9:収穫の時間
カラカラ、と。
薄暗い倉庫の中に、木製のスコップが空の樽の底を掻く虚ろな音が響いた。
「……嘘だろ。もう、これだけかよ!」
獣人の少年レオは、最後に残ったライ麦の粉を麻袋に掻き集めながら、青ざめた顔で呟いた。
ネクサスが設立され、旧坑道の採掘とインフラ整備が始まって数週間。
ノアの「温かい三度の飯を保証する」という約束によって、スラムの作業員たちはかつてない活気と規律を取り戻していた。
だが、その熱気を支える燃料である食料の備蓄が、今、完全に底を突こうとしている。
異変は数日前から起きていた。
バルドの街に定期的に訪れていた外部の行商人たちが、パタリと姿を見せなくなったのだ。 路地裏で飢えの恐怖を誰よりも知るレオの背筋に、冷たい汗が伝う。
「バーツのオッサン……」
広場に出たレオは、現場監督のバーツの袖を引いた。
昼の休憩時間。広場に漂うスープの匂いは明らかに薄かった。
昨日まではゴロゴロと入っていた塩漬け肉の姿は消え、今や硬い根菜のクズがわずかに浮いているだけの塩水と化している。
「……気づいてるさ」
片腕が義手の初老の男、バーツは深く刻まれた眉間の皺をさらに寄せていた。
彼の視線の先では、元ゴロツキの巨漢ガルムが力なくツルハシを置いている姿があった。
あれだけ豪快に岩を砕いていた男の腕が、小刻みに震えている。
飢えと栄養不足が、確実に彼らの肉体を蝕み始めていた。
「買い出しに行かせた若い衆が、隣町から手ぶらで帰ってきやがった。どこの商会も、俺たちバルドの人間だと分かった途端、麦一粒すら売ってくれなくなったらしい。まるで、見えない壁に街ごと閉じ込められちまったみたいだ」
「どうしてだよ! ノアの兄ちゃん、あの悪徳水商人からぶっ叩いた金貨をまだ持ってるはずだろ!? 金はあるのに、なんで飯が買えねえんだよ!」
「……金があっても、売る側が『売らない』と決めればどうにもならねえ。それが『経済』ってバケモノの恐ろしさだ」
バーツが葉巻を噛み千切るように吐き捨てた、その時だった。
――ガラガラガラッ、と。
砂埃を巻き上げ、バルドの荒れた広場には場違いなほど豪奢な、四頭立ての大型馬車が滑り込んできた。
車体に刻まれているのは、黄金の天秤と麦の穂をあしらった紋章。
大陸の物流と金融を牛耳る絶対的な権力機構、『商業ギルド連盟』の印だ。
馬車から降り立ったのは、仕立ての良い絹の服を着込んだ神経質そうな商務官だった。
彼は泥だらけの作業員たちを一瞥し、冷徹な目で広場の中央に立つ掲示板へと歩み寄ると、羊皮紙を一枚無造作に打ち付けた。
「——通達する」
商務官のよく通る声が、静まり返った広場に響く。
「我々、商業ギルド連盟地方本部は、旧鉱山都市バルドに拠点を置く非認可組織『ネクサス』との一切の取引を、本日付で全面凍結する。いかなる商人であれ、この街に食料や物資を卸した者は、即座に連盟から永久追放処分とする」
その言葉は、死刑宣告にも等しかった。
広場にどよめきが走る。ガルムが怒りで顔を真っ赤にし、一歩前に出た。
「ふざけんな! 俺たちが何をしたってんだ! 金なら払うって言ってんだろ!」
「暴力に訴えるかね? 好きにすればいい。だが、我々は法を犯してはいない」
巨漢のガルムに睨み下ろされても、商務官は顔色一つ変えなかった。
彼らは私利私欲だけで動く小悪党ではない。
「既存の市場秩序を守る」という、強固な大義名分を持っているのだ。
「君たちのようなコントロールの利かない新興勢力が、勝手な相場で物を買い漁り、独自の経済圏を作ればどうなるか。周辺都市の物価バランスが崩れ、正当な税を納めている善良な市民が飢えるのだよ。我々には『正しき流通と秩序』を守る義務がある。認可を持たぬ野良ギルドに、市場を荒らさせるわけにはいかない」
彼らの視点から見れば、ノアのやり方は既存の流通システムを脅かす劇薬に他ならない。
だからこそ、物理的な武力ではなく「経済封鎖(兵糧攻め)」という最も合法で残酷な手段で首を締めに来たのだ。
