10:三十九人目の帳簿
旧大坑道へと続く下り坂は、ひどく湿ってカビ臭かった。
俺の背後には、松明の頼りない明かりに怯えるように縮こまる作業員たちと、高級な革靴を泥で汚して顔をしかめている商業ギルドの商務官が続いている。
「……おい、非認可ギルドの代表殿。我々をこんな薄暗い穴倉に引きずり込んで、一体何のつもりだ? まさか、この壁の土でも食えと言うのではあるまいな」
商務官が香水を染み込ませたハンカチで鼻を覆いながら、嘲笑混じりに吐き捨てた。
その後ろでは、獣人の少年レオがあばらの浮いた腹を押さえ、片腕が義手の現場監督バーツが、絶望と疲労で今にも倒れそうなガルムたちを必死に支えて歩いている。
数日間に及ぶ商業ギルドの「兵糧攻め」。
彼らの肉体と精神は、もはや限界を迎えていた。
無理もない。
外からの物流を完全に断たれれば、この見捨てられた廃棄都市バルドなど数日で干上がる。
それが、剣や魔法よりも恐ろしい「経済」という見えざる暴力だ。
「土を食う必要はない。だが、その香水はしまっておけ。これから見せるものの『匂い』が分からなくなる」
俺は歩みを止め、坑道の浅層――先日、役所から底値で買い叩いた『西の荒れ地』の真下に位置する空間を塞ぐ、巨大な鉄の扉の前に立った。
扉の向こうからは、ズギュゥゥゥン! という地鳴りのような重低音が響いてきている。
数日前に完成させた、ネクサス製第一号魔導ポンプの駆動音だ。
「ヴィン、開けろ」
俺が分厚い鉄板を叩くと、ギチギチと重々しい音を立ててかんぬきが外された。
――直後。
薄暗い坑道に、網膜を焼くような強烈な光と、むせ返るような生命の匂いが押し寄せた。
「な……っ!? まぶしっ……!?」
「うおおっ!? なんだ、何が起きてる!?」
作業員たちが声を上げ、腕で顔を覆う。
商務官も目をしばたかせ、よろめいて尻餅をついた。
鉄の扉の向こうに広がっていたのは、黒い岩肌の採掘場ではない。
見渡す限りの――黄金色に輝く、大麦の海だった。
「ようこそ、ノア。アタシの計算通り、温度も湿度も完璧だよ!」
麦畑の真ん中で、煤と機械油にまみれたドワーフの少女ヴィンデールが胸を張って立っていた。
目の下には酷い隈ができているが、その双眸は狂気じみた達成感にギラギラと輝いている。
「こ、これは……一体、何だ!? 坑道の地下に、なぜ麦畑が……それに、この光は!?」
商務官が震える指で頭上を指差した。
天井には、等間隔に配置された五十基の巨大なランプが、太陽と見紛うほどの強烈な光を放っている。
その光源の奥には、俺たちが坑道から運び出した『魔喰石』が、青白い魔力を脈打たせていた。
「『太陽光シミュレーター』だ。天候にも季節にも左右されない。二十四時間、植物の光合成に最も適した波長の光だけを照射し続ける」
俺は唖然とする商務官と作業員たちをかき分け、黄金の穂を一つ手に取った。
ずっしりと重い。見事な実入りだ。
「加えて、魔導ポンプの排熱を利用して地下の室温を常に初夏の気候に固定した。そこに買い付けた早生の種と、魔獣の骨粉を加工した特殊な燐肥を撒く。……結果、通常の数十倍の速度で生育が完了する、完全な『超速成・地下水耕栽培プラント』の完成というわけだ」
魔法使いが杖を振って出させた一時の奇跡ではない。
資本を投じ、技術を集約し、緻密な温度管理と配管のレイアウトによって組み上げた、純然たる『システムの勝利』である。
「ば、馬鹿な……。こんな、こんな無茶苦茶な理屈が……っ。自然の摂理に反している!」
「自然の摂理? 笑わせるな。俺たちは不条理な環境と飢えを、仕組みで克服しただけだ。……お前たちの『経済封鎖』など、最初から盤面の外だったんだよ」
俺は腰を抜かしている商務官を見下ろし、冷徹な事実を突きつけた。
