第2話 私と彼が望むこと (4)
「…っすみません、こんな…」
漸く声が出せたが、その声も震えていた。体の震えは治まりつつあるが、足に力が入らず立ち上がれそうにもない。顔を上げると思ったよりも近くにアルベールの顔があって、その赤い目が心配そうにこちらを見ていた。
「…真っ青でいらっしゃる。」
「…あの魔物には…嫌な思い出が、あって…」
二年前以降、あの種の魔物に遭遇したことは無かった。だから気づかなかったが、相当のトラウマになっていたのだろう。アルベールは彼の体でその魔物の死体が見えぬように少し位置を変えてくれる。視界に入らなくなっただけで、随分とマシになった。
「…ここに留まるのは危険でしょう。」
「そう、ですね。移動しないと…」
血の匂いにつられて他の魔物がやってくる可能性もある。この通り立ち上がることも壗ならぬ為、魔法を使おうと指先に魔力を込めようとしたところで、アルベールに手を重ねられて制止された。
「精神的に不安定な時は、魔法の使用は控えた方がよいでしょう。」
たしかにその通りだ。発動しない程度ならまだよいが、暴発させるような事があってはいけない。おかしなほど魔力を持っている私やアルベールは、特に気をつけなければならない。
深呼吸してもう一度足に力を入れてみたが、やはり思う通りには動かせなかった。情けなくて泣いてしまいそうだけれど、こんな時に泣けばさらに彼に迷惑をかけるだけだと唇を噛んでぐっと涙をこらえる。
「トモエ、少し失礼します。」
「え?」
そう言ってアルベールは籠を背負った。なんだろうと不思議に思っている間に、両膝の裏と背中に手を差し入れられて抱き上げられる。
「ひあっ?!アルベール、あのっ」
「首に腕をまわしていただけますか?」
突然のことに混乱したが、直ぐに理解してその言葉に大人しく従う。恥ずかしさは最高潮なのだが、ここで慌てて騒ぎ立てれば、ただでさえ迷惑をかけているのにより迷惑をかけてしまうだろう。
「…重いでしょう…」
「いいえ。」
太ってはいないが痩せているという訳でもなく標準的な体格だとは思うが、人間一人分だ、決して軽くない。そう思ってじっと顔を見つめると、私は魔法使いですからと微笑まれた。至近距離でその笑顔を直視してドキリとするが、アルベールに動じた様子はない。抱きつくようなこの状況に意識してしまっているのも私だけのようで、恥ずかしくて俯く。
しばらく無言で歩いていたが、少し開けた場所にたどり着いて、アルベールは近くにあった平たい岩の上に下ろしてくれた。少しはマシになったとは思うが、それでもまだ動悸がひどくて座り込む。彼は手を握ってくれて、それに縋るように強く握り返した。
「…前に、あの魔物に殺されかけたことがあって。」
言い訳のように口にした言葉を、アルベールは黙って聞いてくれた。だからか、言わなくてもいいような話までボロボロ出てきてしまう。
「私は、気づいたらこの黒の森に迷い込んでいたんです。そこで、あの魔物に襲われて、黒の魔女に助けて貰って…帰ることが出来なくて、困った私を魔女は弟子してくれたんです。それまで本当に魔法なんてものとは縁遠くて、こんな魔力を持ってるなんて、ここで初めて知りました…だから本当に…本当に私は未熟で。今もこんな体たらくで…アルベールがいなければ…」
彼がいなければ、今頃私は死んでいたのではないだろうか。もし一人で採集に行った先であの魔物に出会っていたらと思うとぶるりと震える。今まではたまたま、遭遇しなかっただけなのだ。
「ご安心ください。私が、どのような魔物が現れても必ずお守りします。」
「…すみません。アルベールにはこんなにも助けられているのに…私は呪いを解くことすら…」
彼の呪いを解こうとは毎日試みているが、少し綻びを作るのが精一杯で、解ける見込みはまだない。アルベールはそれ以外に選択肢が無かったとはいえ、私に助けを求めているというのに、私にはそれに応えられる程の力がない。なのに日々こうして、彼には多くのことで助けられている。
