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32:魔法と科学。剣と経済。

 中立都市ガレリア。

 

 商業ギルド連盟の地方本部が置かれ、大陸中のあらゆる物資と金が集まる『世界の胃袋』とも呼ぶべき巨大都市だ。


 分厚い石造りの城壁をくぐり、モルディスが操る荷馬車の御者台から見下ろした街の風景は、最果てのバルドとは比べ物にならないほどの活気と色彩に満ちていた。


「どうです、ノアの旦那。相変わらず凄まじい人出でしょう。世界中の商人がこの街の相場を基準にして動いてるんですから」

 

 小太りの流れ商人モルディスが、汗を拭いながら得意げに笑う。


「……そうだな。だが、少し景色が変わっている」

 

 俺は石畳の大通りに広がる露店や商店の並びを冷徹に観察しながら呟いた。

 

 巨大な市場の一角。本来ならドワーフの鍛冶師が打った高級な工具や、職人ギルドが認定した高価な部品を扱う店が並ぶ『鉄製品の通り』だ。


 しかし今、その立派な店構えの前には閑古鳥が鳴いている。店主たちは腕を組み、忌々しそうに路地裏の方を睨みつけていた。


 彼らの視線の先、薄汚れた露天商の前にだけ、現地の工夫や建築業者が黒山の人だかりを作っているのだ。


「ネクサス印の六角レンチ、あと十本だ! 寸分の狂いもねえ完璧な規格品! しかも値段は職人手打ちの十分の一だぞ!」


「こっちの歯車もくれ! 前回買ったやつとピッタリ噛み合ったんだ。予備にもう三個ほど持っておきたい!」


 飛び交う怒号のような注文。


 露天商の荷箱に積まれているのは、アルキメデスが死に物狂いで打ち出したネクサス製の規格品たちだった。


「ひひっ、笑いが止まらねえでしょう、旦那」


 モルディスが揉み手をして顔を寄せてくる。


「先日の関税免除の条約ってのは恐ろしい品物ですね。あんたの街で作った安くて精密な鉄屑が、この数週間でガレリアの工具市場の相場を完全にぶっ壊しちまったんですから」


 職人のブランド力や『精霊の加護』といった曖昧な付加価値。


 それらは、圧倒的な『安さと均一性』という現実的な価格差の前ではあまりに無力だった。


 ネクサスの製品は、商業ギルドの膝元であるこの街の経済を、静かに、しかし確実に侵食し始めている。


「視察としては十分だ。ガレリアの経済は俺たちの計算通りに回っている」


 俺は荷馬車の幌に背を預け、視線を大通りの奥へ向けた。


「だが、今日の目的は別だ。モルディス、馬車を裏通りへ回せ。この街で一番『掃き溜め』のような場所へ行きたい」


「掃き溜め……? スラムですか?」


「違う。魔導士ギルドや職人ギルドから、異端として追放された連中が吹き溜まっている場所だ」


 この世界は、圧倒的な『魔力至上主義』だ。


 体内に宿る魔力の総量や、炎や氷といった目に見える破壊力、あるいは精霊の加護。それが絶対的な正義と権威として君臨している。


 逆に言えば、それにそぐわない理屈や、魔力を伴わない地道な研究は、どんなに有益であろうと徹底的に排斥されるのだ。


 バルドの空を覆う『黒い雪(炭塵)』を浄化するための環境インフラの要。


 俺が探しているのは、そんな理不尽な魔力至上主義からこぼれ落ちた、真の専門家だった。


 ***


 ガレリアの裏通りは大通りの喧騒が嘘のように静まり返り、冷たい湿気とドブの悪臭に満ちていた。


 日差しすら届かない狭い路地を歩いていると、前方の開けた場所で一方的な暴力の現場に遭遇した。


「いい加減にしろ、イグナーツ! 炎も氷も生み出せないくせに、目に見えない気体を混ぜ合わせるなど、素人のお遊びだ! ギルドの面汚しめ!」


 星の紋章が刺繍された上質なローブを着た、魔導士ギルドの若手たちだ。


 彼らは権威を笠に着て、地面に広げられていた奇妙なガラス管やフラスコの類を乱暴に蹴り飛ばしていた。


 ガシャンッ! と澄んだ音が響き、透明な液体が石畳にぶちまけられる。


「魔法とは『破壊』と『創造』の奇跡だ。貴様のような理屈っぽい小細工は、ただのゴミでしかない!」


 若手魔導士たちはそう吐き捨てると、満足げに笑い合いながら去っていった。


 あとに残されたのは、蹴り割られた実験道具と――長い髪を無造作に束ねた、長身の青年だった。


 みすぼらしい白衣を羽織ってはいるが、その顔立ちは彫刻のように美しく、通りがかった女ですら思わず振り返るほどの整った容貌をしている。


 しかし、彼の瞳は去っていった魔導士たちへの怒りでも、割られた道具への悲しみでもなく、まったく別の『狂気』に支配されていた。


「……ああ、素晴らしい」


 青年は足元のドブにしゃがみ込み、割れたフラスコの破片から立ち上る微かな無色の気体を、まるで恋人を見るようなうっとりとした目で見つめていた。


「この温度、この湿度。硫化水素と二酸化硫黄の反応による還元現象……混合比率は完璧だった。魔力などという不確かなオカルトを介在させずとも、世界はこんなにも美しい法則で満ちているじゃないか」


 彼が恍惚と呟いた直後だった。

 俺の鼻腔を突いていた、路地のドブから立ち上る強烈な腐臭が一瞬にして消え去ったのだ。


(……なるほど。魔法による消臭じゃない。化学反応によって、悪臭の原因物質そのものを中和し、別の無臭の物質に変換したのか)


 炎や氷を生み出す魔法使いから見れば、それはただの地味な手品に見えるだろう。

 だが、俺の見ているレイヤーは違う。


 目に見えない気体を自在に操り、空気の成分を物理的に変換するその技術は、バルドの空から炭塵を消し去るための『究極のフィルター』そのものだ。


「おい、そこの狂人」


 俺は歩み寄り、しゃがみ込んでいる青年に声をかけた。


「魔法ではなく、仕組みで空気を変えたな。お前のその理屈、俺の街で買い取りたい」


 青年はゆっくりと立ち上がり、白衣の裾を払いながら俺を振り返った。

 透き通るようなヘーゼルナッツの瞳が、俺の全身を品定めするように見つめてくる。


「……おや。魔力を持たないただの人間が、僕の科学の価値を理解できるのかい?」


「理解はできない。だが、お前のその『気体を混ぜる小細工』が、俺の街の排煙問題を解決する歯車になるとは理解できる。名前は?」


「イグナーツ・ラボラトリウム。元・魔導士ギルド第三研究室所属……今はただの、石ころ拾いさ」


 イグナーツは、美しい顔にひどく歪で狂気的な笑みを浮かべた。

 彼もまた、俺の瞳の奥に宿る同類の匂いを嗅ぎ取ったのだろう。


「いいよ。君、すごくいい目をしているね。損得じゃなく、システムを回すこと自体に命を懸けている、正真正銘の狂人の目だ」


 イグナーツは割れたフラスコを足で避け、俺の目の前まで歩み寄ってきた。


「僕を雇いたいなら、金貨なんていらない。僕のこの科学に対する圧倒的な好奇心を、君の資金と環境で満たしてくれ。……君が本当に僕のパトロンにふさわしい男かどうか、一つ『試験』をさせてもらおうか」


 魔法と科学。剣と経済。

 異端の才能との、歪な人間同士の交渉が、薄暗い路地裏で静かに幕を開けた。

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