7:剣は抜かない
分厚い蒸気が、バルドのスラムの広場を白く覆い尽くしていた。
真新しいヒノキの端材で組まれた巨大な槽からは、絶え間なく熱湯が注ぎ込まれている。
魔導ポンプの排熱を利用した温水浴場の稼働から数日。
広場は泥と垢を落とし、人間らしい血色を取り戻した労働者たちの活気に満ち溢れていた。
「バルブの圧、よし。おい、そこの管は熱いから子供を近づけるなよ」
片腕が義手のバーツが、汗を拭いながら嬉しそうに指示を出している。
スラムに初めて訪れた、ささやかな平穏。
だが、そんな温かい空気を乱暴な足音が踏みにじった。
「どけ! どきやがれ貧民ども!!」
怒声とともに現れたのは、安っぽい香水の匂いを漂わせた肥満体の男と、その後ろに控える十人ほどの男たちだった。
手には鉄のバールやハンマーが握られている。
さらにその後方には、街の紋章が入った腕章をつけた、神経質そうな痩せ型の末端役人がふんぞり返っていた。
「ゴルド……!」
バーツが憎々しげに男の名を呼ぶ。
このスラムで腐った泥水を法外な値段で売りつけ、住民の生き血をすすってきた悪徳水商人、ゴルドだ。
「おいおい、俺のシマで勝手に『水』をばら撒いている阿呆がいると聞いて来てみれば……。なんの真似だ、これは」
ゴルドは豚のような鼻を鳴らし、唸りを上げる魔導ポンプの鉄パイプをバールで小突いた。
カンッ、と嫌な金属音が響く。
「今すぐこの薄汚い風呂をぶっ壊せ。お前ら、ウチの商会が持つ『水利権』を侵害していると分かってんのか?」
「そうだ。これは明確な違法行為である!」
ゴルドの言葉に合わせ、痩せ型の役人が羊皮紙をこれ見よがしに広げた。
「無許可での水源開発および営業行為! 直ちに設備を解体し、罰金として金貨百枚を支払うように。さもなくば……」
「俺たちのハンマーで、この鉄くずをスクラップにしてやるよ」
ヤクザ者が一歩前に出た。
入浴していた作業員たちが怯えて身を寄せ合う。
ガルムたちが怒りで拳を握りしめ、今にも飛び出そうとした——その時だった。
「そのパイプを叩き割るのは勝手だが、やめておいた方が身のためだぞ」
群衆が割れ、俺はゆっくりと歩み出た。
「中には高圧加工された沸騰水が通っている。下手に亀裂を入れれば、お前たちの顔面は一瞬で茹でダコのように焼け爛れることになる」
淡々とした俺の警告に、バールを振り上げていた男の動きがピタリと止まる。
「てめえが、このギルドの代表か」
ゴルドが顔を真っ赤にして俺を睨みつけた。
「ハッタリを抜かしやがって。いいか、この街の地下水脈はすべて俺たち水商会と役所が管理してんだ! 勝手に水を汲み上げてタダで配るなんて真似、法律が許さねえんだよ!」
「なるほど、法律か」
俺はコートの懐から、重厚な蜜蝋の封印が施された分厚い羊皮紙の束を取り出した。
それを見た瞬間、後ろにいた役人の顔からスッと血の気が引く。
ただの紙切れではない。国家承認の印章が押された、絶対的な公文書だ。
「これは『旧大坑道買い上げ時の契約書』だ。役人殿、そこの第三項を読み上げてくれないか?」
俺が羊皮紙を突きつけると、役人は震える手でそれを受け取り、かすれた声を絞り出した。
「だ、第三項……『本坑道に関する一切の権利、および……直下の地下四層に至るまでの水脈・鉱脈の独占的占有権は、買受人であるノア・レクシオンに帰属する』……っ」
「その通りだ」
俺は役人の手から契約書を回収し、ゴルドを見下ろした。
「このポンプが汲み上げているのは、俺が私財で買い取った敷地の、さらに地下深くにある水脈だ。街の共有水脈とは一切繋がっていない。つまり、俺が自分の土地の水を誰に配ろうが、お前たちの水利権には微塵も抵触しない」
「な……っ」
ゴルドの肥満体がワナワナと震え始めた。
「ふ、ふざけるな! 屁理屈をこねやがって! ええい構わん! 法律がどうあれ、俺の商売の邪魔をする奴は許さねえ! 野郎ども、やっちまえ!!」
ヤクザたちが雄叫びを上げて距離を詰めてくる。バーツやガルムが身構えた。 だが、俺は武器に手を伸ばすことすらしない。
「抜きたければ抜けばいい。だが、暴力で解決しようとするのは三流のやることだ」
俺は冷酷な事実を淡々と突きつけた。
「お前たちが今までスラムで売っていた泥水……あれの水源は、昨日まで国が管理していた旧坑道の排水だ。つまりお前たちはこの十年間、国の共有財産を無断で盗み出して売り捌き、莫大な脱税を重ねていたことになる」
「なっ……!?」
「俺はこの土地を国から買い受けた際、同時に『過去の過年度資産査定権と不正告発権』も取得している。この十年分の横領と脱税の証拠を中央監査局に提出すれば、お前たちは良くて終身坑夫、悪ければ絞首台だ」
「ひぃっ……!」
「役人殿、お前もだ。こいつの不法行為を黙認し、賄賂を受け取っていたとなれば……この契約書にサインをした中央の監察官が黙っていないぞ。それとも、一緒に首を括るか?」
「ひ、ひぃぃっ!! わ、私は無関係だ! この男に騙されていただけで……っ!」
役人は一目散に踵を返し、転がるように広場から逃げ出していった。
後ろ盾の権力を失い、法的にも完全に詰んだことを悟った男たちも、次々とバールを捨てて逃げ散っていく。
「あ……あ……っ」
後に残されたのは、膝から崩れ落ち、滝のような冷や汗を流すゴルドだけだった。
「さて、ゴルド商会。損害賠償と不法利得の算定を始めようか」
俺は絶望に染まる男の顔を見下ろし、静かに笑いかけた。
***
数時間後。 広場の隅に設置された急造の執務室で、俺は革袋の口を開いた。
ジャラリ、と重厚な音を立てて黄金の輝きがこぼれ落ちる。
ゴルドの商会が溜め込んでいた全財産——金貨五百枚。過去の不正告発の見送りと引き換えに、合法的な賠償金および事業買収費用として回収したものだ。
「す、すげえ……。あんな悪党から、血の一滴も流さずに身ぐるみ引っぺがすなんて……」
バーツが積まれた金貨の山を見て、呆然と呟く。
「情報と契約は、扱い方次第で剣よりも鋭く相手の急所を抉る。それだけのことだ」
俺は金貨を一枚手に取り、その冷たい感触を指先で確かめた。
労働力を確保し、インフラの基盤を作り、そしてついに、外部市場と取引するためのまとまった現金を手に入れた。
「これでようやく、外の市場と戦える軍資金ができた」
俺の言葉に、バーツが身震いするような笑みを浮かべる。
泥にまみれた廃棄都市からの逆襲。
ギルド【ネクサス】の真の反撃が、今、始まろうとしていた。