「元はと言えば私が、無理な願いを貴女に押し付けているのです。」
「でも…」
「それに、こうしてそばにおいてくださるのなら、呪いなど解けなくともいいと…」
「そ、それはダメです!」
呪いの向き先を私に変えたことでアルベールは仮初でも自由だ。だがそれは飽くまで私のそばでという制限がある。囚われていた時よりは遥かにマシなのかもしれないが、彼には本当の意味での自由になってほしい。
「…貴女には、私の願いを聞き入れる義務などございません。」
義務はないと言われればそうだ。無責任でも彼を放り出すという選択肢もある。それを選ぶ自由は、たしかに私にある。
「でも…でも、私が、アルベールを助けたいと思っているんです。」
アルベールの赤い目が、私をじっと見つめる。私はこの人の役に立ちたい、そう思っているのだ。
「…どうして私はここで生きているのか、わからなくて、…黒の魔女もいなくなってしまって、本当にどうしたらいいのかわからなくなっていて…」
何故この世界で生きているのかわからない、でも死にたくない。わからないまま、何とかここで居場所を作ろうとしていた。それが魔女の弟子という立場だ。
だが一人前になるにも道程は遥か遠く、そして私を後継だと認め必要としてくれるだろうと思っていた魔女も、いなくなってしまった。
森の中でずっと一人でいる事は寂しかった。王都に店を構えたのも、人との繋がりが欲しかったからだ。誰かに必要とされたかった。でなければこの理不尽な状況に気が狂いそうだったのだ。
「そんな時にアルベールが、私を必要としてくれたことに、本当に救われたんです。アルベールにはそれしか選択肢がなかったのだと分かっています、けど…」
どんな理由であれ、彼は私に助けを求めた。私の存在が必要なのだと、それに私は満たされるような想いだった。私の渇いたその存在意義を満たすために、彼の願いを利用している。なんと身勝手なのだろうと自分でも思う。
「トモエ。あの日、あの小屋にいたのが貴女でよかった。」
後ろめたさで俯いていたが、アルベールのその言葉に顔を上げる。その表情は穏やかで、胸が苦しくなった。
「…でも、黒の魔女がいたなら、今頃アルベールは呪いも解けて自由だったでしょう。」
膨大な魔力を持ち、多くの魔法を使いこなし、人々に畏怖されていた黒の魔女エイダ。彼女であれば、私が手こずっている解呪も容易く成し遂げるだろう。
「その可能性はございます。その代わり、私の心は救われなかったでしょう。」
どういう意味か分からず、首を傾げる。彼はそれに小さく笑って、繋いだ手にもう片方の掌を重ねた。両手で包まれるような形だ。掌から伝わる体温が、確かに生きていることを教えてくれる。
「貴女は、貴女自身が気づかなくとも私に多くのものを与えてくださっている。」
「…そう、なんですか?」
「はい。それに私も貴女と同じように、貴女が私を必要として下さる事に、本当に救われているのです。」
アルベールの過去は知らない。ただその存在はあまり良く思われなかったということだけは聞いている。彼も同じように、誰かに必要とされたかったのだろうか。
「事情は存じませんが、お互いに身に起こった事は決してよかったとは言えないでしょう。ですがそれを経て貴女と出会えたことは、私にとって最も幸運なものでした。」
アルベールのその言葉に、涙が出そうだった。あの日、あの時、あの場所にいたのが私ではなくエイダであれば、と何度も思ったことがある。だが、彼は私でよかったと言ってくれている。未熟で、彼を助けることもできない私でも、彼は必要としてくれる。
「…私も、アルベールと出会えてよかったです。」
こうして私に笑いかけてくれるアルベールを、自分の為だけではなく、心から助けたいと思う。