「食料を絶てば俺たちがひざまずくと思ったか? 残念だったな。今日、この瞬間から、この旧鉱山都市バルドは『完全な食糧自給』へと移行した。お前たちの腐った麦など一粒たりとも必要ない」
「——っ!!」
商務官の顔から一瞬にして血の気が引いた。
彼の武器は「食料の供給を独占している」という優位性だけだ。
それさえ崩れれば、彼らはただの余計な部外者に成り下がる。
それどころか、天候すら無視して無尽蔵に食料を生産できるこのプラントの存在が外部に知れ渡れば、商業ギルドの市場価格のコントロールそのものが破綻する。
「お前たちは、新時代の最大の市場を自ら手放したんだ。さっさと帰って、本部の連中に報告するんだな。『見捨てられた辺境に、お前たちの首を絞める怪物が産み落とされた』とな」
「ひっ……! 狂っている……! 貴様ら、ただの野良ギルドでは……っ!」
商務官はもはや俺の顔を直視することすらできず、逃げるようにして坑道の出口へと走り去っていった。
彼らが二度と、この街で威張り散らすことはないだろう。
静寂が戻った地下プラントに、魔導ポンプの駆動音と麦の穂が擦れる音だけが優しく響く。
俺は振り返り、呆然と立ち尽くす作業員たちを見た。
「ノアの、兄ちゃん……」
獣人の少年レオが、震える手で麦の穂に触れた。
チクチクとした確かな感触。まやかしではない本物の食料。
その瞬間、レオの大きな瞳からポロポロと大粒の涙が溢れ出した。
「これ……全部、俺たちのメシ……? もう、お腹空かせて……路地裏で震えなくていいのか……?」
「ああ。だが、ただで食わせるわけじゃない。これは俺が投資した事業だ。お前たちには、きっちり労働で返してもらうぞ」
俺の言葉に、現場監督のバーツが義手ではない方の手で目頭を乱暴に拭った。
「ははっ……! どこまでも、恐ろしい雇い主だぜ。こんなモン見せられちゃあ……俺たち、一生あんたの事業に縛り付けられちまうじゃねえか……っ!」
バーツの震える声に呼応するように、巨漢のガルムが「うおおおおおっ!」と雄叫びを上げ、麦畑の中に崩れ落ちて泣き始めた。
他の住民たちも次々と膝をつき、黄金の麦を抱きしめ、互いの肩を抱き合って涙を流している。
彼らはもう、誰かに搾取されるだけの使い捨ての駒ではない。
自分たちの手で働き、自分たちの胃袋を満たせる『生産者』になったのだ。
剣は、飢えた子供一人を救えなかった。
だが、この油臭い歯車と計算し尽くされたインフラの光は、確かに百人の命を救い、尊厳を取り戻させた。
「さあ、泣いている暇はないぞ。ヴィン、お前もだ。寝るのは後回しにしろ」
「人使いが荒すぎるよ! まったく……アタシの設計をただの農場にするなんてね!」
ヴィンデールが悪態をつきながらも、誇らしげに笑う。
俺は用意していた大量の鎌を作業員たちの前に放り投げた。
「全員、鎌を持て! 第一回、大収穫祭の始まりだ。刈って、挽いて、パンを焼け! 今日は腹がはち切れるまで食わせてやる!」
作業員たちの割れんばかりの歓声が地下空間を揺らした。
***
数時間後。 地上へと通じる旧坑道の入り口には、新しく切り出された分厚いオーク材の看板が掲げられていた。
そこには、剣でも魔法の杖でもなく、歯車と麦の穂、そして重なり合う手を模した紋章が深く刻み込まれている。
背後からは、焼き立てのパンの香りと、腹を満たした作業員たちの笑い声が聞こえてくる。
俺は真新しい看板を見上げ、静かに、しかし確かな熱を持って宣言した。
「——これより、民間公共組織『ネクサス』の正式な設立を宣言する」
泥まみれの限界集落から始まった、一つの事業。
のちに既存の国家体制を買い上げ、世界中のインフラを支配して人類を救済することになる巨大組織の、これが正真正銘の産声であった。




