31:黒い雪
バルドの朝は、かつて鉄錆と腐肉の匂いに支配されていた。
魔喰石が枯渇し、国に見捨てられた廃棄都市。風が吹くたびに絶望と飢えが路地裏を這い回るのが、この街の日常だった。
だが今、空気を満たしているのは別の匂いだ。
鼻腔を突く石炭の焦げる匂い。
そして、ヴィンデールが組み上げた巨大な反射炉から絶え間なく吐き出される、濃厚で暴力的な排煙。
ゴォォォ……という炉の鳴動が、大地を小刻みに震わせている。
執務室の窓から広場を見下ろすと、空から粉雪のように黒い粒が舞い落ちていた。
炭塵だ。
容赦なく降り注ぐ黒い雪は、トマスたちが組み上げたばかりの真新しいヒノキの長屋の屋根を薄汚れた鼠色に染め上げ、踏み固められた道を黒く汚している。
広場では、モルディスの荷馬車から下ろされた鉄屑の山を、ガルム率いる重労働班が汗だくになって運んでいた。
彼らの屈強な肉体も、流れる汗に炭塵がへばりつき、まるで黒い泥人形のような有様だ。
だが、その顔には活気が満ち、威勢の良い掛け声が途切れることはない。
しかし。
その活気に満ちた男たちとは対照的に、共同洗濯場の裏手に立つ数人の影は、険しい顔で黒く煙る空を見上げていた。
女性陣だ。
彼女たちの足元には、魔導ポンプの温水で洗い上げられたシーツや作業着が山積みになっているが、それを干すためのロープは空のままである。
アンナは深く眉間を寄せ、手にした洗い立ての布巾をぎゅっと握りしめていた。
「……計算通りにはいかないものだな」
俺は窓枠に積もった黒い煤を指でなぞり、その指先を油紙で拭き取った。
産業の発展には、必ず物理的な摩擦が伴う。
それは兵站の計算をしていた頃から嫌というほど見てきた。
工業化という巨大な歯車を回し始めた代償が今、この街に物理的な『公害』となって降り注いでいるのだ。
バンッ!
不意に、背後の重いオーク材の扉が乱暴に開け放たれた。
振り返るまでもない。この街で俺の執務室の扉をノックなしで蹴り開ける権利を自称しているのは、一人しかいない。
「代表。今すぐ、あの忌々しい煙突の稼働を半日に制限してください」
冷たく澄んだ、だが明確な怒りを孕んだ声。
財務長セリアーナ・ヴァイスだ。
彼女はいつもの濃紺の服に身を包み、分厚い革張りの帳簿を胸に抱えてズカズカと部屋に入ってきた。その後ろには、困惑した表情のアンナが控えている。
「稼働制限は却下だ」
俺は執務机に戻り、積まれた羊皮紙に目を落とした。
「ガレリアとの通商条約が結ばれた今、俺たちの規格品は外貨を稼ぐ唯一の武器だ。反射炉の火を落とせば、アルキメデスの生産ラインが止まる。それはネクサスの心臓を止めるのと同じだ」
「心臓が止まる前に、私の胃に穴が開きそうなんですよ!」
セリアーナはドンッ! と机の上に帳簿を叩きつけた。
彼女の怒りの理由は、決して「肌や服が汚れるから」などという情緒的なものではない。
「見てください、このページを!」
彼女が血の滲むような勢いで開いたページ。
そこには、彼女の誇りである完璧な複式簿記の数字が並んでいる。
だが、その白地の端々に、細かい黒い点が点在していた。
「窓を閉め切っているにもかかわらず、どこからともなく煤が侵入してくるのです。昨日、この煤の塊が『1』の横に落ちて『7』に見えるという致命的なインシデントが発生しました。たった一つの数字の誤認が、どれほどの資産消失を招くか、代表ならお分かりですね!?」
数字の狂女は、充血したアメジストの瞳で俺を射抜く。
一厘の狂いも許さない彼女にとって、帳簿の精度を脅かす物理的な汚れは、敵の強襲よりも恐ろしい大災害なのだ。
「それに、私だけではありません。アンナさん、現状を報告しなさい」
促され、アンナが一歩前に出た。
彼女は俺を前に少し委縮していたが、その手には炭塵で汚れた白いシーツが握られていた。
