるだなんて、これじゃ自覚しても…」
自覚しても苦しいだけではないか。アルベールは、自分に好意を向けてくる相手に心に決めた人がいるからと断りを入れたのだ。であれば、私も例外ではない。
「だからトモエは泣きそうになっていたの。」
「私…気づかれちゃっているかな…?」
「…アルトは、鈍くなさそうだものね。」
「や、やっぱり?…貴女にははっきりと言葉にしなければ伝わらない様だって言われちゃって、怖くて…」
アルベールはやはり、私が彼に向ける好意に気づいているのだ。だとすれば、気づいた上で私に伝えなければならないことなどひとつしかない。
「…あらいやだわ、私、邪魔をしてしまったのね。アルトに悪いことしてしまったわ。」
イレーネはそういうが、確かにアルベールには悪いが私は助かった。あのままはっきり断られていたら立ち直れなかっただろう。彼に我慢をさせてしまった事はとても申し訳なく感じるのだが、今は自覚したばかりでそれを受け入れる心の余裕が無い。結局自分のことを優先してしまっている自分に嫌気がさして俯く。
アルベールはきっと、泣きそうな私を見てあの場から逃げ出すチャンスをくれた。あの時イレーネは扉をノックなどしていなかった。彼が視線を向けなければ、私はイレーネに気づかなかったはずだ。彼はあの場でも私のことを考えてくれたというのに、私はどうしてこうも自分のことばかりなのだろう。
「…ねえ、トモエ。連れ出した私が言うのもなんだけれど、戻った方がいいと思うの。」
「そんな!まだ心の準備が…どんな顔して戻れば…!」
イレーネの言葉にばっと顔を上げる。きっと情けない顔をしているのだろう私に、イレーネは困ったように眉尻を下げた。
「…ねえトモエ、はじめから両想いの恋愛なんて、そうそうあるものじゃないと思うわ。」
「それはそうだけど…」
本で読むような物語ではよくあるが、現実は出会った瞬間からお互い運命の人のように惹かれ合うなんて恋よりも、誰かを好きになってその人に振り向いてもらえるように頑張る恋のほうがよく聞く。しかし、相手に他に好きな人がいるというのは、最初からハードルが高いのではないだろうか。
「トモエは、もし本当にアルトが他に好きな人がいるなら諦めるの?」
「…諦めたくない…」
はっきりと自覚した、アルベールが好きだという想い。たとえハードルが高くとも、やはり自分を好きになってほしいという気持ちがある。彼が他の人が好きで、その人と結ばれる事で幸せになれるならいいなんて、そんな綺麗な恋は出来そうにない。
「ならよかったわ!好きな人に、自分の事を好きになって欲しいと思う気持ちはとてもわかるわ。そのためにも頑張らないといけないわね。自然と振り向いてくれるなんて都合のいいことは、そうそう起きないもの。」
イレーネはそう言ってにっこり笑った。彼女も恋をしているのだろうか。彼女の言う通り、好きになってもらいたいのなら努力しないといけないだろう。しかも、相手が他の人を好きだというのならば、尚のことだ。
「…でも、今回頑張ったのはトモエじゃないでしょうけれど。」
「え?」
「あのねトモエ、ずっと断られることばかり考えているけれど、ちょっと考えてみてほしいの。アルトはそのお客さんにわざわざ心に決めた人がいるから、なんて言ってさっさと帰ってきたのよね。」
イレーネの言葉にうんと言って頷く。昼食を二人で食べてくるものだと思っていたのだが、昼食すら食べずに帰ってきたのだ。
「真面目よねえ。本当にその人が好きで、誠実であろうとしてるのね。」
その言葉に胸がしめつけられるようだ。それほどまでにアルベールが想う相手がいる。そう思うと切なくなったのだが、またきっと顔に出ていたのであろう、イレーネが私の様子を見て深くため息をついた。
「…ところで、トモエはよくアルトとご飯も食べに行っているし、買い物もよく一緒よね。寧ろアルトがトモエといない時なんて見たことないわ、私。」
「えっ?でもそれは…」
「心に決めた人がいるからって、他の女の人の誘いを断ったアルトが。」
イレーネが言わんとしていることはわかった。
アルベールは好きな人以外とはどこにも行く気がないという意思を、好意を向けてきた相手に伝えた。そのアルベールが、私とはどこにでも行く。なら答えは簡単でしょう、とイレーネは言いたいのだろう。
ぶわっと顔が一気に火照る。
「…いやでもそんなまさか…そんなことは…」
「私は、アルトは露骨だと思うのだけれど。」
彼の今までの言葉、触れ合いが頭の中を巡る。口説くような言葉だと思っていたが、もしそうならあれは本当に口説いていたのか。
いつからだろう、いや、ほぼ初めからだ。その言葉、触れ合いの、私の受け取り方が変わっただけで、思い返せば彼は初めの頃からああいった言動を惜しみなく向けてきていた。
はっきり言葉にしなければ伝わらないと言っていたのは。あの後に続けようとしていた言葉は。
「…あの、イレーネ、私って鈍いの?」
「鈍いと思うわ!」
にっこりと笑ったイレーネに、頭を抱えて机に突っ伏した。




