34:水と油の歓迎会
空からは相変わらず、粉雪のように炭塵が舞い落ちていた。
モルディスが操る荷馬車が、石畳が敷き直されたばかりのバルドの広場に到着する。
車輪が止まると同時に、共同洗濯場からアンナたち女性陣や、警備巡回中だったレオが珍しそうに集まってきた。
幌をめくり、長い足が荷台から下りる。
現れたのは、擦り切れた白衣を羽織った長身の青年だった。
無造作に束ねられた長い髪、透き通るようなヘーゼルナッツの瞳、そして彫刻のように整った甘い顔立ち。
汗と泥にまみれた重労働班の男たちばかりを見慣れていたアンナたちは、その浮世離れした美貌に思わずポッと頬を赤らめた。獣人のレオでさえ、目を丸くして見上げている。
しかし、次の瞬間だった。
青年――イグナーツ・ラボラトリウムは、むせ返るような濃厚な排煙を、まるで極上のワインの香りを嗜むように胸いっぱいに吸い込んだのだ。
「ああ……なんて素晴らしい不完全燃焼の匂いだ。一酸化炭素と硫黄が完璧なステップで踊っている! まさに世界一美しい毒の空じゃないか!」
恍惚とした表情で両手を広げ、天を仰ぐイグナーツ。
その異様すぎる光景に、アンナたちの顔からスッと好意の色が消え去った。
引いた、という生易しいものではない。
(あ、この人もノア様と同じ『そっち側』の人だ……)という、絶対的な真理を悟ったような諦めの目だ。
「おい、いつまで毒の空を味わっている。さっさと執務室へ来い」
荷馬車から降り立った俺が声をかけると、イグナーツは「人使いが荒い主だ」と肩をすくめ、軽やかな足取りで俺の後を追ってきた。
***
執務室には、既にネクサスの幹部たちが集められていた。
分厚い帳簿を抱えた財務長セリアーナ、手入れの行き届いた長槍を背負う警備総責任者レギナ、そして油まみれの作業着を着た技術開発長ヴィンデール。
「紹介しよう。今日からネクサスの環境インフラ責任者、ならびに化学部門長となるイグナーツ・ラボラトリウムだ」
俺の紹介に対し、イグナーツは優雅にお辞儀をした。
「よろしく頼むよ、麗しきレディたち。さっそくだが、僕の偉大な研究のために、とりあえず金貨百枚ほどを用立ててくれないかな?」
ウインクを飛ばすイグナーツに対し、室内の温度が一気に氷点下まで下がった。
「……代表」
セリアーナが、完全に冷え切ったアメジストの瞳で俺を見た。
「この無駄に顔が良いだけの浪費家は、いつ頃までに、いくらの利益を生み出すのですか? 明確な稟議書と投資回収率の証明がないなら、一銅貨たりとも出しませんよ」
「つれないなあ、数字の神官殿。ならば君はどうだい、そこの武骨な騎士殿」
イグナーツは意に介さず、今度はレギナへと歩み寄った。
「その革鎧に塗られている酸化防止の油、成分が古いよ。僕が調合した溶剤を混ぜれば、防刃性がさらに――」
ドンッ!
気安く触れようとしたイグナーツの鳩尾に、レギナの長槍の石突が容赦なくめり込んだ。
「ぐふっ……!」
「軍律第一条。上官および同僚への許可なき身体接触は厳罰に処す。貴様、背筋を伸ばせ。ここは貴族の夜会ではないぞ」
ゴホゴホと咳き込むイグナーツを見下ろし、レギナが氷のような声で告げる。
だが、イグナーツは痛みに顔を歪めながらも、なぜか嬉々とした瞳で二人をじっと観察し始めた。
「……ふふっ、なるほど。この脈拍の急激な上昇、過剰な防衛反応、それに皮膚の艶から読み取れる特有の生理バランス……」
彼は白衣の汚れを払いながら、純粋な理学的分析結果として、その言葉を口にした。
「君たち二人とも、男を経験したことがないね?」
バキッ。 セリアーナの手の中で、愛用の羽ペンが真っ二つにへし折れた。
レギナの全身から、先ほどまでの警告とは次元の違う、本気の殺気が迸る。
「なっ……! き、貴様、今なんと言いました……!?」
「下衆め。その減らず口、今ここで縫い付けてやる!」
「事実を言ったまでじゃないか! 生物学的に未成熟な反応モデルとして極めて興味深いと――」
「そこまでだ」
俺は執務机を強めに叩き、三人の惨状を制止した。
イグナーツに下心など微塵もない。
彼はただの実験結果を口にしただけだが、それを人間社会ではただの暴言と呼ぶのだ。
(……放っておけば、本当にレギナに物理的に解体されかねないな)
「おい、ヒョロガリ」
殺気立つ二人の間を割って、ドワーフの血を引く小柄なヴィンデールが前に出た。
彼女は脇に抱えていた黒い塊――魔喰石の精錬過程で生じる硬い不純物の塊を、ドンッと机の上に置いた。
「顔合わせのお遊びはどうでもいい。お前がアタシの可愛い反射炉に小細工をするって聞いたがね。魔法も精霊も使わねえもやしっ子に、何ができるってんだい?」
歯車と蒸気だけを信奉するヴィンデールにとって、目に見えない気体を操る化学など、オカルトや魔法と同類だ。
だが、イグナーツの瞳からふざけた色が消え、冷たい研究者のそれに変わった。
「小細工かどうか、君自身の目で確かめるといい」
イグナーツは懐から小さなガラス瓶を取り出した。
ガレリアの廃倉庫で見せた、あの猛毒の廃液を薄めたものだ。
彼はコルクを抜き、ガラスのスポイトで一滴だけ、机の上のスラグに垂らした。
ジュワッ……!
不気味な泡立ちとともに、白い煙が立ち上る。
ヴィンデールがどれだけ高熱の炉で焼いても溶けなかったその岩のように硬い塊が、一滴の液体に触れた箇所から、まるで砂糖菓子のようにボロボロと崩れ落ちたのだ。
「な……っ!?」
ヴィンデールが目を見開き、スラグの残骸に顔を近づける。
「力技だけが能じゃない。僕の化学と君の蒸気を組み合わせれば、この街の生産効率は三倍になる。……どうだい、おチビちゃん。僕の思考速度に、君の配管技術はついてこれるかな?」
挑発的に笑うイグナーツ。
ヴィンデールは崩れたスラグの感触を指で確かめると、ニヤリと凶悪な笑みを浮かべた。
「……チッ、面白えじゃねえか。アタシの配管技術を舐めるなよ、変態。今日から寝る間もないと思え」
水と油のような二つの異端の才能が、確かな技術という共通言語を通して噛み合った瞬間だった。
「顔合わせは済んだな」
俺は立ち上がり、イグナーツに一枚の羊皮紙を投げ渡した。
「さっそく仕事だ、イグナーツ。明日までに、ヴィンの反射炉に繋ぐ排煙浄化装置の設計図を上げろ。資金の承認は、セリアーナが納得する数字を出してからだ」
「ははっ、人使いが荒いのは変わらないな! いいだろう、僕の芸術でこの街の空気を塗り替えてみせる!」
怒りでまだ肩を震わせているセリアーナとレギナを余所に、狂気の化学者はペンを握り、嬉々として羊皮紙に複雑な化学式と図面を引き始めた。
ネクサスの歯車はまた一つ増え、より強大な推力を得て回り始めている。