「やっぱり、俺たちじゃ本物のギルドには勝てねえんだ……」
「金貨があっても、パン一つ買えねえ。このままじゃ、またあの地獄に逆戻りだ……」
作業員たちの間に絶望が広がっていく。
剣の腕がどれだけ立とうが、魔物を打ち倒せる魔法があろうが、この「見えざる経済の壁」を断ち切ることはできない。
「……ノアの兄ちゃんは、何やってんだよ!」
レオが広場を見回すが、そこにノアの姿はない。
ノアは数日前から、地下の旧大坑道に籠もりきりだった。
技術開発長のヴィンデールとともに大量の魔喰石と謎の機材を運び込んでから、一度も地上に顔を出していないのだ。
***
その頃、地下の最深部。
分厚い石壁に覆われた広大な空間で、ノアは静かに懐中時計の秒針を見つめていた。
彼の背後では、ヴィンデールが設計した五十基にも及ぶ『太陽光シミュレーター』が、魔喰石の安定電力を受けて眩いばかりの光と熱を放っている。
「ノア! 地上が騒がしいよ! 飯が尽きたって、皆パニックになってる!」
油と煤にまみれたヴィンデールが焦ったように叫ぶ。
だが、ノアの蒼灰色の瞳には微塵の動揺もなかった。 手元の羊皮紙に書かれた緻密な計算式――温度、湿度、そして燐肥の吸収率のグラフ――に淡々とペンを走らせる。
「騒がせておけ。同情で予定を早めれば、すべてが水泡に帰す。……重要なのは感情ではなく変数だ」
ノアは冷徹な起業家としての顔を崩さなかった。
彼が相手にしているのは、目先の飢えではない。
この先何十年もバルドを支え続ける、完璧な食糧自給インフラの構築だ。
計算上、地上の食料が完全に尽きる時刻と、この地下プラントの試運転が完了する時刻は、秒単位で一致している。
「あと三時間。水路の魔導ポンプの出力と、光の波長を三パーセント上げろ。一秒たりとも狂わせるな」
「……了解!」
冷ややかなノアの指示に、ヴィンデールはぞくっと背筋を震わせ、力強くバルブを回した。
***
そして、運命の時刻が来た。
スラムの食料庫からは、ついに最後の一滴のスープも消え去った。
広場には、疲労と空腹で座り込む作業員たちの重い溜息だけが満ちている。立ち上がる気力すら奪われていた。
そこへ、再び商業ギルドの馬車が近づいてきた。
降り立った商務官は、絶望に沈む街の惨状を見渡し、満足げに口角を吊り上げた。
「さて、頭は冷えたかね。非認可ギルド『ネクサス』の諸君」
商務官はバーツとレオの前に立ち、一枚の分厚い契約書を差し出した。
「我々も鬼ではない。君たちが持つその『魔導ポンプの技術』と『西の荒れ地を含む旧坑道の権利』を我々商業ギルドに無償譲渡するなら、特例としてこの馬車に積んであるパンと麦を売ってやろう」
足元を見る、という言葉すら生温い。
彼らが血と汗で作り上げた希望のすべてを、たった数日の命と引き換えに奪い取る悪魔の契約だ。
「ふざけ……るな……!」
レオがふらつく足で立ち上がり、小さな牙を剥き出しにして唸る。
だが、痩せこけた少年の抵抗など、商務官にとってはそよ風にも等しい。
「サインをしないなら、このまま全員で餓死するだけだ。大人しく、我々『正しい秩序』の下にひざまずきたまえ」
商務官が契約書にペンを押し付けようとした、その瞬間だった。
「——そこまでだ」
背後の旧坑道の入り口から、低く、しかし絶対的な重圧を伴った声が響いた。
ズギュゥゥゥン、という魔導ポンプの駆動音を背に負いながら、暗闇の中から現れたのは黒いロングコートを羽織ったノア・レクシオンだった。
その顔に焦りや絶望の色は一切ない。
あるのは、盤面を完全に支配した者だけが持つ絶対的な余裕だ。
「ノ、ノアの兄ちゃん……!」
俺は商務官の存在など意に介さず、懐から銀色の懐中時計を取り出し、カチャリと蓋を開けた。
「……ご苦労だったな。七十二時間、秒単位で計算通りだ」
俺は時計の蓋を閉じ、初めて商務官へと冷ややかな視線を向けた。
「お前たちの腐ったパンなど一欠片も必要ない。俺たちの庭へ案内しよう。ちょうど今が――『収穫』の時間だ」