「ノア様……。その、現場からも切実な苦情が出ておりまして」
アンナは申し訳なさそうに、だが引き締まった声で告げた。
「せっかく魔導ポンプの温水で洗い上げても、外に干せば数分でこの通り、煤だらけになってしまいます。これでは洗った意味がありません」
「地下の乾燥室を使えばいい。ヴィンが排熱を利用した設備を作ったはずだ」
「乾燥室の容量には限界があるのです。ネクサスの従業員は現在、百五十人を超えています。重労働班の汗にまみれた作業着は毎日洗わなければ悪臭と皮膚病の原因になりますが、今の乾燥室の広さでは、全員分をその日のうちに乾かすことは到底不可能です」
アンナの言葉は、現場の生活に根ざした極めて現実的な破綻の報告だった。
衣服の不衛生は、シラミや皮膚炎を引き起こす。
それだけでなく、労働後の一息つくための清潔な寝具が奪われれば、従業員の疲労回復率は確実に低下する。
「……なるほどな」
俺はペンを置き、深く椅子に背中を預けた。
普通の領主であれば、これを「女の小言」や「発展の犠牲」として切り捨てるだろう。
だが、俺の見ているレイヤーは違う。脳内で冷徹な試算が走り始める。
(炭塵による生活環境の悪化は、長期的に見れば呼吸器系疾患の発症率を確実に押し上げる。現場の兵員が病に倒れれば稼働率が下がり、医療インフラのないこの街では治療費という無駄なコストが跳ね上がる)
さらに問題なのは、今後の人員獲得における致命的なボトルネックになる点だ。
(俺たちは今後、ガレリアや王都から優秀な技師や文官を買い上げなければならない。だが、空から黒い雪が降る街に、好き好んで移住してくる人間がどこにいる?)
ただの空気の汚れではない。これはネクサスの資産価値と将来の成長を削り取る『見えざる負債』なのだ。
「……アンナ。乾燥室の増設はヴィンに指示を出す。だが、根本的な解決にはならないな」
俺がそう呟くと、セリアーナが腕を組んで頷いた。
「ええ。ヴィンデールに煙突のフィルター改修を要求しましたが、彼女の技術はあくまで『魔力の熱変換と動力制御』が専門です。排気中の微粒子を吸着・無害化するような化学的、あるいは錬金術的なアプローチは専門外だと匙を投げられました」
歯車と蒸気だけで、この毒の雪は止められない。
街の規模が大きくなれば、求められるインフラの次元も上がる。
一つの事業の成功が、次の巨大な課題を生み出す。これこそが、組織を運営するということの理だ。
「……なら、新たな『歯車』を手に入れるしかないな」
俺は机の上の羊皮紙から、ガレリアとの通商条約の控えを引き抜いた。
「俺たちの提示した条件に屈した商業ギルド連盟。奴らの市場には、あらゆる物資だけでなく、あらゆる『人材』が集まるはずだ」
魔導士ギルドから異端として追放された錬金術師。
あるいは、既存の学閥に馴染めなかった本物の技術者。
この空を覆う排煙を浄化する環境インフラを構築できる、新たな専門家が外の世界には必ず眠っている。
「セリアーナ。モルディスの次回のガレリア行きの馬車に、俺も乗る」
「代表自らが、ですか?」
「ああ。通商条約が正しく履行されているかの視察という名目だ。……だが真の目的は、この街の空を綺麗にするための、新たな才能の『買収』だ」
俺は窓の外、黒い煙を吐き続ける反射炉を見据えた。
「病に倒れる前に予防線を張る。それが最も安上がりな投資だからな」
アンナが安堵の表情を浮かべて深く頭を下げ、セリアーナも「帳簿の汚れがなくなるなら歓迎します」と不敵に笑う。
限界集落からの脱却を果たしたネクサスは今、地方都市・工場街としての新たな産声と痛みのなかにいた。
この黒い雪を払いのけるため、俺は再び外の世界へ、経済という名の軍勢を率いて打って出る決意を固めたのだった。




