33:毒の適正価格
ガレリアの裏路地。腐敗した残飯の臭いと、微かな薬品の香りが混ざり合う廃倉庫。
薄暗い内部には、複雑に組み上げられたガラス管や、得体の知れない液体が満たされたフラスコが所狭しと並んでいた。
そこは、魔導士ギルドが「禁忌」として切り捨てた、純粋な法則が支配する聖域だった。
「ようこそ、マイ・ロード。あるいは――『光芒の剣』の計算機さん」
イグナーツ・ラボラトリウムは、蹴り割られたフラスコの破片を銀のピンセットで拾い上げながら、愉快そうに喉を鳴らした。
束ねた長い髪を弄び、その彫刻のような美貌に不釣り合いな、粘着質な視線を俺に向けてくる。
「……古い肩書きを引っ張り出してきたな」
俺は、煤けた作業台の上に置かれた中身のわからない緑色の液体を眺めながら答えた。
「古い? まさか。聖ルミナス王国軍、北部方面隊輜重連隊、第三補給中隊。君が雑務係として綴っていたあの行軍予定表は、僕ら異端の徒にとっては伝説だよ」
イグナーツはピンセットを置き、踊るような足取りで俺の周囲を回り始めた。
「魔力を持たない子供が、馬車の車軸の摩耗率を予測し、泥濘の深さから行軍時間を分単位で算出した。君が後の勇者『ソル・ラーク』に引き抜かれたのは剣の腕じゃない。一ポンドの干し肉の狂いもなく、数千人の命を飢えから救い出した、あの呪わしいほど美しい計算式だ」
イグナーツの瞳には、かつて俺が泥にまみれて帳簿を汚し続けた日々への、純粋な敬意と狂信が宿っていた。
彼は、王都の人々が称える「魔王軍の幹部を討った英雄」には欠片の興味もない。
彼が求めているのは、世界を一つの巨大なシステムとして捉え、管理しようとする同類の狂気なのだ。
「君が勇者パーティーの腹を満たすために、後方でどれだけのロジックを背負って帳簿を汚してきたか、僕は知っているよ。だからこそ訊きたいんだ。そんな男が、なぜあんなゴミ溜めのようなバルドを買い取った?」
「ゴミ溜めだからだ」
俺は冷徹に言い放った。
「価値のない場所ほど、仕組み一つで生み出せる利益率は大きい。俺の街には、既存のギルドが捨てた『不要物』が必要なんだ」
「ははっ、いい答えだ! ならば、試練といこうか」
イグナーツは動きを止め、作業台の上の緑色の液体――ドロドロとした残留物を指し示した。
「これは僕の実験で生じた化学廃棄物だ。魔導士ギルドの馬鹿どもは、これを処理不能な猛毒として川に捨てろと言った。触れるだけで皮膚を溶かし、土に埋めれば十年は草木も生えない、救いようのない毒だよ」
イグナーツの顔から笑みが消え、真剣な狂気がその相貌を塗りつぶす。
「さあ、輜重兵の旦那。この毒を二十四時間以内に、君の街を豊かにする資源に変えてみせろ。魔法も剣も、英雄の名声も使わずに。……成功すれば、僕という歯車を君に捧げよう。失敗すれば――」
彼は俺のコートの内側、セリアーナが心血を注いで記した『ネクサスの帳簿』を指差した。
「その帳簿を、この僕の傑作で溶かさせてもらうよ」
背後で見張りをしていたモルディスが「旦那、無茶だ!」と声を上げる。
だが、俺はそれを手で制した。
俺は一歩、作業台に歩み寄る。
ツンと鼻を突くのは、高濃度の酸と、金属が酸化したような独特の重い香り。
俺は指先に巻いた耐酸性の革布を使い、その緑の液体を僅かに掬い上げた。
革が瞬時にジュッと音を立てて黒く変色する。凄まじい腐食性だ。
だが、俺の視界の中で、その毒液はただの毒としては映っていない。
(……この腐食の速度。鉄は溶かさず、不純物である硫黄分と特定の鉱物組織だけを優先的に分解しているな。ヴィンが言っていた、魔石の精錬過程で生じる『不溶性スラグ』の性質に酷似している)
俺の脳内で、バルドの魔喰石採掘現場と、広場に積み上げられた錆びた鉄屑の山が高速で連結されていく。
さらに、アルキメデスがぼやいていた「低純度鉄の再精錬コスト」の数字が重なった。
「イグナーツ。お前はこの毒を、特定の金属を溶かすためだけに使っただろう?」
「……そうだよ。それが何か?」
「ゴミが毒になるのは、使い道を知らない無能が管理しているからだ。俺の街では、それは『富』に変わる」
俺は懐から一枚の白紙の羊皮紙を取り出し、その場でペンを走らせた。
描き出したのは、バルドの反射炉の排熱ラインと、この毒液を攪拌するための循環槽を組み合わせた、新たなインフラの工程図だ。
「この毒は、バルドで採掘される低純度の魔喰石に含まれる不純物を、極めて短時間で溶解除去する強力な『触媒』になり得る。今までは熱魔法で無理やり焼き切っていたが、これを使えば燃料消費を三割削減し、抽出純度を二段階引き上げられる」
イグナーツの目が、初めて大きく見開かれた。
「さらに、反応後の廃液からは中和の過程で大量の石膏が得られる。それは建設ラッシュに沸くバルドの建材として、トマスたちが泣いて喜ぶ資材だ。……毒をゴミとして捨てるから赤字が出る。インフラの歯車に組み込めば、それはただの燃料であり原料だ」
俺は工程図をイグナーツの目の前に突きつけた。
「二十四時間もいらない。今この瞬間、俺はこの毒の価値を『金貨五百枚相当のコスト削減装置』として再定義した。異論はあるか?」
廃倉庫に、静寂が降りた。
イグナーツは羊皮紙を奪い取るように掴むと、穴が開くほどその図面を見つめた。
彼がこれまでの人生で魔導士たちに訴えてきた理屈。
それは常に「そんな面倒な計算をするより、魔法で燃やせばいい」と一蹴されてきたものだ。
だが今、目の前の男は彼の狂気を否定せず、それどころか「都市を回すための重要な部品」として、冷徹な数字のなかに組み込んでみせたのだ。
「……く、くく……あははははは!」
イグナーツが、腹を抱えて笑い出した。
その笑い声は廃倉庫の天井に反響し、狂気と歓喜が入り混じった異様な音となって響き渡る。
「イカれている。本当にイカれているよ、君は! 毒を食わせて街を太らせるつもりかい? 英雄が聞いて呆れる、世界で一番非情で効率的な救済だ!」
イグナーツは涙を拭い、唐突に真顔になると、優雅な所作で俺の前に膝をついた。
「合格だよ、マイ・ロード。君が綴るあの帳簿の一部になれるなら、僕は地獄の空気だって浄化してみせる」
美しい青年の顔に、ネクサスの幹部たちに特有の、あの諦めの悪い狂信が宿った。
「決まりだ。明日、モルディスの馬車に乗れ。バルドの空は今、お前が愛でるべき『毒の煙』で満ちている」
俺は冷たく言い放ち、廃倉庫をあとにした。
背後でイグナーツが、嬉々として荷造りを始める音が聞こえる。
また一つ、ネクサスの心臓を動かすための、代わりの効かない異端の歯車が噛み合った瞬間だった。




